くない鑑

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甲州石和の上杉方、鮎川摂津という御方

2013年06月04日 | 参陣記
今年、3年ぶりに参陣した甲州石和の川中島。
そこで今回私が付いたのが、“鮎川摂津守清長”という御方。

果たして一体どういう御方なのかというと、、、
出自は、下越地方に勢力を張っていた揚北衆の一家で、平氏秩父流本庄家の支族で色部家とも同族。
鎌倉期に、本庄家本貫地の越後国岩船郡小泉荘内で分かれたようですが、勢力は一土豪の域に過ぎなかったようです。
しかし、室町中期以降は越後も他国同様に政情が安定せず、守護の上杉家と守護代の長尾家、そして国人衆との争乱や離合集散が繰り返されます。
そうした戦国期の情勢の中で活躍したのが、今回我らが大将である“摂津守清長”。
信濃守とも称する清長が史料等に散見されるようになるのは享録年間の頃から。
国内は元より、同じ揚北衆内でも繰り返される離合集散を経て、平三景虎公、のちの謙信公が家督を継いだ上越の府中長尾家(守護代)の勢力が伸長して国内をまとめ出すと、他の国人や揚北衆に続いてこれに合力。
この下で、今回模された第4次川中島合戦を含めた諸陣に参じ、勲功に励んでいます。
そして、永禄11年に同族の本庄繁長が謀反(武田方に呼応して挙兵、本庄繁長の乱)を起こした際にも、謙信公方としてその鎮圧に尽力します。
しかし、このことから本庄方との対立が激しくなり、清長はこの争乱の中で没してしまったようです。
清長亡き後、鮎川家は子の孫次郎盛長が継承。
謙信公亡き後、上杉家の家督を巡って起きた御館の乱では、当初、三郎景虎方に与したが、(攻められて降った後は)喜平次景勝公に合力。
鮎川の家を何とか守るも、この論功行賞が引き金ともされる新発田重家の乱ではいずれにも与せず静観したことで没落してしまいます。
この後、鮎川家は越中新川郡上熊野城主二宮左衛門大夫長恒の子の秀定が継いで命脈を保ちますが、上杉家を離れて加越に入った前田家に仕えます。
ただし、主計秀定に跡目を継ぐ子が無く没してしまい、鮎川家は途絶えてしまいます。
それから40有余年後の寛永21年正月28日、上杉家から鮎川の主筋たる本庄家の左兵衛信重(※1)に対して鮎川の名跡を継ぐことが命ぜられて名を掃部信重に改め、ここに、鮎川家が復活します。
禄高は、既に掃部信重が本庄家から別れて得ていた500(上杉家減封後は250石)石と侍組(上士/※2)身分もそのまま引き継ぎ、明治維新を迎えるまで10代に渡って命脈を保っています。
再興された鮎川家は、米沢上杉家家臣としてその終焉まであり、初代の掃部信重と次の孫次郎高長(千坂安芸高治2男/忠臣蔵に出てくる千坂兵部高房の叔父)が御役屋将(城代のこと)、10代目の春次寿長が同じく御役屋将から屯田兵隊頭まで勤めていますが、あとは、侍組に入るだけで大した御役にも就かずいたようです。
ただ、無役だったというワケでなないようで、その証が、現在の米沢市城西3丁目(御廟所裏手、米沢城西郵便局近く)に遺されています。

それが、番正町というかつて地名です。(米沢城西郵便局も、かつては米沢“番正”郵便局といってました。)

ここにはかつて辻番(所)と管理する家があったので(一説に)この地名となったそうですが、その管理する家、番正こそが鮎川家でした。
同心36人を従えて警衛していたそうで、享保年間の城下絵図に“鮎川左平太(亮長)”の名が見えます。


正に、この看板の在る辺りに鮎川家の屋敷が在ったのです。
その面影は一切ありませんが、成嶋町や萬霊山松原寺に至る道との交差は、絵図と全く同じでした。
そう思うと、感慨深げです。。。

武田方は、主家が滅んでしまったので離散してしまっていますが、上杉方は、米沢に来ればついこの間までの足跡を辿ることが出来る。
贔屓としては、そこが嬉しいです(笑)

※1:鮎川掃部信重
本庄主馬長房の嫡男で、摂津守清長と晩年争った本庄大和守繁長は祖父(3男)。
父の主馬は、一度直江山城の養子となったが、実子の竹松丸(平八景明)が誕生したのでこれを解消。後に、同じく養子となっていた本多安房守政重と共に上杉家を出奔して前田家に仕え、大坂の陣に参陣。ここで勲功を得て総計2,300石取となる。
しかし、上杉景勝公からの再三帰参を促され、寛永14年に上杉家に復帰する。
※2:侍組
藩執政部を構成する上士層。
謙信公または景勝公と共に戦った、主として越後や信濃の国人衆から成り、分領家13、高家衆4、平侍を含めて約95家ある。
鮎川家は平侍に属し、斎藤家、水原家、樋口家、大国家などの他に、上泉家、春日家、高坂家、高梨家も平侍に属する。
なお、この中で一番家格が高いのは分領家で、白井長尾家や千坂家、毛利安田家、中条家の他に、鮎川の主筋にあたる本庄家や同族の色部家、かつて私が属した竹俣家などがここに属する。
高家衆は4家と少ないが、甲斐武田家、能登畠山家と同属の二本松家、越後上杉家傍流の山本寺家などの旧大名家から成る。
侍組は、藩機構の内、奉行(国家老)3名,江戸家老2名,侍頭5名,中老1名,御小姓頭2名,御城代1名,御傅役1名,支候(米沢新田藩)御家老1名,奥お取次2名,御役屋将(陣屋を統率。鮎貝、荒砥、小国,糠野目,中山の5か所。5代綱憲公の時に城代から変更。)5名などに就く。
俸禄は知行取で合計や約4万石で、藩石高の1/4を占めている。、


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