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物語の連鎖
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11年目の縦軸 38歳-44

2014年08月06日 | 11年目の縦軸
38歳-44

 すべての恋に破れた自分は押し潰されそうな気持ちを抱きながら、地下鉄の駅を降り、地上への階段を一歩一歩上がり、さわやかな風を浴びた。

 ぼくの目の前の片隅、斜め前あたりにとくに注視しなくても、ホームレスの男性がいることが分かった。ぼくは視線を移動させる。戻る家はなくても家財道具は必要になる。車輪のついたカゴにそれらを放り込んでいる。秩序も他人からは分からないように。ぼくもひとりでいることに変わりないながら、生まれたときの状態ではない。さまざまなものを記憶として荷物のようにため込んでいた。捨てる機会も作らないままに、秩序もなく、無雑作に。記憶のなかの映像は、日に日に粒子が粗くなる。それらが突っ込まれたぼくの架空のショッピング・カート内の品物も、レジで正当な代金と交換せずに通過してしまって、品物を満載させたままだ。対女性だけでも、これほどの分量になってしまった。見逃されないで、このこころの万引きを誰かが咎めないかと願っている。そうすれば、ぼくは詫びながらも手放せる機会を代償として、かつ見返りとして手に入れられるのだ。

 大きな寺社の門がある。ぼくは境内に入り、一息ついた。その名も「門」という小説があったことを思いだしている。成長した主人公は、過去の行動から世間と隔絶するようになっている。それでも、社会生活があるのだから完全には、という訳にもいかない。気持ちの問題としてというのが正しい。

 若いころ、女性に誘惑されながらも、無意識にはねつけて、そのしなかった行動をなじられた場面があった。三部作の最初のなかのエピソードだ。ぼくは希美の代わりにした女性を思い出している。これは三人の女性だけの物語にするはずだった。ぼくは、あそこで拒むこともできたし、抵抗すればよかったのだ。こう書くと、ぼくは受け身であるようだが、やはり、ぼくは能動的だったのだ。文字になった時点でぼくの行動は正当化されることを期待し、望むようになる。三人の証言で、ひとりの被告の弁論はすべて否定され、覆すことも可能なのだろう。関わりたくないという一点だけで参考の証人は出廷しない。そして、ぼくは勝手なことが書けるし、ここで書いてきた。

 彼女の名前を思い出そうとする。名前以外のものも頭の奥から引っ張り出そうとする。彼女はいったいぼくのどこに消えてしまったのだろう。彼女との数時間だけで、これに似たものが書けただろうか。答えを待つまでもなく、不可能であることは当人がいちばん知っていた。ショッピング・カートには前に使ったひとの捨てられたのか必要なくなったレシートもそのまま底に入っていたのだ。悪いと思うが、あの女性はそのようなものだった。誰かが彼女の人生の対価を支払ったのだ。ぼくはその名残の紙切れのようなものを見るに過ぎない。

 あの三人は配送料をかけてでも届けてもらうような大きなものだった。冷蔵庫と洗濯機とエアコンのような部屋の中心となるものたち。なぜ、ぼくはそれを家にもってきてもらわなければならないのだろう。今更、受取り拒否もできない。あれらを使って生活してしまったのだ。声高にはいわないがぼくの一部以上だった。いや、すべてに近いのかもしれない。

 最初のひとから二十年以上経過し、次からも十年、絵美からも数年が経っている。彼女らは文章として再度、命が吹き込まれるとは思っていなかっただろう。ぼくのこの愚劣な文で再創造された自分たちになじめないかもしれない。ぼくはある面では美化して、もう片方では無駄を削った。ぼくにとって無駄な時間も秒も姿も決してなかったくせに。この三人が美化なら、ぼく自身はどう表現すればふさわしいのだろう。醜さの縁取りを消し、レンズで淡くして、かつ照明をたっぷりと当てた自分。うそだか本物だかあいまいにしてしまった自己の姿。

 太陽が照っている。今日を晴れにするか雨にするのか、ぼくの意志など考慮しない空を見上げる。ぼんやりとこうなってほしいと考えるも、どうするかの最終決定は当然、ぼくに委ねられていない。さらに素敵なこととして考慮以上に空は美しかった。ぼくの人生も大差はないのだ。晴れにしたかったのか、雨で満足だったのか。傘は適度な回数を開くために作られたのだから。

 ある時刻が近付いている証拠として寺の鐘が打たれる準備を僧侶がしている。ひとつの音を数回叩く。ぼくはその音を予想して、自分の口から似た音階を出す。大きなずれはないだろう。周りのひとも鐘の音を待っている。腕時計も、電話の正確な時刻も手元にあるのに。

 締めくくり方。唐突に。

 ゆっくりと境内でひとりで勝利をかみしめる。三つの音の途中で。四つ目はいらない。

 ゆっくりと悲しみのぬか味噌をかき回す。

 いや、やはり、ゆっくりと傷だらけの勝利をかみしめるのだ。これも、格好良過ぎる。

 こうするか。服に取れてしまったボタンを縫い付ける。糸を切って針と短くなった糸を裁縫箱にもどす。そして、新品に生まれかわったかのようなシャツの袖に腕を通す。なかの男性も新品にもどって、あの寒い日のデートの日に向かうような気持ちになれるといいと考える。朝の九時。彼女が待っているあの駅へと。


(終わり。マエストロ、舞台を去る。肩越しに拍手の強要。遠慮してスタンディング・オベーションには至らず。アンケートを回収しております。ご協力をというアナウンス)



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