くない鑑

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藤沢周平の世界展

2005年10月29日 | くない卿見聞記
『漆の実のみのる国』
これは、私の生き方,考え方を変えた!と言っても過言では無い一冊で、名君との誉れ高い羽州米沢城主上杉弾正大弼治憲公(号,鷹山)と、それを支えた家臣,竹俣美作当綱・莅戸九郎兵衛善政らの治績を著した歴史小説です。
これは今から10年ほど前(私が大学2年次),当時のベストセラーとなり、大変な話題を呼んだのですが、これが著者・藤沢周平先生にとって、遺作となってしまったのです。
それからはや、9年の月日が流れた今、世田谷区芦花公園に在る「世田谷文学館」に於いて、“藤沢周平の世界”という特別展が開かれていると聞き、取るものも取敢えず、22日(土)に行ってきました。

ひの新選組祭以外は乗る機会のが無い京王線なので、[各停しか停まらない芦花公園への乗継を見誤り、一つ手前の八幡山にて思わぬ待ち惚けを食らってしまい、新宿からは20分ほど,13時頃に最寄駅に到着しました。

駅改札を出て右,南側に出て、南北に延びる千歳通りを線路を背にして歩くこと5分(500m)ほど,左手にあったスーパーと高塀に囲まれて木々の生い茂った和風豪邸の間を入る道に、矢印付案内板見付け、それに従って・・・ぐるーっと周って、漸く入口に辿り着きました(^^ゞ
この案内板は、館裏手の駐車場入口へ誘導するものだった・・・のかもしれませんね。

持ってきた傘を出入口にあった傘立に収め、正面の受付にて入館料(600円,特・常共通券)を支払い、その案内に従って、階段にて2階の特別展会場へと向いました。

特別展受付でこのチケットを切離し、中へ入ると、そこには大勢の人。(その大半が中年以上の男女。私くらいの人には・・・出会いませんでした(^^ゞ)
まず入って左手には、20年位前か,貴重なインタビュービデオが放映されており、やや高音で掠れた感じあるお声からは、著者から受ける物静かで端正な感じ,“藤沢観”が伝わってきました。インタビュアーからのお土産である駄菓子に、懐かしさと喜びを表しておられたのがなお、印象的でした。
その向,右側には略年譜とそれに纏わるパネルが展示されていて、その生涯を詳しく知りました。
それが、数々の作中に活きていることも。

藤沢周平先生,本名・小菅留治氏は昭和3年に今の山形県鶴岡市にて生まれる。
小・中・師範学校(現大学)へと進学。卒業後は郷里の中学校教諭となるも、その3年後に肺結核を患い休職。翌年にはその治療(手術)の為に上京(今の東村山市)し、ここで6年にも渡る闘病生活を送るのです。
但しこの間、俳誌「海坂」に寄稿したり、海外の、特に推理小説などを読み耽ったりしたそうで、これが後の作家としての素地を養ったとのこと。
退院後は暫く浪人をしていたが、昭和35年,退院から3年後に日本食品加工新聞の記者として入社する。しかしその片手間、作家活動も盛んに行っており、直木賞,吉川栄治賞,山本周五郎賞菊池寛賞・・・など、数多くで受賞を受け、平成7年には紫綬褒章を賜る。
しかしその間、結婚生活僅か4年目,長女誕生直後に妻・悦子氏が死去。その6年後、再婚をする。
昭和49年には、作家業に専念する覚悟を持って勤めていた新聞社を辞め、以後、多くの人を魅了する作品を数多く世に出していく。
司馬遼太郎池波正太郎等と並び称される時代小説家であったが、この2人と違うのは、あくまでも私見ですがとても閑静で、すーっと読め、入れ込める作風なのです。
例えて言うならば・・・慈照寺(銀閣)のような、渋さ,端正さ,暖かさがあるのです。
更には、心ならずも離京した、その無念さ,望郷の念が、強く著者の中に吹き込まれていると思います。その好例は、東北の小藩“海坂”であり、そのモデルは庄内鶴岡城主酒井家なのです。

人を掻き分けて見た略年譜の次には、氏が唯一没頭した囲碁の光景、作家人生の軌跡,映画となった『蝉しぐれ』の紹介などが、パネルや直筆の原稿などと共に展示されていました。
それらを生んだところ、それがこれらに続いて展示されていました。
それは、氏の書斎(再現)です。
和室のほぼ中央に机が、外に向けて据えられており、テレビ,電話,書棚などが配され、実際その場に居る氏の往時の大きな写真と共に展示されていました。
ここから、人々を魅了する多くの作品が発せられたかと思うと、なにやら変ですが感慨深いもの感じました。
合わせてここには、“藤沢周平”の由来についても解説が在りました。
“藤沢”は郷里にある地名,“周”は親戚の名,“平”は何と無く・・・だそうです。


この奥に入ったところには、作中に登場し、氏も愛した庄内の料理がパネルにて紹介されていました。池波氏もそうでしたが、小説などに“食”は欠かせないようですね。
これに続いてあるのは、用心棒シリーズ等に登場する御府内の地の紹介で、床一面に古地図が敷かれており、壁のパネルと古地図の注釈などとリンクしながら、関心気に見てきました。
次に、氏の作品の朗読,および氏のインタビューを収録したCDを聞くブースがあり、その先には、大きくて精巧な“江戸下町長屋”のジオラマが中央に据えられたエリアがありました。
その最初に展示されていたのは、作中の登場人物の名の由来で、これには大変拘ったそうで、原稿用紙に一杯,何蔵・何兵衛などと羅列されていました。
その典拠となったのは、郷里・庄内酒井家の家臣名簿である分限帳や電話帳などだったそうで、(電話帳を)広げて捜す役目は奥様がされていたそうです。
続いて、同じエリア内には歴史小説に纏わる展示があり、その一角に、遺作である『漆の実る国』に関する展示がありました。
歴史小説は、時代―と違って(基本的に)史実に即したものでなければならず、その完成までには数多の史料と調査を重ねていたようで、郷里の高名な詩人の伝記を仕上げるには年譜を作成し、『漆の実―』を執筆するに当たっても、数多の史料を集め、何度と無く米沢に入り、直に調査などをされて仕上げたそうです。
しかし、氏は道半ばにして病魔に冒され、遂にはそれが本復しないうちに逝去されてしまったのです。
享年69歳でした。
そういう状況だったので、未完成のままで・・・と思われたのですが、自宅書斎から最後の原稿6枚が発見され、無事『漆の実―』は完結したのです。其の原稿が今回、ここに展示されていたのです!私はそのことを全く知らなかったので、これを食い入るように見ていました。
通常、氏の原稿には訂正加筆は少ないそうですが、病魔に冒されて、更に季節が夏だったということもあり、体力が特に落ち込んだ中で記されたこれには、正文が読み取れないほどに多くの訂正加筆が為されていました。
また、全盛期の原稿と見比べても、字に強さが無く、その時の体力を窺い知ることが出来、非常に感動的だった半面、なんだか胸詰まる思いでした。。。

特別展でのみどころはまだまだあり、数々の時代小説の基となった郷里・鶴岡城の絵図や、この特別展の監修をもした井上ひさし氏が作った海坂城絵図、生涯にわたって没頭したミステリー小説のコレクションなどなど・・・さほど広くない場内を隈無く、1時間半ほど掛けて見て回りました。

未だ読んだことの無い作品は多いので、読書の秋,手にとって読み耽っていたいです・・・。


特別展でお腹一杯!なったので、常設展は見ずにここを出て、再び芦花公園から電車に乗って一路新宿へと向いました。
その目的は、【麺屋武蔵】にてラーメンを食すこと!でしたが、、、この続きは、別項を以って記します。


追伸:実はご禁制だった品々(展内画像)を仕舞い込んで在ります。ご興味あるお方、ささっ、どうぞ。但し、内密に・・・

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