過去~現在~未来

何故、人には差別があるのかを仏法の道理から考えて見ます。

恐るべき邪宗教の害毒 ⑥

2008年07月12日 | Weblog

   【それぞれの宗旨の害毒の特徴】

浄土宗や浄土真宗などの「念仏信仰」の教えというのは、
「この現実社会は汚れた世の中であるから、この世に生きているうちは、苦しみがあってもしかたがない。しかし、西方十万憶土の彼方に、阿弥陀仏の住む極楽浄土という世界がある。この阿弥陀仏にすがって、一心に阿弥陀仏の名(念仏)を称えてさえいれば、死んでから極楽に行き、幸せになれる」
というものです。
こうした教えですから、これを信仰しますと、すぐに現実を逃避したがる、諦めの強い、退廃的で優柔不断な性格、生き方になってしまうのであります。
ことに浄土真宗などは、この教えをさらに一歩進めて、
「念仏を称えて死ねば極楽に行けるのだから、いつ死んでも不安はない。いつでも死ねる明るい心(?)で生きることが大事である」
などと立てていますから、これを信仰する人は、何か問題にぶつかると、「死んでもいい、どうなってもいい」といって、破壊的な発想や行動に走りがちです。また、こうした、破壊的で自暴自棄な心の故に、性格が非常に攻撃的でひねくれたものとなり、他人の粗を捜しては批判することが得意になるようです。
ともあれ、念仏信仰の教えに共通した特徴は、現実を逃避する厭世主義でありますから、これを熱心に信仰していくと、ついには自殺にまで走る例が多く出てくるのであります。
次に、曹洞宗や臨済宗などの「禅宗」の場合ですが、この教えは、端的にいって、
「座禅を組んでいる自分自身こそが、仏であり、絶対者である。したがって、もはや仏教典も不要である」
というものです。
これを信仰するならば、なるほど、自分の力だけで生きていく、という強さだけは身についてくるように見えますが、反面、迷いと苦しみの中にある自分をそのまま仏であるとする傲慢な教えでありますから、たいへん思い上がりが強くなり、自分が他の人々より勝っているかのような、また、すべてを悟っているかのような、分を弁えぬ心が起きてきます。
そして、そのような心のために、他の人達と心から通じ合えない、相容れないことになって、自分自身が孤独になっていってしまうのであります。
また、「真言宗」の場合には、本来、仏教典はすべて釈尊が説いたものであるにも拘わらず、
「大日経という経典は大日如来が説いたものである」
などという真っ赤な嘘を並べ、あげくは
「大日如来にくらべれば、釈尊などは草履取りにも劣る」
といって、仏教を説いた教主たる釈尊を押し倒し、架空の大日如来を本尊に立てております。
この、虚飾に満ちた、本来の柱を倒すような教えを信仰いたしますと、個人においては、自ずから嘘と誇張の多い人間となり、また家においては、柱であるべき主人・長男が立たないーーつまり主人・長男が、早死にしたり、病弱だったり、精神障害でまともな生活が送れなかったり、という形が顕われてきて、そのぶん女性の気性が強くなったり、女系家族になっているという例が非常に多く見られます。
さらに、この教えが一国に弘まったときには、歴史上にみる承久の乱のように、下克上が起こって、国家社会の柱が倒れるのであります。
なおまた、いわゆる「日蓮宗」に属する宗教においては、前に述べたように、正当なる相伝を無視・歪曲して、勝手に宗旨を立てています。その説くところは、日蓮大聖人の教えであると称していながら、じつは、まったくの偽物でありますから、真実の教えに似せたぶんだけ、他の邪宗教より質(たち)が悪く、罪も重いといわねばなりません。いわば、世人を迷わす邪宗の中の邪宗、最悪の邪宗教であります。
これを信仰いたしますと、そのつど、考えること、いうことが全く一変してしまう、というような精神の異常が顕われたり、頑迷で歪んだ人格が形成されたり、また、業病、不慮の災難、一家離散等々の、悲惨な現象が顕われてくることが、じつに多いのであります。