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人はなぜ王をつくったか?

2011-03-09 22:35:42 | 歴史
思考実験というか,想像。

たぶんですが,国家の成立において,おそらくほとんどの国は王国だったのではないでしょうか?つまり君主がいるっていうのが国家だったと思います。

国家の成立は確か,最初は穀物の農耕が始まり,それにより蓄財がおき,貧富の差が発生する。また,農耕は獲物を追っての移動がないので,集落となる。これにより集落においてリーダーが固定化し,さらにそれが巨大化していくと国家になっていく,という様なことだったと思います。

最初の集落では,どこかの段階でリーダが出てきて,それが単なるリーダか,族長,王…となる境界は,一つは世襲になることの様に思います。自由に入れ替えが可能なうちは,王とは呼べないでしょう。

集落が更に集落をまとめていくとそのうち国家になりますが,それが話し合いではなく,武力により行う場合は強力なリーダシップが必要ですし,負けた方が支配を受けるので,ますます王は王らしくなるように思います。

さて,なぜ人は王をつくるのでしょう。富を蓄えるのは一人や一家族で出来るにしても,それが権力をもち,他の人達を束ねるには,財力だけでは無理のように思います。他の人達が,いうことを聞かなかったり,富を略奪すれば,富むものが権力者にまではなりません。おそらくそういう権力者(リーダ)は,メンバーがそういう人を望むから産まれるのではないでしょうか。

実際現在でも集団をつくり,効率よく活動をしようとすると,リーダを決めた方が効率が良く,自然発生的にリーダが決まることがあります。リーダが決まれば,他のメンバーはいうことをそれなりに聞きます。そしてその集団が大きくなれば,リーダの権力は強くなり,理不尽な権力にもメンバーはいうことを聞くようになりま。

つまり人は,支配するもの,されるもの…に自然にわかれるという習性があるということです。

それは,多分,集団での意思決定が合議ではなく,誰かに委譲して,一括して行われる方が効率がよい…というのが無意識に分かっているのでしょう。また他の集団と争う場合,意思決定を行わないと勝てないし,集団内でいざこざが起きたときも,誰かに調停をしてもらった方が,収まるということを皆知ってるということでしょう。

では,なぜ単なるリーダが王になるのでしょうか?。リーダの権力が強化されるのは,集団が大きくなれば,自然とそうなるような気がします。カルト集団が小さいときから巨大化していくに連れ,権力がトップに集中するというのをみると,多分そういうものなのでしょう。そしてリーダに権力が集中した結果,リーダが自身の後継者を自身により選ぶことになる…,そうなると普通は世襲になってしまう…という辺りが王になるということなのでしょうか。

つまり,リーダに権力が集中するのは,リーダが悪いのではなく,本来人はそういう習性だということ。誰かに力を委譲し,いうとおりに行動する方が,楽だし,効率的だ…と無意識に思っているって事でしょう。

さて,そう考えると,独裁者というのは悪いものなんでしょうか?。独裁者や,権力者としての王は良くないものなんでしょうか?。

今の社会では,大国はほとんどが選挙によりリーダを選んでます。王家があっても権力はなく,別のリーダが政治をするという形が普通です。しかし,ヨーロッパだって,フランス革命までは,王国が普通でした。革命があちこちで起きて,結果的に共和制になったり立憲君主国になったりしております。

今,世界を見て思うのは,先進国以外の国では「大統領」という名前の王様が多いように思います。実質として数十年も在位し,入れ替えが不可能,世襲を行う…のであれば,大統領というより,王様の様な気がします。でもなぜか大統領と呼ばれてます。なんか変だな…と思うと共に,王様と名乗ってはいけないのだろうか?。王様や独裁者と名乗ると先進国からなぜ非難されるのだろうか?…と疑問に思ったりします。
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