豆の育種のマメな話

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横浜馬車道にある「写真師下岡蓮杖顕彰碑」

2015-10-27 16:26:32 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

横浜の馬車道通り,弁天通り散策

10月某日,下田北高等学校第11回生同窓会が横浜で開催されたのを機会に,いつか訪れたいと思っていた馬車道通り,弁天通りを散策した。実は,馬車道通りには伊豆下田出身で日本写真の開祖と謳われる下岡蓮杖の顕彰碑があり,弁天通り5丁目周辺は安政の大津波で被災した下田の人々が多く移り住んだ場所である。

下岡蓮杖は文久2年(1862)野毛に初めての写真場を開業し,その後弁天通りに進出し,太田町5丁目角地(馬車道)で写真館を開業し成功している。また,蓮杖の弟子である鈴木真一も弁天通り6丁目で写真館を開業した。鈴木宅には北海道開拓に向かう依田勉三が投宿して出立の準備を進め,鈴木写真館では晩成社一行が記念写真を撮っている(帯広百年記念館に保存)。いわば,この周辺は進取の気概溢れた伊豆人が集いし場所であった。

1.日本写真の開祖,写真師下岡蓮杖顕彰碑

馬車道と弁天通が交差する弁天通4丁目の歩道に顕彰碑はある(県立歴史博物館の筋向い,損保ジャパン日本興亜馬車道ビルの向い)。赤御影石の台座の上に膨らみを帯びた円錐が形作られ,その頂点に写真機が乗っている。円錐体の歩道側下部に「日本写真の開祖,写真師・下岡蓮杖顕彰碑」の文字,車道側には「1862,横浜に写真館をひらく」とある。台座には,製作者 田辺光彰,寄贈 建立実行委員会,協力 馬車道商店街協同組合,一九八七・六と彫られている。即ち,記念碑は昭和62年に建立されたものである。

 

因みに,作者の田辺光彰(1939-2015)は横浜生まれの著名な彫刻家。イサム・ノグチの影響を受け,巨大なモニュメントなどの作品が多い。特に「農」をテーマにして野生稲保存・生物多様性などの作品を発表。作品はアジアの稲作地帯,国際的農業研究施設(国際稲研究所など),各国の国立研究所,美術館,博物館,国連機関(FAOなど)に収蔵展示されている。

傍らに,モニュメントの説明板があるので引用する。

「日本写真の開祖 写真師・下岡蓮杖(一八二三~一九一四)伊豆下田に生まれる

嘉永元年(1848)オランダから長崎へダゲレオタイプ一式が渡来した。

弘化二年(1845)狩野派の青年絵師が,銀板写真に遭遇し,そして絵筆を折り捨て写真術習得の道へ歩み出した。この青年こそ,日本に写真師という職業を確立した日本写真の開祖 下岡蓮杖その人である。蓮杖は,来日の外交人から湿板写真の機材を入手し,筆舌に尽くしがたい辛苦の歳月を経て,文久二年(1862)野毛に初めての写真場を開業し,その後,弁天通りに進出し,慶応三年(1867)太田町五丁目角地に「富士山」と「全楽堂」「相影楼」の看板を掲げた写真館を開き大繁盛をした。数多くの門下生を育て,我が国に於ける写真技術の先覚者として近代文化の発展に貢献した。その業績に敬意を表し,文明開化の地,馬車道通りに写真師発祥一二五周年,日本写真の開祖写真師下岡蓮杖顕彰碑を昭和六十二年(1987)建立をみたのである。

顕彰碑 下岡蓮杖顕彰碑建立実行委員会

碑文 横浜市写真師会設立百周年記念実行委員会

平成二十二年(2010)六月一日」。なお,説明板には写真が印刷され,当時の写真館の様子を窺い知ることが出来る。

 

2.馬車道は新しい文化が行き交う通りだった

横浜開港時の混乱を避けるために吉田橋を架け関門を設置し,その内側を「関内」と呼んでいたと言う。従って,馬車道(慶応3年計画道路として完成)は,外国人も住む関内と吉田橋を結ぶ道で,新しい文化が行き交う通りだった。なお,明治2年(1869)に吉田橋から東京に向けて日本初の乗合馬車が走り始めたが,この事業には下岡蓮杖が係わっている。

馬車道通りには現在,上記顕彰碑の他に「ガス灯記念碑」「アイスクリーム発祥記念碑,母子の像」「近代街路樹発祥の地記念碑」「日刊新聞発祥の地記念碑」「牛馬飲水」など多数の記念碑があり,歴史建築物も保存されている。また,ガス灯を模した街灯が並び,馬車をデザインしたロゴが到る所に散りばめられ,落ち着いた中にも楽しさを漂わせる通りになっている。

約150年の時を経た馬車道を歩けば,文明開化の浪漫を感じることが出来るだろう。「みなとみらい線」の馬車道駅,或いは横浜市営地下鉄ブルーライン「関内駅」,JR根岸線「関内駅」が最寄駅。

  

  

 

3.弁天通り5丁目

伊豆下田出身者が多く住んでいたと言われる「弁天通り5丁目」周辺。地図を頼りに行ってみると「弁天通5丁目」の標識があった。当時の面影は感じられず,東側には県立歴史博物館(旧横浜正金銀行本店本館),西側にはホテル等高層ビルが建っている。

大津波に全てを失い,新天地を求めてこの地にやって来た伊豆下田の人々は,この地で夢を実現できたのか。知る由もない。

 

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「紅葉」を愛でる,恵み野中央公園ほか

2015-10-19 14:19:53 | さすらい考

北海道では,10月中旬から下旬になると紅葉が平地に下りてくる。

恵庭市恵み野は市街地造成(恵庭ニュータウン恵み野)から30年が経過したばかりの比較的新しい町であるが,中央部に位置する「恵庭中央公園」や街路樹の紅葉は美しい。お気に入りのビューポイントを上げよう。

先ずは「恵み野中央公園」。紅葉を眺めるなら,南から北の方向へ遊歩道を歩むがよい。一つ目は,団地環状線の信号を渡ってすぐの南緑地帯,右手に「恵み野幼稚園」「恵み野小学校」がある。この辺りは散策路を覆うように樹木が伸び,梅花藻の見られる小川に紅葉が映える場所である。

  

二つ目は,南緑地から公園の小さな駐車場を過ぎて公園内の散策路に入ったあたりがポイントで,木々の間から前方に「日本庭園」が眺められる。右は道路を挟んで住宅が並び,左は運動場になっている。日本庭園の池には大きな鯉が悠然と泳ぎ,池に架かる橋に立てば鴨が寄ってくる。池の奥には市立図書館と北海道ハイテクノロジーの建物が見える。

 

三つ目は,野外音楽堂を通り抜け,左に野球場を見ながら進んだ先の冒険公園の近くである。右に「恵み野旭小学校」があり,左は冒険公園の築山がある。此処は,開けた空間に紅葉が映えるポイント。小川の流れと青い空が相まって一幅の絵画を観るようだ。

 

恵み野の街路樹は銀杏が多い。団地環状通,団地中央通の銀杏並木は美しい黄葉を見せる。近くの住民は落葉の始末に手を焼いているようだが,葉が舞う風情は何とも美しい。早く黄色くなる樹,遅くまで青い葉を残す樹があり,その差はどうして起きるのか考えるのも面白い。銀杏の葉が舞う頃,秋が深まり冬が其処まで来ていることを感じさせる瞬間だ。

 

恵み野中央公園を歩き,恵庭開拓記念公園をへて漁川に出る。堤防を歩いて「道と川の駅」に戻るコースは,遠くに恵庭の山々が眺望でき,漁川の流れと河川敷の自然に触れ,堤防沿いの紅葉を眺めることが出来る。だがその前に,橋を渡って中恵庭公園に立ち寄ってみてはどうだろう。公園の中央に「忠魂碑」が建っていて,周辺の紅葉は美しい。

   

紅葉を愛でるなら,その機作を知って薀蓄を語るもよかろう。例えば・・・,「秋から冬へ,寒くなり日照が短くなると,葉に含まれていたクロロフイル(葉緑素)が分解され,夏の季節に濃い緑色であった葉は次第にその色が薄れる(緑色に見えたのは葉緑素を含むため)。さらに,葉柄の付け根に離層が発達し,葉で生産される糖類やアミノ酸が蓄積され,これら物質が光合成を利用し新たな色素を形成する。いわば紅葉現象である」

「紅葉の色は赤・黄・褐色と大別されるが,その程度は時間とともに変化し,見る人を飽きさせない。日本では「紅葉狩り」の言葉があるように,平安時代から文化として定着している。ところで色素の発現は,紅葉は色素「アントシアニン」,黄葉は色素「カロテノイド」系によるもので,褐葉は「タンニン性物質」の蓄積とされる」

「木々の葉が色づき始めるのは日最低気温が8℃以下,5℃以下になると紅葉は一気に進むとされる。札幌近郊では平地でも10月中旬に紅葉の見ごろを迎える」などである。

紅葉を外国語で何と言えばよいのか,散歩の途中で気になった。辞書には,次のような言葉が載っている。

「紅葉」を英語ではautumnal tints 或いは scarlet-tinged (red) leaves と言い,「紅葉狩り」を maple-tree viewing,「山へ紅葉狩りに行く」を go to the mountains to enjoy the autumn leaves と言うらしい(小学館「プログレッシブ和英中辞典」)。また,スペイン語では「紅葉」を hojas rojas (otoñales) で,「紅葉狩りに行く」を ir a ver las hojas otoñales と表現が直截的である(白水社「和西辞典」)。外国でも紅葉を愛でるが,日本のような優雅な響きは無い。

写真は 2014.10.22,2013.10.24,2012.10.26 撮影

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「恵庭渓谷」の紅葉

2015-10-18 17:09:03 | さすらい考

恵庭渓谷」紅葉の見ごろは残すところ数日だろう,明日の天候予報は雨模様なのでチャンスは今日しかないと思い立ち,10月17日に相棒を誘って出掛けた。

例年この時期には,恵庭市街から漁川に沿って道道117号(恵庭岳公園線)を支笏湖方面に進み,漁川ダムの「恵庭湖自由広場」に立ち寄り,「三段の滝」「ラルマナイの滝」「白扇の滝」を眺め,支笏湖に抜けるドライブを楽しんでいる。紅葉狩りを楽しめる手頃なコースである。この地帯の紅葉時期は,年によって変動はあるが10月中旬とみてよい。

  

当日はまさに秋日和であった。紅葉狩りの人出は予想以上に多く,滝周辺の駐車場は隙間のないほどの混雑であった。「恵庭渓谷」の景勝が評判を得たと言うことなのだろう。「三段の滝」は白い帯が三段になって恵庭渓谷を割るように流れ落ちている。「ラルマナイの滝」は恵庭渓谷の樹木の間を雄々しい姿で流れ落ちる(因みに「ラルマナイ」とは,アイヌ語で「水無沢」を意味し,沢の両側が切り立ち急流が滝になっていることから名づけられたと言う)。「白扇の滝」は高さ15m幅18mで真っ白な扇を広げたような優美な姿に見える。滝の形はそれぞれ三様の姿を見せ,渓谷の流れを彩る紅葉はいつまでも飽きさせない。

 

 

さて,北海道の紅葉名所は大雪山,阿寒,定山渓,登別地獄谷,大沼などが有名であるが(主婦の友社2010「日本の紅葉の名所100選」から),その他にも見所は数多い。わざわざ遠出しなくとも十分に北海道の秋を堪能できる。恵庭~支笏湖~千歳のコースもその一つだ。このコースの途中には,漁川ダムの「恵庭湖自由広場」や「緑のふるさと森林公園」があり多様な楽しみ方が出来る。「恵庭湖自由広場」では楓やナナカマドの紅葉に触れることが出来るし,「緑のふるさと森林公園」では子供達は時間を忘れて遊ぶことだろう。

  

写真は2015.10.17,2014.10.16,2010.10.9,2004.7.5,2004.10.20撮影

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「雪虫」を見たか?

2015-10-15 17:38:32 | さすらい考

「あ,雪虫だ!」

晩秋の空に多数の小さな虫が群れている。北海道では初雪の降る少し前に現れることが多く,その動きは雪が舞うように見えることから,冬の訪れを告げる風物詩ともなっている。「雪虫を見たか?」と挨拶をする季節になったのだと青い空を見上げた。恵庭市恵み野,10月15日午後のことである。

不順だった天候も回復し,昨日の朝には樽前山と恵庭岳山頂に初冠雪を認めたばかりである。公園の木々や街路樹の紅葉も始まったばかりなのに,冬の使者が足早にやって来た。冬支度を急がねばと思い始める季節でもある。北国の秋は短い。

 

ところで,「雪虫」とは白腺物質を分泌する腺があるアブラムシの通称だと言う。体長は5mm前後,綿で包まれたように見える。アブラムシは通常,羽のない姿で単為生殖しコロニーを形成しているが,秋になって越冬する前には羽をもつ成虫が生まれ,交尾して越冬のために産卵する。この時の羽をもった成虫が蝋物質を体にまとい飛ぶ姿(アブラムシの飛翔力は弱いので風に流されて飛ぶ)が雪を思わせるのだ。

雪虫の具体的な種としてはトドノネオオワタムシ,リンゴワタムシ等がある。「ワタムシ」「しろばんば」等の俗称もある。

デジタル大辞典(小学館)には,「雪虫」①雪国で,早春の積雪上に現れて活動する昆虫。セッケイカワゲラ,ユキガガンボなど。②北海道や東北地方で,雪の降りだす季節に現れる昆虫。リンゴワタムシなど。体に白い分泌物をつけて群れて飛び,雪が舞うように見える。わたむし。と記載されている。

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恵庭「北の零年」,開拓の先駆け「高知藩」

2015-10-06 17:07:12 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「歴史を訪ねる」の章

平成17年(2005)に公開された「北の零年」(行定勲監督作品)という映画がある。出演者に吉永小百合,渡辺謙,豊川悦司,柳葉敏郎,石原さとみ,寺島進,石橋蓮司,香川照之ら名優を揃え,第29回日本アカデミー賞と第23回ゴールデングロス賞に輝いた作品である。ご覧になった方も多いと思う(テレビ放映もあった)。

内容は,明治政府により徳島藩淡路島から北海道静内への移住を命じられた「稲田家」の人々の物語である。稲田家は徳島蜂須賀家の客将であったが淡路洲本城代に任命されるなど半独立状態にあり,かつ尊王を掲げる稲田家は佐幕派の蜂須賀家との間に確執が続いていた。明治4年(1871)に筆頭家老稲田邦植が蜂須賀家臣に襲われる事件(康午事変)があり,明治政府は「稲田家に北海道静内と色丹島を与える名目で移住開拓を命じる」裁断を下したのである。映画では,北海道開拓の苦労と人間模様が鮮烈に描かれ,開拓初期の北海道を感じさせる作品であった。

ちょうどこの頃,同じ四国の土佐(高知)からも,事情は違うが北海道開拓に入植した人々がいた。高知藩による北海道開拓である。土佐高知からの70余名は恵庭など千歳・勇払郡下で開拓に取り組んだが,明治政府の政策転換により僅か2年で撤退を余儀なくされてしまう。

恵庭開拓史の中では,明治19年(1886)の山口県団体移住や明治24年(1891)の加越能開耕社(北陸)が知られており,明治3年(1870)の高知藩による開拓は影が薄い。高知藩は藩を挙げて開墾に努めたが,北海道開拓は開拓使に一本化されることになり藩支配は罷免された。開拓に関わった人々は,どんな気持ちで故郷に戻ったのか。明治初頭の混乱期におけるこの歴史物語は,まさに恵庭「北の零年」と言えよう。高知藩統治は恵庭開拓の先駆けであったのだが・・・。 

 

1.高知藩による「恵庭」開拓

明治政府は蝦夷地の警備と開拓を急いだ。北方からの脅威に対処すること,明治維新後の幕藩の処遇が大きな理由であったのだろう。明治2年(1869)開拓使を置き蝦夷地開拓の任に当らせるとともに,名称を蝦夷から北海道に改めた。

同年8月には,北海道に11か国86郡を置き,開拓使が直轄する20郡以外を諸藩に分領し支配統治させる太政官令を発した。しかし,出願に名乗り出る藩は少なく,むしろ強制的に土地を割り当て,支配開拓を命じる状況であった。例えば,胆振地方に高知藩・一関藩・伊達邦忠ら,日高地方に仙台藩・徳島藩・増上寺ら,十勝地方に静岡藩・鹿児島藩ら,釧路根室地方に熊本藩・佐賀藩ら,網走地方に名古屋藩・広島藩・和歌山藩ら,宗谷地方に金沢藩,留萌地方に水戸藩・山口藩などが分割されている(参照:橋田定男「北海道開発と高知県人及び屯田兵制度」土佐史談191)

多くの藩は様子見であったが,高知藩の動きは素早かった。高知藩は太政官令を受けると同年8月に土方理左衛門名で出願し,即8月20日には石狩国之内夕張郡,胆振国之内勇払郡・千歳郡の支配地認可を得て,同地は高知藩の支配管轄となった。その後の流れは以下のとおりである。

明治2年(1869)

7月:開拓使設置。

8月15日:「北海道」と改め,北海道に11か国86郡を置き,開拓使が直轄する20郡以外を諸藩に分領することにした。

8月:太政官布告を受け,高知藩の出願により同月20日夕張郡,勇払郡,千歳郡が高知藩管轄として認可される。

9月:高知藩は藩士「岸本円蔵」「北代忠吉」,従者「杉本安吾」らを調査のため派遣。

10月9日:高知藩は北海道開拓志望者募集を布告。

11月8日:岸本らは東京に戻り,高知藩東京詰「土方理左衛門」に調査結果を報告。夕張郡は山間地で調査できなかったが,勇払郡は畜産,千歳郡は農耕に適するだろうとした。更に,勇払地区海岸は遠浅のため室蘭港を支配地に要請したが,既に仙台藩に握られていたため函館に屋敷及び荷揚場を設置し,商社を設立して運営に当った。

明治3年(1870)

5月初旬:開拓者一行(70人,役員十数人と大工・人足・農夫など)は高知浦戸港を出帆。

5月7日:外国船で横浜を出港。

6月上旬:函館に上陸,地蔵町の高知藩借用屋敷に落ち着く。勇払,千歳郡各地へは当面出向(出張)の形で開拓を進め,数年後に家族を移住させることを考えていた。勇払郡内ではコエトイ,ユウフツ,アツマ,ウエンナイに,千歳郡ではチトセ(現千歳市),イサリ(現恵庭市),モイサリ(現恵庭市),イサリフト(現恵庭市)に開墾所を置いた。

9月13-14日:米沢藩士「宮島 幹」が高知藩支配所(千歳郡)を訪れた際の日誌(北行日記)が残されており,この記録から当時の状況を垣間見ることが出来る。例えば「十三日 晴・・・漸く島松に至る。川あり,十四,五間馬にて渡る,渡れば是より東,胆振国千歳郡高知藩支配所なり・・・当初(千歳)は高知藩支配地にて,諸役人八人其外大工,人足,農民共凡五十人斗出張の由・・・」,更に宮島が岩井源九郎から聞いた話として「同十四日 快晴厳霜 千歳より五里斗北の方イサリフトへ三千坪(約1ha)程開拓しに,七月十五日の水にあい,開拓小屋迄も尽く流れし・・・六月中大野村より稲苗申受三ヶ所植付候処一ヶ所は水難にて不用立,弐ヶ所は砂地にて水持宜しからず,壱丈程の車を補理使付しに最早穂先こごみ余程実りし由なり。実地は奥物不用立に付,国元にて二作物の早稲を以て植付候て必実るべくとの事なり。此度引連れ来りし農夫は,国元にて最上力田の民を引き連れしと云う・・・」等である(引用:恵庭市史262p,千歳市史123p)。

明治4年(1871)

7月:廃藩置県

8月:高知藩支配地罷免,地所は全て開拓使に引き渡される。

明治5年(1872)

5月1日:引き継ぎ完了。高知県勇払出張岸本円蔵は,開拓使に引き渡すべき仕込品の代金千二百九十一両二分を出張中の費用にあて,開拓使から旅費三千両を借用して農民らの帰国費用に当てている。

高知藩開拓団は食糧や農具・家具一式を持ち込み,千歳郡下で開墾したのは7町8畝15歩(千歳本陣許5町6反2畝12歩,イサリフト番屋附7反歩,シュママップ昼所7反6畝3歩)であった。穀類や野菜の種子も持参し栽培を試みたと考えられるが,「蕎麦」「水稲」以外の記録はない。高知藩は北海道開拓に熱意を持って取り組み5万両もの大金を支出したが,開拓はこの地で結実しなかった。

何故これほどまでに高知藩は熱心だったのか? 山内容堂の見識と坂本竜馬「蝦夷地開拓論」の影響があったのかも知れない。 

 

2.坂本竜馬の蝦夷地開拓論

坂本竜馬は慶応3年(1867)3月同志印藤聿宛ての手紙で,「小弟ハエゾに渡らんとせし頃より,新国を開き候ハ積年の思ひ一世の思ひ出に候間,何卒一人でなりともやり付申しべくと存居申し候・・・」と書いている。大政奉還で武士が職を失うことを予想して,その力を北海道開拓に活かすことを考えていたのである(いわゆる,竜馬の蝦夷開拓論)。この構想は後に,西郷隆盛,黒田清隆らによって「屯田兵制度」として実現する。

その他にも,竜馬の思いを具現化するように,高知から北海道開拓に向かった人々がいた。代表的な開拓団は,浦臼の「聖園農場」と北見の「北光社」である。前者は明治26年(1893)高知の自由民権運動家でキリスト教徒の武市安哉(当時国会議員)に率いられて入植した団体であり,後者は明治28年(1895)坂本竜馬の甥「坂本直寛」(旧名,高松南海男)等が中心になって設立した合資会社(移民団体)である。この両団体は,キリスト教精神に基づく理想主義的農村共同体を目指していた。両団体は浦臼や北見の開拓に多大な貢献をしたが,詳細については別の機会に譲ろう。

その他にも,開拓判官岩村理俊,札幌農学校第一期生の黒岩四方之進・内田瀞・田内捨六,開拓会社「開進社」(共和町)の宮崎簡亮,「男爵」薯の川田龍吉,コタンの父と呼ばれる徳弘正輝など土佐出身者と北海道の開拓は深い繋がりがあるが,此処では触れない。 

恵庭の現在の繁栄を享受するとき,語られることの少ない歴史物語,高知藩開拓悲話を忘れる訳にはいかない。

参照: 1)恵庭市1979:「恵庭市史」,2)千歳市1969:「千歳市史」(更科源蔵編集),3)苫小牧市1975:「苫小牧市史」(高倉新一郎ほか監修),4)岡林清水「土佐と北海道」土佐史談191,5)橋田定男「北海道開発と高知県人及び屯田兵制度」土佐史談191

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恵庭「稲作事始め」,中山久蔵より前に稲作を試みた高知藩

2015-10-04 13:25:11 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「歴史を訪ねる」の章

島松沢に「旧島松駅逓諸所」「クラーク博士記念碑」と並んで「寒地稲作この地に始まる(北海道知事町村金五書)」と刻まれた記念碑がある。碑は幅2.7m,高さ2mの白御影石製で,表面に稲穂を持つ農民と中山久蔵のレリーフ像がはめ込まれている。背面に碑文があるので紹介しよう。

「ここは 明治六年 大阪府出身 中山久蔵が最初に米作をこころみたところとして 永く記憶さるべき地である 当時道南地方を除いては 北海道の米作は危険視され 万全の開拓方策をたてることが出来なかったが 明治四年単身率先してこの地に入植し開墾に従事した久蔵は あえてまずここに水田1反歩を開き 種子を亀田郡大野村より求めてこれを試み成功し その安全さを証明したばかりでなく その種子を道内各地の希望者に無償配布して成功せしめた ために 附近の水田耕作熱は とみに高まり 空知 上川の穀倉を築く基を開き ついに北海道を全国一の米産地に育てる因を作ったのである 昭和三十九年九月 北海道大学教授農学博士 高倉新一郎 撰文 鈴木凌雲 書」

 

碑文に示されたように,中山久蔵の稲試作成功から道央各地に稲作が広がり,彼は寒地稲作の祖と称されることになった。中山久蔵は文政11年(1828)河内国に生まれた。安政2年(1855)仙台藩に職を得てから蝦夷地警備に当たり白老と仙台を行き来していたが,明治維新を迎え明治3年(1870)北海道開拓を志し永住の決意で苫小牧に本籍を移している。そして,明治4年(1871)農業に適する土地を求めて島松に辿りつき開墾に着手し,2年間で数町歩の畑を拓き雑穀などを栽培していたが,明治6年(1873)水田50坪を拓き,大野村から「赤毛」の種籾を購入して栽培を試み,秋には反当2.3石(345kg/10a)の米を収穫した。これが道央地域における最初の稲作成功例であった(なお,明治7~34年の試作記録が残されているが平均反収は1.9石)。その後,明治12年(1879)には種籾100俵を無償で有志に分譲し,稲作の指導に努めた。更に,明治17年(1884)島松駅逓所の4代目取扱人となり明治30年まで勤め,村の総代としても地域振興に尽力した(大安寺や洞門小学校用地寄進など開基・開校にも名を留める)。

即ち,中山久蔵が島松沢で水稲「赤毛」の栽培に成功した明治6年(1873)が,この地の稲作栽培の嚆矢とされている。

ところが,これより以前に恵庭周辺で稲作が試みられた記録がある。 

 

1.高知藩による稲作の試み

遡ること3年,それは明治3年(1870)のことであった。米沢藩士「宮島 幹」が高知藩支配所(千歳郡)を訪れた際の日誌(北行日記,旧暦明治3年9月14日)にその記述がある。岩井源九郎から聞いた話として記されている。一部を引用しよう。

「六月中大野村より稲苗申受三ヶ所植付候処一ヶ所は水難にて不用立,弐ヶ所は砂地にて水持宜しからず,壱丈程の車を補理使付しに最早穂先こごみ余程実りし由なり。実地は奥物不用立に付,国元にて二作物の早稲を以て植付候て必実るべくとの事なり。此度引連れ来りし農夫は,国元にて最上力田の民を引き連れしと云う・・・」(引用:恵庭市史262p,千歳市史123p)

即ち,大野村から稲苗を取り寄せ3か所に植え,1か所は水害にあったが他の2か所は水車を作り用水を施したところ,穂先も垂れ良い稔りである。ここでは晩生種は無理だが,国元から二毛作用の早生種を取り寄せれば必ず稔るだろう,と語っている。

この稲作が一年限りで頓挫したのは,明治4年(1871)の廃藩置県令により,各藩の支配地が明治政府に引き渡され,高知藩移民が全員この地を離れたことによる。高知藩は,農耕のための開拓移民七十余人を送り(2,000人の計画があった),開拓費用も五万両余を支出するなど,他藩に比べ極めて積極的に取り組んでいたので,高知藩支配が続けば稲作はこの地で花開いたのではないかと推察できる。

高知藩支配の経緯を整理しておこう。

明治2年(1869)

7月:開拓使設置。

8月15日:「北海道」と改め,北海道に11か国86郡を置き,開拓使が直轄する20郡以外を諸藩に分領することにした。

8月:太政官布告を受け,高知藩の出願により同月20日夕張郡,勇払郡,千歳郡が高知藩管轄として認可された。

9月:高知藩は藩士「岸本円蔵」「北代忠吉」,従者「杉本安吾」らを調査のため派遣。岸本らは11月8日東京に戻り,高知藩東京詰「土方理左衛門」に調査結果を報告。夕張郡は山間地で調査できなかったが,勇払郡は畜産,千歳郡は農耕に適するだろうとした。更に,勇払地区海岸は遠浅のため室蘭港を支配地に要請したが,既に仙台藩に握られていたため函館に屋敷及び荷揚場を設置し,商社を設立して運営に当った。

10月9日:高知藩は北海道開拓志望者募集を布告。

明治3年(1870)

5月初旬:開拓者一行(70人,役員十数人と大工・人足・農夫など)は高知浦戸港を出帆。同月7日外国船で横浜を出港。

6月上旬:函館に上陸,地蔵町の高知藩借用屋敷に落ち着く。勇払,千歳郡各地へは当面出向(出張)の形で開拓を進め,数年後に家族を移住させることを考えていた。勇払郡内ではコエトイ,ユウフツ,アツマ,ウエンナイに,千歳郡ではチトセ(現千歳市),イサリ(現恵庭市),モイサリ(現恵庭市),イサリフト(現恵庭市)に開墾所を置いた。

明治4年(1871)

7月:廃藩置県

8月:高知藩支配地罷免,地所は全て開拓使に引き渡される。

明治5年(1872)

5月1日:引き継ぎ完了。

高知藩が開拓に関わった管轄支配は僅か2年(実質的には一作期と言えよう),千歳郡下で開墾したのは7町8畝15歩(千歳本陣許5町6反2畝12歩,イサリフト番屋附7反歩,シュママップ昼所7反6畝3歩)であった。高知藩は坂本竜馬の「蝦夷地開拓論」の影響があったためか開拓に熱心であったが,他藩は必ずしも積極的でなく成果も収められなかった。開拓次官黒田清隆はこの状況を視察し,諸藩分治の方策を僅か2年で転換し北海道開拓を開拓使の手に一本化してしまう。

高知藩の北海道開拓は緒についたところで終結せざるを得なかった。

 

2.大野村文月,高知藩,中山久蔵を結ぶ糸

北海道における稲作の始まりは,元禄5年(1692)とされる。大野村文月(現北斗市,元大野町)にある「北海道水田発祥の地」碑文及び北斗市教育委員会が設置した説明板から,次の点が明らかである。①元禄五年南部の野田村から移ってきた農民作右衛門が四百五十坪を開田し産米十俵を収穫した,②作右衛門の水田は2・3年で廃止され,その後は成功失敗を繰り返し,嘉永3年(1850)大野村の高田松五郎・万次郎親子が苦心の末成功すると近隣の村にも広がり,安政元年(1854)以降稲作が安定した。そして,道南には安政2年(1855)に117町歩,明治2年(1869)には232町歩の水田が存在した。

ところで,高知藩は明治3年北海道に入植するが,彼らが荷を下ろしたのは函館の藩借用屋敷であった。開墾所は先に示したように勇払・千歳郡下にあり,当地へ出張する形で開拓が進められたので,人の往来は頻繁にあったろう。高知藩の農民が大野平野に稔る二百町歩を超える水田を眺め,千歳郡下でも稲作の可能性を信じたに違いない。移住初年目の明治3年,彼らは早々に大野村から稲苗を貰い受け開墾地で試作している。

一方,中山久蔵が北海道開拓を目指して苫小牧に本籍を移したのは明治3年,高知藩が勇払・千歳郡下で開拓を始めた年である。翌年(明治4年)中山久蔵は農耕に適する地を求めて苫小牧から内陸部の島松に辿りつき,開墾に取りかかった。

高知藩の試作圃が千歳,漁,茂漁,漁太の何処にあったか定かな記録はないが,宮島幹「北行日記」にある「イサリフトへ三千坪ほど開拓セシニ,七月十五日ノ水ニアヒ開拓小屋迄モ尽ク流れシ」と「三ヶ所植付候処,一ヶ所ハ水難ニテ不用・・・」を照合すれば,試作圃の一つが漁太であったと推察される。島松沢と漁太の距離は1里半,千歳・漁・茂漁は苫小牧から島松に向かう道中にあり,島松沢と漁・茂漁までの距離は1里に過ぎない。開拓を志した中山久蔵が高知藩の開拓状況や稲の試作を伝え聞き,或いは生育を観察したとしても不思議はない。距離的にも時間的にも矛盾がない。中山久蔵が島松沢で水稲「赤毛」の栽培に成功するのは,それから3年後のことである。

大野村文月,高知藩,中山久蔵が糸で結ばれたような気がする。高知藩水稲試作地跡が確認出来れば絵になるのだが・・・。 

参照  1)恵庭市1979:「恵庭市史」,2)千歳市1969:「千歳市史」(更科源蔵編集),3)苫小牧市1975:「苫小牧市史」(高倉新一郎ほか監修),4)北広島市2007:「北広島市史」,5)北農会農業技術コンサルテイングセンター監修2008:「記念碑にみる北海道農業の軌跡」(北海道協同組合通信社)

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骨の厄年ですか?

2015-10-02 11:01:10 | さすらい考

恵み野中央公園を散歩していたら,久しぶりに先輩に出会った。彼とは同じ街の住民でありながら,最近は滅多に話をする機会もない。職場を離れてから数年たつと先輩後輩の意識は薄れ,かつて同業だったという感情も希薄になりつつあるが,顔を合わせると昔と変わらぬ口調になる。

公園の小川に沿って造られた遊歩道を並んで歩いていると,彼は話し相手が欲しかったのか突然語り始めた。

「先日,ボウリング大会がありましてね,練習の一投目にバランスを崩して尻もちでした。何しろ,四十数年ぶりでしたからね。フローリングがあんなに滑るとは忘れていました。骨にヒビでも入ったかと心配しましたが・・・,本番では力が抜けてかえって良かったのでしょう準優勝でした」

彼は,退職後に市の「長寿大学」に通っていると言う。近年の高齢化社会で生涯学習に対するニーズが高まり,市民大学など社会教育の制度が各地に設けられている。高齢者が生きがいをみつけ,社会活動に参加しながら,健康な生活を送れるようにと設けられたシステムである。ボウリング大会はその仲間の親睦行事であったらしい。

 

「実は,その十日前でしたか,ベッドのコーナーに足の小指を引っ掛けましてね。痛さのあまり,ベッドに倒れ込んで転げまわるほどでした。激痛で歩くのもままならず,骨折か? と妻の車で病院直行でした。近くの恵み野病院では,今日は整形外科の手術日で受診できません,他の病院へ行ってください,と言うのです。痛い脚を引きずっているのに,せめて外科で対応できないのかと思いましたね」

「まあ,仕方ないかと再度車で恵庭病院まで行きました。駐車場が遠くて,玄関まで辿りつくのが難儀でした。受付では,予約していますか? 本病院は予約制です,と言うのです。それでも,骨折かも知れないと話して何とか受付けてもらったのです。まあ,診察まで長時間待たされましたがね」

「レントゲン撮影の結果,骨折がないと分かってホッとしました。ヒビが入っている可能性もあるということで,消炎鎮痛剤のロキソニン錠(ロキソプロフェン)とムコスタ錠(レバミピド),それにロキソニンテープの処方でした。これが良く効くのです,次の日に全く傷みが取れたのですから。骨折でなく幸いでしたがね・・・」

余程,打撲捻挫が痛かったのだろう。笑顔で話しているのに,時々顔をしかめる。何で消炎鎮痛剤の名前まで憶えているのだ,ぼくは先輩の顔をあらためて覗きこんだ。

ベッドや柱の角にぶつかったり,小さな段差に躓いたりするのは齢の所為ですよ,と言おうとしたが止めておいた。いずれわが身もそうなりかねない。

 

「骨と言えば実は,今年5月に骨髄炎による下顎骨壊死の腐骨摘出手術をしたばかりですよ。10日間の入院でしたね。レントゲン検査と術前のCT,MRI検査を終えて即手術でした。問診票の既往症欄をみて医者は投薬履歴を気にしていましたね。後で調べてみると,癌の骨転移やある種の薬剤(ビスフォスフォネート)が骨髄炎の発症と相関が高いらしい。それで,疑ったのでしょうね」

「術後は軟食・刻み食が一週間ぐらい続き,さすがに体力が落ちました。今年のような骨の“事件”は,小学生の頃に遊具から落ちた腕の骨折以来です。今年は骨の厄年ですかね・・・」

いやいや,単なる老化でしょう,筋肉と平衡感覚を維持するよう鍛えることですね,と言葉に出かかったが,先輩にそこまで言うのは憚れる。「お大事に」と声を掛けて分かれた。

見上げると,秋空に一筋の雲が流れている。公園の紅葉は色づき始めていた。

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