豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

冊子「幼少期の記憶」発刊、恵庭市長寿大学大学院第十七回生、恵庭の本-4

2020-02-29 15:28:23 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

令和2年3月、手作りの小冊子「幼少期の記憶」(A5判、72ページ)が発刊された。編集発行は、恵庭市長寿大学大学院第十七回生「幼少期を語る会」。編集から印刷製本まで手作りの小冊子。12名の高齢者が幼少時の記憶をたどり、自分の言葉で記録に留めようと試みた、貴重な一冊である。彼らは、歴史的なスパンの中で今をみつめている。
発刊の意図と内容をご理解いただくために、本誌から「はじめに」「目次」「編集後記」を引用する。

◇はじめに
私たちは歴史から多くを学ぶことが出来る。戦争体験からは今後二度と戦争を起こしてはならぬと思い、どうしたら戦争を回避できるかを考える。地震や水害の被災体験からは堤防を築き安全な場所に住むことを考える。私たちは、歴史の教訓を現在の暮らしに生かし、未来設計に役立てているのだ。
ところで、歴史とは何だろう? 歴史は、古文書や公文書、映像、遺跡などに残された記録を掘り起こし、それらを検証し、集大成したものと言えるのではあるまいか。この時の資料は国立国会図書館に集積されるような公の記録に限定されるものではなく、市井の人々の暮らしの記録も価値ある資料となり得る。従って、私たちが次世代に語り継ぐこと、記録に残すことは極めて重要と思われるが、記録を残すことに対して私たちはかなり無頓着である。
この冊子は、恵庭市長寿大学大学院第十七回生の仲間が「幼少期を語る」と題して、子供の頃の記憶を辿りその一端を取りまとめたものである。著者の年齢は69歳から83歳なので、幼少期と言えば第二次世界大戦終盤から戦後の復興期にあたる。今の若い皆さんには、知らないこと理解できない場面が多々あろうが、これも真実、歴史の一コマなのだ。この冊子をお読みになった皆さんが、「こんな時代があったのか」と些少なりとも何かを感じ取って頂ければ有難い。
戦後、個人の権利と自由を尊重する個人主義が過剰なまでに浸透した結果、核家族化が進み、三世代同居の家は少なくなった。当然のことながら、爺婆が孫たちに昔の体験を語る機会も少なくなった。今の若い皆さんは、戦争の悲惨さや戦後の貧しさを教科書で習う歴史の一事象としか認識していないだろう。いつの日か、この冊子を読んだ孫たちが戦争戦後の暮らしを知り、「爺婆は無人島でも生きる残る知恵がある」と思い、「豊かさとは何か? 幸せとは何か?」を考えるに違いない。本誌には、そんな思いと期待を込めた。
高齢者にとって、昔を思い出すこと、文章化すること、編纂することはかなり大変な作業であった。五木寛之は「若者に対する年配者のアドバンテージは圧倒的な記憶の集積にある。高齢者は積極的に昔話をしたほうがいい」と述べているが、私たちもその言葉を信じ、思い出すこと書くことは「脳の活性化に役立つだろう」と作業に集中した。そして、本日ここに本冊子を上梓できたことは喜ばしい。
巻末には、私たちが生きた時代背景を理解頂くために、年表「私たちの生きた時代とその背景(昭和~令和)」を添付した。内容に誤りがあるかも知れない。ご叱正、ご指摘を賜れば幸いである。

目 次
幼少期の記憶(大﨑能永)
思い出すこと(本林尚之)
幼少期の想い出(宮﨑健一)
私の幼少期(菊田 曠)
私の幼い日思い出(竹山惠美子)
幼少期の記憶(コスモスの花)
私の幼少期(小山田やす子)
今は亡き母と五歳の引き揚げ記(佐々木満里子)
幼少期の食の思い出(千目留利子)
子供の頃の思い出(牧田妙子)
幼少期の思い出(水正幸江)
幼少期、記憶の断章(土屋武彦)
編集後記
付表、私たちが生きた時代と背景(昭和~令和)
〇表紙画「サイロの見える風景」=坂田眞利子
〇本文写真・イラスト=土屋武彦 

◇編集後記
平成30年4月に恵庭市長寿大学大学院に進学した私たちは、これまでの4年間とは違う、より深化した学習の場を模索していた。自主学習として取り組む案件を探していた。そんな折、懇親会の場で「子供たちはゲームに夢中、外で遊ばなくなった」「昔は暗くなるまで、友達と遊んでいたね」「家の手伝いがあたり前だった」「今の子供たちは、戦争の悲惨さも戦後の苦労も知らないだろう」等々の会話が広がった。
この会話には、スマホの深みにはまった孫たちを「ちょっと困ったものだ」と思いやる心と、今の世の便利さは確かに嬉しいことだが一方で、「異常気象」「環境汚染」「格差拡大」「排他主義」など何処かがおかしいと思い、隠蔽と傲慢な振舞いは歴史の中の「いつか来た道」に通じるのではないか、と時勢を憂える心が透けて見える。急激な経済成長や文明進化の過程で何かが変わり、何かを忘れてしまったのではないか、こんな時世だからこそ昔の体験を語り継ぐ意味があるのではないかと、私たちは考えた。
折しも、平成30年9月6日午前3時7分、北海道胆振東部地震発生、そして北海道全域停電。いわゆるブラックアウトは電気に依存した文明社会の欠陥を思い知らされる出来事であった。大勢の人々が食糧や電池を求めて走り廻る中で、怪我はなかったかと周りを気遣い、比較的落ち着いていたのは戦後を生きた高齢者であったように思う。この災害をきっかけに、昔を振り返り、語り、記録に残そうと言う機運が高まった。
〇 おしゃべり会の案内(院一学年通信第12号、平成30年12月5日)
〇 第一回「昼食会&おしゃべり会」(学年行事、平成31年1月30日)
〇 第二回「昼食会&おしゃべり会」(学年行事、平成31年4月24日)
〇 発刊協議(院二学年通信第7号、学年別自主学習、令和元年9月4日)
おしゃべり会には延べ69名の方が参加、十数名の方から貴重なお話を伺い、「そうだったね、私もこんな経験がある」と話が展開、有意義な時を過ごした。戦時・戦後の体験談からは二度と過ちを繰り返してはならないとの思いを強くした。そして、多くの方が「生きてきて良かった、今は幸せだ」と話を結んだ。冊子発刊協議で、「趣旨は理解できるが、語りたくない人もいる」「誰が読むのか」などの意見が出されたため、原稿提出は任意とし、有志(幼少期を語る会)として取りまとめることにした。
当初、各自の原稿は800~1,600字程度を想定したが、著者の熱い思いを汲み原文尊重、最終的には長短混載とした。「幼少期」の捉え方は各自多様であるが、貴重な体験、個性豊かな作品に出会えたことは幸いである。また、執筆を予定しながら期限の関係で寄稿できなかった方もいらっしゃるが、大学院修了前の発刊にこだわり取りまとめたのでご容赦を。これに懲りず、幼少期の記憶を語り続けていただけたら有難い。
本誌は、編集から印刷、製本まで手作りの簡易製本誌である。この拙い冊子に関心を持ち、ご一読頂いた皆様には心から感謝を申し上げる。
最後に、本冊子発刊に際し、議論に参加しご協力頂いた親愛なる学友の皆さん、長寿大学という学びの場を提供頂きご指導賜った大学事務局に対し、深甚の謝意を表します。有難うございました。 
令和2年3月15日       
恵庭市長寿大学大学院第十七回生「幼少期を語る会」(文責土屋武彦)

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幼少期、記憶の断章

2020-02-11 13:56:55 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

2020年3月発行の冊子「幼少期の記憶」(恵庭市長寿大学大学院第17回生「幼少期を語る会」編)に、以下の文章を寄せた。

幼少期、記憶の断章

◇ 追想、一枚の写真
一枚の写真が手元にある。3.5×5.0cmと小さなサイズで、色褪せ、しかも折れ曲がった跡が付いている。写真は、陽だまりの筵の上で男の子が犬と一緒に日向ぼっこをしている構図で、後方に家の板壁が写っている。季節は冬だろうか、帽子をかぶり、綿入れの着物に前垂れを掛け、大きな目を眩しげにしている。これは、唯一残っている幼い頃の写真である。この写真を眺めていると、撮影したのが昨日のような錯覚に捉われるが、1~2歳とすれば記憶に留まっている筈もない。場所は小学校を卒業するまで暮らした生家の庭先である。
生まれたのは、山間に僅か25戸が暮らす奥伊豆の小さな集落である。集落を流れ下る渓流は、下田港に注ぐ稲生沢川水系の一つであるが「沢」と呼ぶほうが相応しい佇まいで、沢蟹と小エビが生息する小さな流れであった。茅葺の生家があったのは集落のどん詰まり、あとは茅場に繫がる山道があるだけの一番奥まった狭い台地で、近くに山の神を祀る「子之神社」と6戸の家があった。
時代は太平洋戦争が始まって間もなくの頃で、男達は戦線や開拓へと次々に駆り出されていた。米の強制供出も始まっていたが、山奥の農家には戦線のひっ迫感はまだ伝わって来なかった。脳裏に浮かぶ幼年期の映像といえば、農作業に明け暮れる祖父母と母の姿。畑の隅で籠に入れられ眠っていたこと、夜なべ仕事に炭俵を編む祖母、牛の搾乳や給餌する父母の姿、寝しなに祖父が話してくれるお伽噺、祖母に手を引かれて神社に詣で武運長久を祈ったこと・・・。
だが、平穏な暮らしの中にも、4~5歳になるころには迫りくる敗戦の足音が聞こえていた。金属類回収令が出され「これは出す、出せない」と揉めていた祖父母の声、軍事用にラミーや棉を作ることになった話、ゼロ戦用に松脂をとる話に「松脂で飛行機が飛ぶのか」と不思議に思ったこと。空襲警報が発せられる度に防空壕に潜み、頭上を越えて下田市街方向に急降下する敵機の姿に慌てて畑の中に伏せたことが思い出される。
このような時代であったから、小学校入学以前の父の記憶は少ない。両親に甘えた記憶もない。両親は働きずくめ、物心つくころには父が出征していたので、親子の触れ合いは少なかった。どちらかと言えば、長男として祖母の庇護下にあって、家の中の立ち居振る舞いと心構えを躾られていたような気がする。
父がガダルカナルから帰還し静岡日赤病院で療養中との一報が入り、祖母に手を引かれ会いに行った時のことが、父との記憶では最も古い。父は白衣を着て痩せ細った姿で笑っていたが、寄りつけず祖母の背に隠れていた。後年、老いた母は「母ちゃんと呼ばれたことが一度もない」と語ったと伝え聞いた。父の思いはどうだったろうか? とふと思う。両親とも既にこの世にいない。

◇ 囲炉裏端は「学び」の場
部屋の中央に囲炉裏があり、薪を焚くので煙が出る。煙は屋根裏に上り、茅葺屋根の排気口から外に排出される仕組みになっているが、柱や戸棚、屋根を支える梁や竹材は煤で黒ずむ。その結果、燻製のように、建築材に防虫・防腐効果をもたらしていた。柱や戸棚は毎日雑巾がけするので光沢を帯びている。
「家の柱は、黒檀で出来ているのだ・・・」と、叔父(父の末弟、当時旧制中学)が冗談めかして言う(黒檀であるわけがない)。
「黒檀? それは何だ?」「インド南部の木で、とても貴重で・・・」と言いながら、囲炉裏の灰を均して、火箸で地図を描く、「ここが日本で、こっちがインド(天竺)・・・」と。
この叔父は、いつも文字や算数を「謎かけ」してきた。「十、百、千、万、次の位は?」「糸に冬って何だ?」。恐らく、正しい答えに喜び、分からないと泣いて悔しがるのが面白かったのかも知れない。気が小さいのに時折大胆で負けず嫌いと言う性格は、どうも生まれつきらしい。叔父は囲炉裏の灰に火箸で字を書き、消しては書くのを繰り返して漢字の練習をしていた。
大人たちは夜なべしながら、村の事、戦争の事、やりくりの事、農作業の予定、明日の天気などの話をした。それらの会話は、子供たちの耳にも自然と入って来た。囲炉裏端は「学び」の場であったと言えるだろう。
「囲炉裏の灰で栗を焼くときは、硬皮の一部を剥いて焼かないと破裂する」。誰それの失敗談として語られ、「猿蟹合戦」へと話は進展する。
「鉄瓶の口から上がる湯気で火傷をする」。熱湯はもちろん熱いが、湯気でも火傷をする。誰某の火傷の跡は、鉄瓶を自在鉤から下ろそうとしたときの火傷だと子供に注意を促す。
昔の日本家屋で良い所は囲炉裏があったことだろう。囲炉裏端は夜に家族が集う場所で、囲炉裏の火を囲んで家族がいつも対面していた。だが、戦後75年「自由主義」「個の尊重」が過剰浸透した結果、社会が潤いをなくしてしまったように見える。家族のつながりも組織のコミュニケーションも、行き着くところ「対面が重要」と言うことなのか。

◇ 異邦人のような来訪者たち
太平洋戦争末期には下田市街や伊豆大島からの疎開者があった。「何故、大島の人は水桶を頭に載せて運ぶのか?」「何故、町の子は色白なのだ?」と、祖母の背に隠れながら聞いたものだ。山奥で暮らす子供にとって異邦人との最初の出会いとも言える体験だった。
代わって物々交換で食糧を求める女性や物乞いがこの山奥にまで訪れる時代となった。赤子を背負った婦人が、縁側で乾かしていた南瓜を指さして、「南瓜を譲ってくれませんか? この着物を置いてきます」。「着物は要らないから・・・」と祖母は台所の蒸した薩摩芋と一緒に渡した。また別の日にやって来た脚の悪い乞食には、一合ほどの米か握り飯を施すのを遠くから眺めていた。
太平洋戦争に突入し働きづくめだった時代、そして戦後の貧しい混乱時代にも、山奥の集落へ来訪者がなかった訳ではない。例えば、「富山の薬売り」「養蚕技術者」「牛の人工授精師」「行商」等である。子供心には、彼らはいつも異文化を纏ってやってきた。
富山の薬売りは、重ね葛籠を大きな風呂敷で背負ってやってきて、各戸の薬箱を点検し使用分を補填、新しい薬に詰め替える。熱が出た、食あたり、虫に刺されたと言っては富山の置き薬の世話になり、余程の大怪我でもなければ病院に行くことも無かった時代である。「反魂丹」の匂いだったのか独特の薬臭さと、葛籠に魔法のように詰められた薬の多さに驚いたりもした。紙風船が子供らへのお土産だった。
後で知ったことだが、売薬回商のきっかけは元禄3年江戸城腹痛事件だと言う。それから三百年余、つい最近まで、全国津々浦々で「一人の商人と顧客」と言う形の商売が続いてきた。この成功の要因には、利潤追求を最優先させる現在の商いに対し「顧客本位の商い」という理念があるという。これこそ究極の商業原理ではないかとの指摘もある。さらに、薬売りの傍ら、種もみやレンゲ種子を広め、田植え定規や富山犂の普及指導など地域貢献の姿が見られる。富山の薬売りには伝道師の一面もあったのだろう。

◇ 百姓の時代
太平洋戦争が行き詰り、そして敗戦(4歳半の時に終戦を迎えた)。終戦直後の日本は物資が不足し、混乱の時代であった。大人たちは直向きに働きながらも、時代の変化に戸惑っていたように思う。
水があるところには一畳ほどの広さでも稲の苗を植えた。うどんや雑炊のために麦を、豆腐・味噌・醤油を造るために大豆を播いた。お祝い用に小豆も忘れず、胃袋を満たすために薩摩芋や南瓜を植え、油用の菜種を播いた。鶏の餌にと粟や黍を、牛の飼料にと燕麦、玉蜀黍、蓮華草も忘れない。また、家の周辺には、柿、蜜柑、栗、枇杷、桃、無花果などの果樹、椎茸の種木があった。
春には、蕨、薇、独活、蕗、明日葉、野蒜、筍など山野草の旬を味わい、秋には自然薯(じねんじょ)を掘った。加工にも生活の知恵が生かされていて、何処の家でも味噌を作り、冷暗所に安置された醤油樽は醗酵促進のため毎日かき混ぜていた。豆腐や蒟蒻ももちろん自分で作り、梅干し、紅生姜、辣韭や漬物、干し芋、切り干し大根、干し柿、乾燥薇など保存食も揃えていた。
養蚕は数年続いた。春になると母屋の座敷を通して棚を作り、種卵が配布される前には部屋を密閉して燻蒸消毒をした。製糸会社から配布された卵が孵化したら羽箒で蚕座に移し、寒い日は炭火で部屋を暖め、稚蚕(1齢から3齢)のうちは桑の葉を刻み、壮蚕(5齢)になると葉をそのまま与えるが、早朝から深夜まで多数回給桑する作業は一か月弱続いた。蚕が桑を食む「バリバリ」という音に目を覚ますと、祖母や母がうたた寝していることが多かった。熟蚕になると繭を作らせるために藁で編んだ「蔟(まぶし)」に移した。蛹化した繭は羽化する前に製糸会社に出荷したが、祖母はくず繭から糸を繰り、機織り機で布を織った。
数頭の乳牛を飼育していたが、給餌、搾乳、敷き藁の管理など忙しい作業であった。牛乳生産が目的であるが、牛糞堆肥の生産も重要であった。化学肥料が手に入らない当時は、人糞尿(溜桶で醗酵)も利用していた。糞尿からメタンガスを採ろうと大人たちが話すのを聞いて、燃える気体に興味を覚えた。
鶏は放し飼いであったが、夜は野犬や鼬を避け小屋の高い所で眠り、猛禽が近づくとかなりの距離を飛ぶことを知った。ある年、鶏の孵化を請け負った。鑑定士が雛の性別を見分けるスピードに、職人技とはこういうことかと驚きもした。百姓の時代は子供もそれなりに働き、幼少時の体験を通じて知識が蓄積された。
さて、このような多様な農業はいつ消えてしまったのだろう? 戦後の経済発展は若い労働力を都会に集め、農業後継者が里山からいなくなった。昭和四十年代以降急激に進んだ機械化により、規模拡大が進み農業は単純化した。大規模・単品目栽培は確かに効率的で生産性は向上したが、土壌を損ない、地球環境を壊しているのではないかとの指摘もある。

◇ 珠玉の味が忘れられない
小学校に入学したのは昭和22年4月。太平洋戦争が終わって一年半が過ぎたばかり、物資はまだ不足していた時代である。ランドセルではなく軍隊が使っていた背嚢を再加工した鞄を背にしての入学だった(風呂敷包みの子もいたし、藁草履が通常の履物だった)。同級生は34名、一学年一クラスの山村校である。運動場は50mの直線走路を取ることが出来ないほどの狭さで、前年まで運動場には薩摩芋が植えられていた。弁当を持参できない者や幼い弟を背負って来る子も珍しくなかった時代である。
家から学校までの距離は2km余り、標高差が160mほどある山道を歩いて通学した。「道草するな」と言われてはいたが、帰り道は誰もが遊びながら帰った。夏には川で泳ぎ、小魚を獲った。遊び疲れた空腹を路傍の果実が癒してくれた。「山イチゴ」の赤い実は光沢があり、瑞々しく、口に含めば甘さが広がった。「桑の実」「さくらんぼ」「山ぶどう」は実が黒く熟れると食べ頃で、小鳥と競うように食べた。口の中が青く染まり母親に見つかるのが嫌で、沢の水で口を漱ぐが簡単に消えるものではなかった。「あけび」は紫色の実が割れ、中に種子を包む胎座が白く集まっていて、上品に甘い。口に含み、舌先を使いながら残った種子を吹き飛ばして食べるが、次第に面倒になり、「種子のまま食べても大丈夫だ」と言うことになるのだった。「グミ」「やまもも」も美味しいと思った。
秋には、「山栗」「椎の実」を拾った。「山栗」「椎の実」は縄文人の主食になっていたと言うから、昔から自生していたのだろう。渋皮を歯で剥いて生で食べればコリコリと甘みが拡がる。「椎の実」はフライパンで炒って食べると滅法美味しかった。水に浸して浮いてくる虫食い粒を除き、炒ると厚皮が割れ、子供でも簡単に実を取り出せた。熱い実を掌で転がしながら口に運んだ。
どの家にも子供がいて、毎日のように群れていた。メンコやベイゴマが流行していたが、椿に集まる「メジロ」のさえずりを聞き、「鳥もち」で捕獲し、蝉やカブトムシを追うのも楽しみであった。遊び疲れるとニッキの根を掘って、その皮をかじった。泥がジャリッと口に付くこともあったが、辛味と独特の芳香は疲れを癒した。ニッキはクスノキ科の常緑樹で、樹皮から香辛料(シナモン)が作られる。生薬の桂皮である。子供らは何時も遊びに暮れていたが、自然の中で夢を育んでいたように思う。
ちなみに、この山奥は今でこそ不便であるが、当時の古道を辿れば容易に山を越え、「谷津」に下り「河津」に出ることが出来た。駿河湾を一望できる尾根の道を右に下れば、「下田」へ通じていた。古道は、昭和30年頃まで生活道路と言えたが、今は木や竹が繁り茅に埋もれて通ることが出来ない。古道を復活させれば、伊豆を訪れる旅人の楽しみが増えるだろにと、余計な事を考える。

◇ 竹、今昔物語
生家の近くには竹の群生地が多かった。記憶に残る名前は、「孟宗竹」「真竹」「破竹」「女竹」「矢竹」の5種類であるが、正確にはもっと多かったかも知れない。何しろ、竹は世界中に1,200~1,500種、日本にも600種あると言う。
孟宗竹は「筍」「竹皮」「竹材」などに利用するため、竹林として管理されていた。孟宗竹の筍は、地面が盛り上がったのを足の裏で見つけては掘り取る。掘り取る時期や鍬の入れ方、皮の剥し方などにもコツがあった。アク抜きを要し堅い食感だが味わい深く、料理の仕方も多彩であった。一方、破竹や真竹の筍は伸びたものを手で折り取っても軟らかく、中でも破竹はアク抜きせずに美味しく食べることが出来た。
竹の生長は早い。数日で天を突くほどになった。筍が伸びるにつれ竹皮が剥がれ落ちる。竹皮を拾い集め乾かしたものは、握り飯を包むのに重宝していた。また、竹皮は細く裂いて草履を編むことも出来た。新しく伸びた竹の稈には白い粉が吹き、指先で文字や絵をかいて遊んだ。
真竹は、エジソン電球のフィラメント(京都の石清水八幡宮産で成功)としても知られる。真竹の稈は、弾力性があり曲げにも強いことから、竹籠など加工して使われることが多かった。祖父が、6尺ほどに切った竹を何本かに割り、その割り竹をくねらせながら「竹ヒゴ」に削ぐ作業を、手品を見るように眺めていた。
「木もと、竹さき、と言って、竹は細い先の方から刃を入れるのだ」と言う。「木もと、竹さき? ふーん」。この言葉は、後になって何度も「なるほど」と頷くことになる。薪わりや木材にカンナ掛けする場合、根元に近い方から刃を入れればスムースに処理でき綺麗に仕上がる。一方、竹材では太い方から刃を入れると先端が等分されないことが多い。
女竹の藪は川辺など広範囲に存在していた。不動尊を祀る滝の上に、矢竹の群落が一か所だけあった。矢竹は節が滑らかで、矢、筆軸、釣竿、キセル等に利用される種類だが、子供心に「綺麗な竹だ」と感じ、その群落を秘密にしておくことにした。当時、仲間の間では紙玉鉄砲、杉玉鉄砲を作って遊ぶのが流行っていたからである。
紙玉鉄砲は、竹を輪切りにし細長い円筒としたものを胴、その内径より細い竹の棒をピストンにし、紙を噛んで丸めたものを玉にする。まず一つの球を筒の先端まで押し込み、次の球をピストンで押し込みながら空気圧で最初の球を飛ばす遊び道具である。同様に、「杉玉鉄砲」は杉の雄花を玉として使い、「草の実鉄砲」は草の種子(名前を忘れた)を玉にした。
小刀(肥後の守)を手に入れてからは、女竹や矢竹を転がしながら筒を切って、この道具を作って遊んだ。その他にも竹を使った遊び道具は、竹トンボ、凧、竹馬、釣竿、メジロを飼う鳥籠、ウナギやモズク蟹を獲るモジリ(竹筒)などがあった。手が届かない高い所の柿や蜜柑を採るにも、竹の先を割った竿を使った。また、当時の日用品にも手作りの竹製品が多かった。竹籠、ざる、箕、網代、簾、団扇、簀子、箸、しゃもじ、柄杓、火吹き竹、箒、物干し竿、樋など挙げればきりがない。茅葺屋根や土壁など建材としても、野菜の手竹や稲の乾燥架などにも使われていた。
不思議なもので、「これらの竹製品を作ってみろ」と言われたら、今でも何とか完成させることが出来る。幼少時に見ていた作業工程が蘇ってくるのだ。幼少時体験は生活の知恵として蓄えられる。例えば藁草履作りにしても、藁を叩き柔らかくして縄を綯い、足の指に縄をかけて藁を編む工程が、祖父の姿と重なって現れる。下駄づくりも同様、木材をブロックに切り、鋸とノミを使って歯を作り、カンナを掛け、焼いた鉄箸で穴をあけ、鼻緒を通す・・・。
一方、集落から若者が消えてからは、放置された竹林が里山にまで拡がり、山一面が竹に覆われる現象が見られる。いわゆる「竹害」である。「これでは駄目だ」と里山自然回復運動がようやく緒に就いたが、他の植生と共生出来る環境を整備するためには、パンダの餌も結構だが、アクチブな竹の利用促進が重要である。竹材、竹工芸品、竹炭、竹酢液など可能性は大きいが、問題なのは対応できるマンパワーと企画調整力だろう。バイオマスとしての活用も面白い。
21世紀の今この山奥に住む人は消え、残念なことに竹と雑木が繁茂している。野生の猪、鹿、猿が闊歩している。先日、久しぶりに子之神社に詣でたが、祠は森に埋もれ、父が晩年に奉納した石の鳥居は苔むしていた。

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