『地水火風空』

【TamuraTech Japan】のブログ

『宇佐・宗像見参!』(2014.10)の衝撃 その1

2015-04-29 | 神社おそうじ隊 2014
2011年2月に活動を開始した『神社おそうじ隊 見参!』。
「敬意と感謝」を届けゆく、という活動当初からの行動原理はそのままに、回を重ねるごとにその「質」は、より洗練され、よりピュアさを際立たせてきているように、私には感じられています

傍目には、ただただ様々な地域の、有名無名を問わず「神社」を参拝しまくっている…
そう見えるかもしれません。
けれど、それを主催している本人たち(私と副長)、そして、(たぶん)ご参加いただいている方々はみな、それこそ大マジメに、見参させていただいてきました。

あるひとつの事象が、幾重にも重なりひとつの「真実」を導き出す…。
先日の『吉備見参!』のところでも少し書いたように、あまりにもあからさまだからこそ、見えなく、認識できなくなっていることというのは、実は膨大にあると思います。
「神社」というのは、ある面そういう事象の集積でもあり、それが神秘性の所以でもあるでしょう。

でもね、
本当の「神聖さ」というのは、とってもシンプルなことなのだなと、現時点で私は云っておきますね。
誰の目にも、それは明らかになっていること…のはず



たとえば、



『高宮祭場』
古代祭祀の形を今に継承しているとされ、宗像三女神降臨の地と伝わる。


「古事記」では「胸形」と表記される宗像氏は玄界灘付近の海域、および大陸との交易を支配していたとされる「胸形君(むなかたのきみ)」という海人族の末裔とされます。
御祭神、宗像三女神は、天照大御神から神勅を賜り、玄界灘に降臨した…ということになっていますが…まあ、そこはたいして重要ではありませんね。
日本全土に6000社以上とされる「宗像(宗形)三女神」を祀る神社の総本社、『宗像大社』で、どのような祀られ方をしているのか、まずは、そのあたりが大切になります。

ちなみに、三女神の一柱、市杵島姫神は、神仏習合の影響で弁財天と同一神とされます。
安芸の宮島、近江の竹生島、湘南の江ノ島は、「日本三大弁財天」として知られます。

全て、島…。
これだけでも、宗像三女神の真実の姿が、なんとなく目に浮かんではこないでしょうか?

ともあれ私は、個人的にグッと心に残った神社というのはいくつかあるのですが、ここ『宗像大社』はそういう神社となりました




かつて、口に出すことすらタブーとされていた「不言様(おいわずさま)」の沖ノ島。
未だ女人禁制の掟が固く守られ、年に一度の一般参拝の折には(もちろん男性だけ)海中で禊をすることが決まりとなっています。
今年、この年に一度の一般参拝に申し込んだものの、(一応の理由としては)希望者多数により見事落選。

まあ、まだ時機ではなかった…ということ。
いづれの機会に、上陸したいと思います



お知らせ

2015-04-23 | 2015年
別ブログにおいて、

『TAMURATIC指南塾のブログ』

を開始いたしました。

これまで、情報発信ツールとしての役割を、このブログが一手に引き受けてくれていました
そろそろ、というか、いい加減にカテゴリー別にいくつかのブログに振り分け、それぞれを更新していくようにしようと、(ようやく)思うようになりました

それによって、このブログはこれからは【プラネタリーワーク】→「神社おそうじ隊 見参!」「清祓ノ儀」「清祓ワーク」の総称。
今回のブログは【TAMURATIC指南塾】
これから、あと一つか二つ、増える予定です。

よろしければ。

『TAMURATIC指南塾のブログ』


2015.3.18~20 『神社おそうじ隊 吉備見参!』その5

2015-04-11 | 神社おそうじ隊 2015


『サムハラ神社』(津山市)
大阪府大阪市西区「サムハラ神社」奥宮とされる。
2015年正月明けに参拝させていただいた(「ひとりでおそうじ隊」と云ってます)。
その神威の独特さに感応したその時には、奥宮参拝、つまり今回の『吉備見参!』を決めていました


大阪「サムハラ神社」


「…田中富三郎が岡山県の荒廃した祠宇を昭和十年に再興したことに始まる。自らが戦地で九死に一生を得た体験から「サムハラ」の文字の護符としての力に気づき、小判型のお守りを作成し、無料配布する。しかしこうした布教活動によって、取り締まり当局によって無許可神社を賄賂拡張に利用したとの嫌疑をかけられ、建立しゃ社殿も十一年に撤去焼却処分となった。しかし戦争中も出征兵士にお守りを贈る活動を続け、戦後二十六年に宗教法人法による法人となり、社殿も再建。三十七年社殿を現在地に移す。富三郎の死後、養子の田中好一が後継…」(「神道事典」より引用)
※文中「サムハラ」は漢字の「サムハラ」のこと。
※また「社殿を現在地…」というのは、岡山から大阪へ、ということ。

「サムハラ」という名称の由来には諸説あり、、元はサンスクリット語の「シャンバラ」である、言霊、数霊…などなど。
また、合気道開祖・植芝盛平翁も、「天叢雲九鬼(あめのむらくもくき)サムハラ竜王大神」に感応して神人合一の啓示を受けた…などとも伝わっており、植芝家、合気道の守護神であるそうです。



さまざま云われ、伝えられておりますが…
『神社おそうじ隊 見参!』的な見解としては、『神聖四文字(テトラグラマトン)』に着目。

真実は隠される…とよくいいますが、果たして本当にそうなのか?
確かにそういう面もあるのは否めないものの、そうとばかりもいえない。

あまりにもあからさまになっているからこそ、見えなくなってしまうことというのも、あるだろう。
あまりにも当たり前だからこそ、真っ直ぐに「それ」が見れなくなってしまうことも、あるだろう。

『神社おそうじ隊 見参!』として、2011年4月から多くの神社を巡拝させていただいてきました。
その、大きなテーマであったことの答えのひとつに、ここでようやくにしてたどり着けたように、思います。




この「サムハラ神社」は、現在では日詰山の「金刀比羅神社」の境内社になっています。

   
ひたすら階段を上がったその先に鎮座。

  





この日は、まず湯郷温泉の鎮守である…

1、湯神社を参拝。
  

主祭神は、大己貴神 少彦名神

そのあと、上記金刀比羅神社(サムハラ神社)へ。

次いで、
3、美作国二宮・高野神社へ。
津山市で最も祭祀の歴史が古いと伝わっているとのこと。



主神  彦波限武鵜葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと) (神武天皇の御父君)
相殿  鏡作命  (中山神社)
    大己貴命 (総 社)

現在は「タカノ」と読まれるが、かつては「コウヤ」「カウヤ」と読んでいた。
現在の御祭神の総本宮とされる九州のウド神宮が一時は【西の高野(コウヤ)】とうたわれ、両部神道の一大道場として、盛観を極めていたこともありそのまま現在の名前が付いたとも言われている。
「高野神社」ウェブサイトより)

  
本殿は、入母屋造・妻入を特徴とする中山造



そして、名称同様に、とっても不思議な…
4、魔法神社


(参考「魔法様」

  

民間信仰の奥深さを、こうした神社とご縁いただくと垣間見ることができます。
「タヌキ」…よく云ったものです。


5、木野山神社
別名「オオカミ神社」、数少ない狼信仰の神社。


御祭神 大山祇尊 豊玉彦命 大巳貴尊

山頂は奥宮らしく、両側に末社が鎮座。
山峰、渓谷、雨を掌る高寵神(たかおかみ)、闇寵神(くらおかみ)を祀る。

  

次なる機会には、ぜひ奥宮へ。


『神社おそうじ隊 吉備見参!』は、ここまで。

かつて、「吉備」は強大な国であり、ヤマト政権に対抗した部族同盟の盟主だった、とされます。
その気風、地の気、流れている雰囲気には、その痕跡が色濃く感じられました。

いづれ再訪したいと、思っております。

今回ご参加いただいた皆様、本当にありがとうございました


2015.3.18~20 『神社おそうじ隊 吉備見参!』 その4

2015-04-06 | 神社おそうじ隊 2015
4、宗形神社(赤磐市)



延喜式内社であり、宗形三女神を祀る。






5、血洗瀧神社



この瀧の水は枯れた事のない清い水といわれ、名称は八岐大蛇を倒した素戔嗚尊が、この瀧で剣を洗ったという伝説に由来する。




6、二上神社


 


岡山県久米郡の二上山に位置する。
御祭神は、伊奘諾命 伊奘冉命
この神社のすぐ下、両山寺にて《日本最後のシャーマン祭り》といわれる「護法祭」が毎年8月に行われている。


7、美作国一宮・中山神社




主祭神 鏡作神(かがみつくりのかみ)
鏡作部の祖神 石凝姥神の御神業を称えた御名だとされる。
天の岩戸隠れの際に、天照大神を招き出すための鏡を作った神。

中山神社の鳥居は、1791年(寛政3年)の作。
高さは約11メートル。花岡岩製。
両柱を支える貫はあるのですが、その柱より出た部分=木鼻がまったくないため全国的に珍しく評価されています。
(「おかやま旅ネット」より転載)


『梁塵秘抄』において、安芸の厳島、備中の吉備津と並び称される神社。


樹齢八百年、祝木の欅。


本殿は、国指定文化財、単層入母屋造妻入・桧皮葺。
美作の多くの神社の模範となっているという。



猿神を祀る「猿神社」。
毎年一度生贄として若い娘を欲する猿神は、ある時旅の若者に倒された…その若者と娘は結ばれる…さて、どこかで聞いた話によく似ているな…。
現在は猿田彦神として祀られているそうだが、そうなのだろうか…?

この日の巡拝はここまで。
最後なので、ちょっと脱線して…


中山神社参道にある酒蔵に。
蛇足ながら、「美作(みまさか)」という名称は地名から、美真坂から、備朔からなどの説があるという。
そのなかに「甘酒(うまさか)」というのもあるそうで…。





2015.3.18~20 『神社おそうじ隊 吉備見参!』 その3

2015-04-04 | 神社おそうじ隊 2015
二日目。
前日より止むことなく降りしきる雨。
うねるがごとき龍神の気配…。

1、和気神社



「古くは和気氏一族の氏神として遠祖 鐸石別命(ぬでしわけのみこと)が祀られ、和気神と称せられていた。天正19年(1591)に数町川下にあった社殿が大雨で流されたため、現在地に遷座した。
後に弟彦王(おとひこおう)、和気清麻呂公、和気広虫姫を祭神に加え、清麻呂公の高祖父佐波良(さわら)命、曽祖父伎波豆(きはず)命、祖父宿奈(すくな)命、父乎麻呂(おまろ)命を奉祀していた国造神社を合祀した。」

御祭神

鐸石別命
第11代垂仁天皇の皇子で和気氏の始祖。

弟彦王
鐸石別命の曾孫で神功皇后の三韓征伐の際、反乱をおこした忍熊王を和気関で平定し藤野県(現岡山県和気郡)を与えられ土着した。

佐波良命・伎波豆命・宿奈命・乎麻呂命
和気氏の先祖で備前美作両国の国造。国造神社として別に祀られていたが、のちに合祀された。
「和気神社」ウェブサイトより


2014年10月に、「宇佐見参!」にて拝した宇佐神宮。
和気清麻呂公は、いわゆる「道鏡事件」として語り継がれる出来事の際、宇佐八幡宮(現宇佐神宮)に勅使として詣で、その時の神託により国難を救った、とされる人物。
また清麻呂公は、備前美作両国の国造でもある。


  





2、由加神社(和気町)
倉敷に本宮のある「由加神社」。
厄除けで知られています。

和気氏をはじめ、藤原氏、宇喜多氏、池田氏等、有力者の崇敬を受け、殊に播磨・備前・摂津守護であった赤松氏の崇敬が篤かった…と伝えられる。
創建年代は不詳、しかし790年(延歴9年)、和気清麻呂が社殿を再建し、氏祖・弟彦王を配祀、由加八幡宮と称したという伝承がある。
この神社には、創建時より伝えられた祈祷が数多く残っているという。


 



ここで、私と参加者Fさんは、思いもしない方との懐かしい再会を果たした。



3、備前国一宮・石上布都魂神社


御祭神 素戔嗚命

明治期までは、御祭神は「十握剣(とつかのつるぎ)」であったという。

出雲国において、素戔嗚命が八岐大蛇を退治したとされる、その剣。
酔わせた大蛇の尾から出てきた剣が『草薙剣』であり、大蛇を切ったのが『十握剣』。
「一握」が小指から人差し指までの長さといわれることから、「十握」は大体八十センチメートル程ではないかと、推測される。
この剣は別名「蛇の麁正(おろちのあらまさ)」「蛇の韓鋤(からさい)」「天蠅斫(あまのははきり)」といわれている。

「日本書紀」の「一書(あるふみ)」において、「其の素戔嗚尊の蛇を切りたまへる剣は、今吉備の神部(かむとものお)の許に在り」とあり、それがこの「石上布都魂神社」だと、いわれている。
「吉備温古秘録」によれば、素戔嗚尊が剣を収めたのはここに間違いないことで、崇神天皇の御代に、大和国・石上神宮に移されたことになっている。


わかりにくい山道を抜け、入り口・拝殿・奥宮への入山口


神職の方は不在、というか、ほとんどここには来ないような様子で、御朱印が拝殿の隅に置いてある状態。
これが、一国の〝一ノ宮〟の現実…さて、〝一ノ宮〟とは、果たして何だろう。。



参道を登山すること15分~20分程度で、奥宮に到着。



龍雨降りそそぐなか、大祓詞を全員で奏上。








2015.3.18~20 『神社おそうじ隊 吉備見参!』 その2

2015-04-01 | 神社おそうじ隊 2015

『吉備津神社・国宝本殿拝殿』
室町時代造営、桧皮葺の入母屋を二つ重ねた『比翼入母屋造り』という、他に類例を見ない様式。

雨足強まる最中、『鳴釜神事』で知られる吉備津神社へ。






本殿横から伸びる廻廊は、約400メートル。


吉備津神社と吉備津彦神社で、吉備の中山を両側から挟むように鎮座。
この山の重要性が、このことからも窺い知れる。


日本の「五大御伽話」というと、

「猿蟹合戦」、「舌切雀」、「花咲爺」、「かちかち山」、そして「桃太郎」、といわれます。
これがほぼ現在の形に結集されたのは、江戸時代半ばの「雛乃宇計木」である、ということになっています。
このうち、岡山といえばやはり「桃太郎」

この「雛乃宇計木」では、

「おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に、川上から大きな桃がどんぶらこと流れてきて、おばあさんはそれを家に持ち帰り…」

というところまでは同じであるけれど、このあとは桃を食べた二人が若返って子供を作った、という話になっているといいます
また別説では、桃から男の子は生まれた、けれど、そこで物語は終了、とも。
現在のような形で、英雄譚として世間に広く認知されるようになったのは、さまざまな改訂があったのちの物語が国定教科書に採用されたことがどうやら大きいようです。

「桃」とは、何か?

古来より、邪気を祓う霊力を宿す植物として重宝されてきた「桃」は、「古事記」においてイザナミノミコトに追いかけられるイザナギノミコトが黄泉比良坂で投げつけた有名な場面で使われています。
「桃」の「兆」には肇(はじめ)いう意味があり、妊娠の兆しが現れる時に食べる木の意から生まれたともいわれています。
「桃」は、いわば「生」の象徴であり、それゆえに「桃太郎伝説」を形成するうえで、イメージに叶ったのでしょう。

「温羅(うら)=鬼」は、「死」を象徴します。
「鬼」を「桃」によって征伐する…まさに、格好のアイテムですね。。


  



いづれの機会に再拝を期し、全員で参拝。
この日はここまで、でした。