過去~現在~未来

何故、人には差別があるのかを仏法の道理から考えて見ます。

唱題は洗たく行

2009年05月27日 | Weblog

私たちの唱題は、洗たくに似ています。洗たくは、誰もが知っているように、よごれた衣服をきれいにするために、洗剤を水の中にひたし、モーターを使ってかき回します。すると、この水と洗剤が衣服とともに撹拌されて、服の中に染み付いていたよごれがはがれ落ち、水の中に溶け出します。これが、済んでいた水が濁りだす現象なのです。
これとよく似た作業なのに、水が濁ってきたと慌てて、途中でやめる人がいます。それは、私たちの題目行のことです。私たちの過去の宿業と、謗法のあかまみれの命は、御本尊様を拝して唱題を行なうとぽろぽろと垢やほこり、さびのように表に出てきます。題目中の雑念や邪念、内外からの誘惑。
「こんなにお題目をあげているのに…」「ねむいなー、おなかすいたなー」「ただお題目をあげても時間のむだではないか」等々。いろいろと余計なことが頭の中に浮かんできて、題目に集中できないから今日はやめよう。という経験をしたことありませんか?これは、まさに洗たくをしていて、水が濁ってきたことに動揺して、あわてて洗たく機の電源を切ってしまうことに似ています。ですから、眠気がきた時や雑念がわいて来た時でも、自分で自分の心を責めないで、お題目の効果が出てきたんだと、かえって心に受け入れてみてください。すると、不思議にだんだんと雑念や眠気にさまたげられなくなります。
私たちの中にあるさまざまな生命は、たえず周囲の縁によって顕われたり引っ込んだりします。たとえば、悪口を言われれば、むかっとして怒りの命が顕われ、ほしいものが目の前にあれば、これがほしいとむさぼりの命が顕われ、つらいことがあると、愚痴というおろかな命が現れます。これを仏法では六道の生命といいます。このように、六道の命は縁にふれて常に感じるところですが、じつは、この上に四聖(ししょう)という、もっと高い境界があると教えています。中でも、仏界という最上の境界はなかなか現じがたいものなのです。だからこそ唱題と心得て、ますます精進していきましょう。