過去~現在~未来

何故、人には差別があるのかを仏法の道理から考えて見ます。

南無妙法蓮華経は師子吼の如し④

2009年08月28日 | Weblog

しっかりと勤行に励んでいる人の中には、死ぬような事故に遭ったにも拘わらず、かすり傷だけで済んでしまった、という体験を持っている人、あるいは、大変な事件に巻き込まれるべきところを、その時にかぎってそこを通らなかったために巻き込まれずに済んだ、という体験を持っている人がたくさんいます。あるいは、暴漢に襲われたけれども、諸天の加護で事なきを得た、という体験を持っている人もいます。
ところが一方、世の中では、悲惨な事件が相次いでおり、たとえば最近も、若い女性が帰宅途中に3人組の男に拉致されて、顔をガムテープでぐるぐる巻きにされ、上から袋を被せられて滅茶苦茶に頭を殴られ、殺されてしまった、という事件がありました。
そのような、非常に悲惨な事件、事故、災いというものが世の中に充満しております。そういった事件・事故の被害者の自宅や葬儀の模様がテレビで報道されたりすると、邪宗の本尊が映っていたり、まさに創価学会のニセ本尊が映し出されてきたりすることもしばしばです。
まことに気の毒としか言いようがありませんが、大聖人は、このような、争いや犯罪が多く、どんな災難が降りかかってくるかわからない末法の世の中であっても、御本尊を固く信じ、しっかり題目を唱えていけば、あらゆる災難を免れ、悠々と生きていくことのできる絶対の境涯が得られる、ということをお約束くださっているわけであります。
まさに、我々が最終的に目指すべき人生は、そのような人生であり、そこに即身成仏がある、ということを確信する次第であります。

南無妙法蓮華経は師子吼の如し③

2009年08月27日 | Weblog

「遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるべし」(『経王殿御返事』 御書685㌻)

これは法華経安楽行品の文ですが、“いかなる所で過ごしていたとしても、その人の人生にまったく恐れがないことは、獅子王のごとくである”と言われています。
要するに、この御文は、我々が信心をしていって最終的にこの人生の中で到達する境地を言われているのでありまして、“題目をしっかりと唱えていけば、いかなる病も除くことができて、不慮の災難や不幸からも身を守られ、息災延命が叶うし、あらゆる苦難をも乗り越えていくことができ、悠然とした恐れなき人生が送ることができる”という御約束であります。

南無妙法蓮華経は師子吼の如し②

2009年08月26日 | Weblog

「さいはいは愛染の如く、福は毘沙門の如くなるべし」

「愛染」は煩悩を意味し、「毘沙門」は福徳に満ちていくことを意味します。つまり、“煩悩によって生じてくる願いが成就して、その中で幸せを感じていくことができるし、福徳に満ち満ちていくであろう”と言われているのであります。

「いかなる処にて遊びたはぶるともつゝがあるべからず」

“いかなる所に行ったとしても、病気や事故や事件などに巻き込まれることなく、安心して生きていける”ということです。
                    (『経王殿御返事』 御書685㌻)

南無妙法蓮華経は獅子吼の如し①

2009年08月18日 | Weblog

 「南無妙法蓮華経は師子吼の如し。いかなる病さはりをなすべきや。鬼子母神・十羅刹女、法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり。」(『経王殿御返事』 御書685㌻)

「南無妙法蓮華経は師子吼の如し。いかなる病さはりをなすべきや。」
「師子吼」とは、獅子の吠える声のことで、獅子とは、百獣の王のライオンのことです。百獣の王のライオンが吠えれば、全ての獣が声を失って沈黙してしまうといわれますが、“南無妙法蓮華経は、まさに師子吼のようなものである。いかなる病も障りをなすことができない”と仰せられているのです。
「鬼子母神・十羅刹女、法華経の題目を持(たも)つものを守護すべしと見えたり」ーー“諸天善神は必ず、法華経の題目を持つ者を守護する、ということが明らかである”と仰せられています。

一遍の題目にも絶大なる功徳がある④

2009年08月17日 | Weblog

いずれにしても、このように功徳が大きいことは事実なのです。五座三座の勤行がまったくできていないという人がいたとしても、たとえ、題目三唱だけでも、あるいは方便品・自我偈・唱題だけでも、勧めてあげる意義は重大だと思います。やはり、小さな功徳なりに少しずつでも罪障消滅もできていくし、あるいは、その功徳によって将来、強い信仰へと導かれていく、という意味もありますから、まったく勤行ができないという人であっても、何とか少しでも題目を唱えられるようにしてあげるべきだと思います。
それを、「五座三座ができないなら、やめてしまいなさい」とか、「それなら御本尊様も返しなさい」などと、そういう無慈悲なことはしないで、とにかく、少しずつでも唱えさせていってあげるーーそうすれば、必ずその功徳に引かれて、徐々に勤行ができるようになっていくという面もありますから、ぜひそのようにしてあげていただきたいと思います。
また、万一、自分自身がまだ、きちんと勤行唱題ができていない、という人がおられるなら、たとえ短い勤行でも、たとえわずかな唱題でも、続けていくことが大事で、けっして、やめてしまうということがないようにすべきであります。

一遍の題目にも絶大なる功徳がある③

2009年08月16日 | Weblog

わかりやすくするために、あえて数字を使って説明しますと、仮に、マイナス100の罪障を持っている人が入信したとします。その100の罪障を消すためには、100の功徳を積まなければなりません。
それで、題目を一遍唱えてプラス1の功徳を積んだとします。するとマイナス99の罪がまだ残っているわけです。これを全て消さなければ、悪道に堕ちるのです。
ですから、大聖人も、けっして“一遍の題目を唱えるだけで、今生(こんじょう)で成仏する”とは言われていなくて、「ついに不退の位にいたるべしや」と言われています。「ついに」ということは、最後には、ということです。
そのように、今生で一遍しか題目を唱えなかったとしたら、今生では成仏できないでしょうし、悪道に堕ちないということにはなりませんけれども、それでも、一遍唱えた題目の功徳は功徳として、絶対なのです。さらに、来世でも一遍唱えたとして、その功徳も絶対です。そのようにして、生まれてくるたびに一遍ずつの題目を唱えていけば、ついにはどこかで罪障が消えて、不退の位に上がって成仏ができるでしょう。
ですから、日寛上人も、「ついには」という言葉に思いを致しなさい、と言われています。そこを勘違いして、「良いことを聞いた。今日から一遍の唱題にする」などと考えると、とんでもないことになります。

一遍の題目にも絶大なる功徳がある②

2009年08月15日 | Weblog

「答へて云はく、しかるべきなり」(『法華題目抄』 御書353㌻)

“そのとおりである”と答えられ、それほど功徳が大きい、ということを言われているのです。
これは本当にそのとおりなのですが、だからといって、安心してはいけません。この御文の意に関して、第二十六世日寛上人が『法華題目抄文段』の中で、きちんと説明をされています。日寛上人は、
「若し過去の謗法無き人は実に所問の如し。遂に不退に到るべし。然るに我等衆生は過去の謗法無量なり。此の謗法の罪滅し難し」
と言われているのです。
つまり、“過去世から謗法をしてこなかった人が、題目を一遍でも唱えるなら、四悪道には堕ちないし即身成仏する。しかし、我々、末法の衆生は、過去遠々劫からの謗法の罪障をすでに持って生まれてきているので、一遍の題目を唱えたからといって、それだけで悪道に堕ちないとか、成仏するということにはならない”ということです。