過去~現在~未来

何故、人には差別があるのかを仏法の道理から考えて見ます。

まことの時に忘れない信心を

2008年11月28日 | Weblog

 「我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざる事をなげかざれ。我が弟子に朝夕教へしかども、疑ひををこして皆すてけん。つたなき者のならひは、約束せし事をまことの時はわするゝなるべし。」(開目抄 御書574㌻)

ここでは、日蓮大聖人の仏法を信仰していく上での心構えが示されています。
「諸難」とは法難のことで、交通事故や病気などのことではありません。
この信心ゆえに、さまざまな法難に遭ったとしても、たじろいだり疑ったりすることなく、真っ直ぐに信心を貫き通すならば、必ず即身成仏できる。だから、「どうして諸天の加護がないのだろう」などと疑ってはならない、「どうしてこんな辛い目にあうのだろう」などと嘆いてはならない、とお示しです。
とかく初信の頃は、法難は諸天の加護で免れるのではないか等と考えがちです。
しかし、諸天の加護というのは、大謗法の国土からはほとんど失われていますので、法難が起きるのを諸天が防ぐことはできません。
また、以前にも述べたように、法難によって受ける苦しみは、過去の罪障を一時に軽く受けて消滅するための、転重軽受の姿です。だから、法難を受けた後には、悩み・苦しみが解決して、かえって幸せになれるのです。時として、本当に罪業が深いと、命を落とす場合もありますが、その場合には、必ず全ての罪障を消し果てて、即身成仏ができるのであります。
これらの道理をよくよく胸に入れて、現世が安穏でない、などと嘆いてはなりません。
大聖人は、そのことを御弟子達に、朝に夕に教えてきたけれども、いざ法難が起きた時、皆、疑いを起こして信心を捨ててしまった、と言われています。拙い者、愚かな者の常として、何も起きていない時には「自分は何があっても信心を貫きます」などと言っていても、いざ、実際に法難が起きると、かねてからの約束を忘れて信心を捨ててしまうのです。
今日の私達の中においても、普段は「難に遭っても信心を貫きます」などと言っていても、いざ謗法の人達から嫌がらせをされたりすると、耐えられなくなって退転してしまう人がいます。こういうことが、約束を忘れる姿なのです。
真の幸福境界が何であるかを弁え、心より成仏を願うならば、この御金言のごとく、法難に耐えて信心を貫く大道心こそが大切なのであります。