過去~現在~未来

何故、人には差別があるのかを仏法の道理から考えて見ます。

三道を三徳に転ずる

2008年01月31日 | Weblog

人々の苦しみや悩み、不幸、こういったものはどこから出てくるかと言うと、結局は煩悩から生まれてくるわけで、この煩悩が悪業の因縁を作り、そして、その悪業の因縁によって人々が苦しむのであります。それがずっと永遠に続くのでありまして、つまり苦しみがまた煩悩を生み、煩悩が悪業の因縁を作る、そして悪業の因縁によって苦しむ、そしてまた煩悩を作る、これを輪廻三道と言いますけれども、そこから抜け出すことができないのであります。
この三道を法身・般若・解脱の三徳に転じていくのは、大聖人様の仏法以外にないのであります。
法身(ほっしん)と申しますのは、これは読んで字の如く法でありますから、不変そしてまた永遠であります。つまり信心堅固に泰然とした境界に立つこと、それが法身ということになるかと思います。
般若(はんにゃ)というのは智慧でありますから、どのようなときでも、つまり苦しいときでも、困ったときでも、この妙法蓮華経の功徳によって、それこそ計り知れない智慧が湧いてくるのであります。
解脱(げだつ)というのは、これは言うならば煩悩の束縛から脱(のが)れることであります。つまり解(げ)というのは解(と)くことであり、脱は脱することであります。
つまり、妙法蓮華経を唱えることによって、この煩悩・業・苦の三道を、法身・般若・解脱の三徳に転じていくことができるのであります。

善き縁に出値うこととは

2008年01月30日 | Weblog
縁については、細かく言えば種々の解釈がありますが、一般的には結果を引き出すための直接的、そしてまた内的原因を「因」と言うのに対しまして、間接的、外的原因を「縁」と言うのであります。
ところが、我々の信心においては、この縁ということがまことに大事であります。
そもそも仏法におきましては因果の二法を立てますが、その因と果の間に縁を立てるのであります。もし因果だけですべてが決まってしまうとなりますと、例えば過去世において悪業の因縁を積んだ者はいやおうなくその結果を受けなくてはなりません。もし、それが変えられないとすれば、すべては自動的に決定し、いわば、それは機械論的な運命論となってしまうのであります。幸・不幸も自動的に決まってしまいます。人間の希望や願望や将来が無視されてしまうことになります。
しかし、妙法の功徳は違うのであります。いかなる悪因によったとしても、善き縁に出値うことによって我々は必ず成仏をすることができるのであります。つまり、大御本尊様という最高の縁に出値うことによって、仮りに我々がいかなる悪業の因を積んでいたとしても、妙法蓮華経の偉大なる功徳によって変毒為薬し、煩悩即菩提、生死即涅槃、娑婆即寂光と変えていくことができるのであります。
ここで大事なことは、善き縁に出値うということであります。

正しい欲望に変革

2008年01月29日 | Weblog
今日、世間では毎日のように不幸で悲惨な事件や事故が頻発しております。こうした惨憺たる世の中を救っていくためには、たしかに法律や制度の整備も大事な要素ではありますが、もっと抜本的な解決を図っていくことが大事であります。その抜本的な解決とは視点を人間自身においた解決策、つまり人々の身心を浄化することが根本的解決の鍵となるのであります。逆に、その場限りの皮相的な解決では、真の解決とは言えないのであります。
要は、政治も経済も教育も文化も、あらゆる世間法は、結局はそれに携わり、そしてそれを用いる人によって善ともなり悪ともなるのであります。したがって、基本的にはその人の六根、すなわち眼・耳・鼻・舌・身・意が清浄であれば、何事もおのずと良い方向に向かいます。しかし、反対に煩悩に汚染されたままでは正しい結果を得ることができないのであります。
つまり、大聖人様の仏法によって人々が六根清浄の果報を得て浄化されれば、必然的に世の中も浄化されてくるわけであります。

人は、とかく理屈では解っていても、わずかな欲望や魔縁にたぶらかされて、刹那的な快楽や名聞名利を追い求め、大事な時間を無駄にして、挙げ句の果てに、一生をむなしく過ごしてしまうことが多々あります。
こうした惰弱なる命を強靭な命に改変していくことができる唯一の道こそ、大聖人の仏法であります。正しい御本尊のもとに、確信をもって妙法五字を信仰していけば、広大無辺なる御本尊の大功徳によって、
「不断煩悩 不離五欲」
と仰せの如く、煩悩を断つことなく、五欲を離れることもなく、同じ欲望であっても、邪まな欲望から正しい欲望に変革していくことができるのであります。
あくせくと、泡沫の如きはかない快楽と名聞名利を求めていた欲望が、一天広布へ向けて、自らの幸せと多くの人達の幸せを求める欲望に変わっていくのであります。
この心の変化は、ただ正しい御本尊への絶対の確信と身口意三業にわたる強盛な信心によって、初めて顕れてくるのであります。

依正不二の原理

2008年01月28日 | Weblog
人々が間違った教えに囚われ、仏法の正邪を分別できず、正しい仏法を誹謗することによって命が濁り、その命の濁りが個から全体へ、国中に充満して依報たる国土に様々な変化を顕し、天変地夭(てんぺんちよう)となって現れるのであります。つまり、人間の命が濁ると、依正不二の原理によって国土世間にまで悪影響を及ぼすことになるのであります。
この生命の濁りの諸相を五種に分類したものが、いわゆる「五濁」と言われるもので、法華経方便品には、末法に入るとこの五濁が盛んになり、悪世となると説かれています。
五濁とは、煩悩濁・見濁・衆生濁・命(みょう)濁・劫濁の五つであります。煩悩濁とは、衆生に貪・瞋・癡等の煩悩、愛欲が盛んに起こることであります。見濁とは、衆生が誤った思想・見解を持つようになることであります。衆生濁とは、これらの煩悩濁・見濁等の結果として衆生の果報が衰え、社会全般に苦しみが多くなってくることであります。命濁とは、命が濁り、寿命が次第に短くなることとされております。劫濁とは、時代の濁り、環境・社会に悪い現象が重なり、様々な災難が起きることであります。
この五濁の次第について、天台大師は、
「まず、衆生が『煩悩濁』すなわち煩悩にまみれ、『見濁』すなわち誤った思想にとりつかれると、『衆生濁』すなわち衆生社会が濁り、さらに『命濁』すなわち生命が濁り、これらの四濁が長く続けば、『劫濁』すなわち時代が濁ることになる」
と仰せられているのであります。また、日蓮大聖人は、
「今末法に入って二百二十余年、五濁強盛(ごうじょう)にして三災頻(しき)りに起こり、衆・見の二濁国中に充満し、逆・謗の二輩四海に散在す」
と仰せられ、天変地夭をはじめ、あらゆる世の中の不幸と混乱の原因は五濁が強盛となるが故であり、衆生濁すなわち社会全体が濁り、見濁すなわち思想の乱れが充満して、五逆罪を犯す者や謗法の者が多くなり、その結果、世の中が乱れると仰せられているのであります。
したがって今日、世界の各所で起きている戦争やテロ、地球全体を覆う異常気象や地震等の自然災害、あるいは悲惨な事件や事故などの三災七難の原因が、すべて人間の命の濁りから起きていることを知らなければなりません。
では、こうした五濁、なかんずく五濁の発生源たる煩悩を菩提に変え、災難を防ぐためにはどうすればよいのか。日蓮大聖人は『立正安国論』において、
「汝(なんじ)早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然(しか)れば即(すなわ)ち三界は皆仏国なり、仏国其(そ)れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊(やぶ)れんや。国に衰微(すいび)無く土(ど)に破壊(はえ)無くんば身は是(これ)安全にして、心は是禅定ならん。此の詞(ことば)此の言(こと)信ずべく崇(あが)むべし」
と仰せられています。
すなわち、平和で幸せな国土を建設するためには、一刻も早く謗法の念慮を絶ち、「実乗の一善」に帰することであると御諌められているのであります。
その「実乗の一善」とは、御本仏日蓮大聖人様が出世の御本懐として御建立あそばされた三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊であり、この御本尊を立つるところに、初めて国を安んずることができるのであります。これが『立正安国論』の正意であります。
すなわち「実乗に一善」たる法華本門の大御本尊に帰依すれば、その不可思議、広大無辺なる功徳によって、その人の所住の処(ところ)が仏国土となるのであります。まさしく娑婆即寂光と現ずることができるのであります。

妙法の偉大なる力用

2008年01月27日 | Weblog
大聖人様の仏法は凡夫即極・即身成仏を説き、十界互具一念三千の原理によって、いかなる人でも、それがたとえ悪人であっても、女人であっても、畜生であっても、地獄の衆生であったとしても、ひとたびこの妙法を信受することによって、悪業・煩悩・生死果縛、すなわち苦しみの身が、正了縁の三仏性の因によって法報応の三身如来と転じ、すなわち悟りへと転じ、その身そのままに成仏を遂げることができるのであります。
言い換えれば、末代の本未有善の荒凡夫は、この即身成仏が説かれる妙法蓮華経の偉大なる力用(りきゆう)によって、初めて三世にわたる真の幸せを築くことができるのであります。
また、この即身成仏の原理は妙法の修行によって、例えば我らの生活面において、自己自身から旺盛な活力を生み出し、いかなる苦しみや悩みにも立ち向かえる勝れた智慧と、どんな場合にも動じない泰然たる境界を築くことができるのであります。

幸せな人生を送るために②

2008年01月26日 | Weblog
最近の新聞紙上やテレビなどで毎日のように報道されている、例えば秋田の連続児童殺人事件のような、悲惨で残酷な事件はなぜ起きるのか。それは皆、心の荒廃によるのであります。その心の荒廃は、詮ずれば貪瞋癡の三毒のなせる業(わざ)であります。
このように考えてくると、人々が幸せになるためには、一番の妨げとなる貪瞋癡の三毒を、その三毒とは反対の良い方向、正しい方向への欲望に変えていかなければなりません。
では、どうしたらこの貪瞋癡の三毒を変えることができるのか。人はもともと、様々な縁に触れて生きております。世間でも「朱に交われば赤くなる」と言われておりますように、人間は善い縁に触れれば自然と善い方向に向かいますが、悪い縁に触れますと、いつの間にか悪い方向に行ってしまいます。つまり幸せと不幸の分かれ目は、正しい縁、勝れた善い縁に触れるか、間違った悪い縁に触れるかによって大きく変わってきます。
もちろん、縁といっても色々な縁があります。すばらしい先生や先輩や友達に巡り値(あ)うことも、善い縁の1つでありましょう。しかし、様々な縁のなかで、我々の人生に最大の影響を及ぼす縁とは何か。それは、宗教であります。
正しい、勝れた宗教は人間の心を浄化します。間違った考えや行動を正しい考えや行動に変えます。正しい宗教に触れれば、人は自然のうちに正しい人生観を身につけ、命を大切にし、相手を思いやる優しい心が生まれ、平和を愛し、正しい価値観を持って、楽しく間違いのない人生を進んでいくことができます。
反対に、間違った宗教は、その害毒によって貪瞋癡の三毒がますます強盛(ごうじょう)となり、常に自分本位の考えしか浮かばず、支配欲が昂じて人と争い、人を平気で傷つけ、正邪の分別も判断できず、結局はその人自身も、また周りの人も苦しまなければならなくなってしまいます。
同じ人間の心でも、正しい教え、すなわち正しい宗教に縁するか、間違った宗教に縁するかによって、全く正反対の結果を招くわけであります。幸せな人生を送ろうとするならば、正しい大聖人様の教えに縁していくことが一番大切なのであります。なぜならば、大聖人様の教えは末法のすべての人々を救うことができるただ1つの正しい偉大なる教え、すなわち一閻浮提第一の教えであるからであります。
日蓮大聖人様は、正直に間違った教え、謗法を捨てて、ただ大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えていけば、貪瞋癡の三毒に支配された命が、妙法蓮華経の用きによって仏様と同様のすばらしい命に転ずることができると仰せであります。故に、大聖人様の教えを信じ、題目を唱え、自行化他の信心に励んでいくことが、幸せになる、最善にして最高の方途となるのであります。
そのためには、私達はまず第一に、朝夕の勤行をしっかりと行うことが大事です。朝夕の勤行をしっかりと行うことは、信心の原点とも言うべき最も大事なことであります。そもそも、宗教から拝むという行為を取ってしまえば、それは宗教でもなく、単なる理論に過ぎません。単なる理論では人々は幸せにはなれません。信仰とは理論ではなく、実践であり、体験であります。したがって、朝夕の勤行をしっかりしていけば、そこから様々な問題が正しい形で必ず解決をしていくのであります。それが御本尊様の偉大なる功徳であります。

幸せな人生を送るために

2008年01月25日 | Weblog
世の中のすべての人々は、だれもが幸せを求め、楽しい人生を送ろうと思っています。しかし、現実にはなかなか思うようにはいかないで苦しんでいる人が大勢おります。
では、なぜそうなるのか。それは、人の心のなかには、幸せになろう、善いことをしていこう、みんなと仲良くしていこう、正しい生活をしていこう、人に迷惑をかけないようにしていこうと思う心と、その反対に、人が幸せになろうとするとそれを邪魔する用(はたら)きがあるからであります。それを仏法では、貪瞋癡(とんじんち)の三毒と言っています。
貪瞋癡の三毒の「貪」というのは「貪欲(とんよく)」と言って、むさぼり求めることであります。世間一般では「とんよく」と読まず「どんよく」と読んでおりますが、意味は同じです。つまり、お金やそのほかの財産や地位や名誉などを際限なくむさぼり求め、飽くことがない姿を言います。この貪欲に取り憑(つ)かれると、お金でも名誉でもなんでも、自分では持ちきれないほどたくさん持っていても、その欲張りぶりは度を超え、時には手段を選ばず争ってまでも人のものを奪い取って、自分のものにしようとします。また、人が少しでも自分より良いものを持っているとそれを欲しがり、そのくせ自分のものは物惜しみして、一切、人に与えようとせず、欲しいものを欲望の赴くままにむさぼり求めるその姿は、まさに餓鬼道そのものであります。したがって、この貪欲は餓鬼道に堕ちる第一の原因とされています。
次に、貪瞋癡の「瞋」とは「瞋恚(しんに)」と言って、瞋(いか)り憎むことで、わずかのことでも感情を抑えきれず、自分の感情のままに振る舞い、自分の思うようにならないと瞋り狂い、辺り構わずどなり散らして相手を非難するようになるのであります。また、自分に非があってもそれを改めようともせず、瞋りを相手にぶつけて、徹底的に相手を攻撃するようになります。まさにその姿は修羅界そのものであります。したがって、一見、温厚そうで人格者のような人であっても、この瞋恚に取り憑かれますと、わずかなことでも、突如として人格が変わって瞋り狂ってしまうのであります。これは三毒のなかでも最も厳しく人間の心を害し、仏道修行の障害となるもので、「瞋恚の炎」というように火に譬えられていることが多く、個人的な争いをはじめ民族間の紛争や国同士の戦争などは、すべてこの瞋恚、すなわち瞋りから起きるのであります。
次に、貪瞋癡の「癡」とは「愚癡」ということで、「おろか」ということであります。世間一般では「愚癡をこぼす」と言うように、言っても仕方のないことを言って嘆くことを愚癡と言いますが、仏法では、愚癡とは愚かで、ものの道理が解らないことを言います。ものの道理が解らないということは、善因善果、悪因悪果というように、善いことをしたら善い結果が得られ、悪いことをすれば悪い結果を招くという因果の道理が解らずに、あとで大変な苦しみを味わうことになるにもかかわらず、平気で悪いことをするようになってしまうのであります。また、悪いことをしても、悪いとは思わなくなってしまいます。したがって、この愚癡というのは仏法的には「無明」と同じ意味に解釈しています。無明というのは「明るくない」「暗い」という意味で、仏様の教えを知らず、善いことと悪いことの区別がつかない、愚かなことを言います。愚かでものの道理に暗いことを闇に譬えて無明、明るくないと言うのであります。こうした道理に暗く愚かな行いが繰り返されてくると、悪いことも平気で繰り返されてくるので、悪が悪を生み、ますます悪の道に染まっていくのであります。
このように、貪瞋癡の三毒によってむしばまれた心の結果は、悪業の因縁を積み、その悪業の因縁によって苦しみを生じ、結局、多くの人がこの貪瞋癡の三毒によって、自らの身を滅ぼしていくのであります。
したがって、この貪瞋癡の三毒が人の善根を害する、すなわち人が善いことをしようとすると、それを妨害する最も根本的なものであるところから、毒と言われているのであります。また、多くの人々を不幸に陥れ、人を害するその姿はあたかも毒蛇の如く、また毒竜の如きである故に、毒と名づけるとも言われております。
このように、三毒が充満した時には、個人だけではなく周りの人達をはじめ、社会全般にわたって不幸をもたらし、一国をも、また世界をも不幸に陥れてしまいます。
                                               (この項続く)

性徳(しょうとく)と修徳

2008年01月24日 | Weblog
徳にも先天的に、その人が生まれつき身につけた「性徳(しょうとく)」と、後天的に、その人の努力、修行によって身につけた「修徳」とがあります。どちらも徳としてはこの上なく大事なことでありますが、この修性の二徳は経典に、
「性は本爾なりと雖も、智に藉って修を起し、修に由って性を照し、性に由って修を発(おこ)す。性に在るときは則(すなわ)ち修を全うして性を成じ、修を起すときは則ち性を全うして修を成ず」
と説かれ、この両者は一体不二の関係にあることが示されております。つまり、本来的に衆生には性徳が具わっておりますが、それは修行によって照らし出され、その性徳があるが故に修徳を起こすことができるのであると示されているのであります。
しかし、我々の仏道修行の上から言えば、性徳を照らし出す修行こそ最も肝要であって、この仏道修行がなければ、性徳も修徳も共に顕れてこないのであります。よって、もし仮りに先天的に勝れた性徳を持っていたとしても、それだけでは徳としての用(はたら)きはなく、また、性徳だけでは、その人の人生は生まれながらに確定してしまい、人間の幸・不幸は修正のきかない機械論的な運命論になってしまいます。これでは人間の努力が評価されない偏頗なことになってしまいます。
しかし、徳のなかには、仏道修行によって身につけることができる修徳があり、我々の努力精進によって人間は大きく変わっていけるのであります。つまり、人間の幸・不幸は先天的に確定しているのではなく、仏道修行によって修徳を身につけ、これによって転迷開悟し、煩悩・業・苦の三道を、法身・般若・解脱の三徳と転ずることができるのであります。

世人の多くは、自己の生命内に至極の仏性を内在していても、仏性のあることすら知らず、目先のことに囚われて徒に勤苦(ごんく)、憂悩しているのが現状であります。
つまり、苦悩と不幸を招いている原因は、1つには、己自身に成仏の可能性を秘めた仏性が内在していることを知らずにいることであります。
但し、仏性はその存在を覚知しただけでは、仏性としての働きを示さず、正しい教法、すなわち末法の御本仏大聖人の仏法に縁してこそ、仏性が仏性としての働きを示し、その人の境涯は大きく変わってくるのであります。

一眼の亀②

2008年01月23日 | Weblog
日蓮大聖人様は、
「仏になるみちは善知識にはすぎず。わがちえなににかせん。ただあつきつめたきばかりの智慧だにも候ならば、善知識たひせちなり。而るに善知識に値ふ事が第一のかたき事なり。されば仏は善知識び値ふ事をば一眼のかめの浮木(ふもく)に入り、梵天よりいとを下げて大地のはりのめに入るにたとへ給へり。而るに末代悪世には悪知識は大地微塵よりもをほく、善知識は爪上(そうじょう)の土よりもすくなし」
と仰せであります。
自分を正しい道に、最高の教えに導いて下さる方、善知識は一体どなたであるかということをよくよく考えるべきであります。
その方は仏様か、仏様から正しく跡を任せられ、継承された方、又更に、その法脈・血脈を継承された方に外なりません。
このお話を通して、人間として生まれたことの尊さを深く考えるべきであります。そして、私たちは、何のために生きるべきか、それは正しい仏法を信仰するために生まれてきたのだ。「南無妙法蓮華経」を唱えるために生まれてきたのだと知るべきであります。

一眼の亀

2008年01月22日 | Weblog
海の底に一匹の亀がおりました。この亀の寿命は、「無量劫」と申しますから、半永久とも言える寿命であります。
この亀は、目が1つしかなく、手足も無い、誠に不自由なうえ、おなかは鉄が焼けるように熱く、背中は雪山のように冷たく、二重の苦しみに責められておりました。
この亀の願いはただ1つ、熱いおなかを冷やし、冷たい背中を暖めることでありました。
おなかを冷やし、背中を暖める方法は1つしかありません。赤栴檀(しゃくせんだん)という木の中でも尊い木がありまして、この赤栴檀に、丁度、亀のおなかを収める程の穴があいていて、その穴におなかを入れて、おなかを冷やし、背中を太陽に当てて暖める、これしか、二重の苦しみから逃れる方法はなかったのであります。
ところが、この亀は千年に1度しか海上に浮かび上がることができません。
広い海にぽつりと浮かび上がっても、浮き木に巡り会うことは希であり、たとえ浮き木に巡り会っても、赤栴檀の浮き木に巡り会うこと、これまた希なことであります。
また、運良く赤栴檀の浮き木に巡り会っても、亀のおなかの丁度入る穴があいているものは希であります。穴は大きくても小さくてもいけない。ぴったり合うものでなければ、すぐに波のために落とされるからであります。
不思議にも、自分に丁度合う穴のあいた赤栴檀の浮き木に巡り会ったとしても、この亀は目が1つしかありませんので、西を東と見てしまい、近づこうとしても、かえって遠ざかるというようなことにもなります。
ましてや、手足が無いわけですから、赤栴檀の浮き木に近づくこと自体、至難のわざであります。
このように、この一眼の亀は、計り知れないほどの永い間、苦しみ続けるのであります。
このお話の中の、「海」とは生死の苦海に、一眼の亀を私たち衆生に譬えられております。
おなかの熱いことは、私たちが瞋恚(しんに=いかり)のためにおこる八熱地獄の苦しみであり、背中の冷たいことは、私たちが貪欲(欲望)のためにおこる八熱地獄の苦しみに譬えられております。
千年間、海の底にいるということは、私たちが悪業を作って、一旦、地獄界・餓鬼界・畜生界の三悪道(三途)に堕ちてしまったならば、2度と浮かぶことの難しさに譬えられ、千年に1度浮かび上がることは、再び人間に生まれ変わることの難しさ、釈尊の出世に会うことの難しさに譬えられております。
赤栴檀以外の木に巡り会い易く、赤栴檀には中々巡り会えないということは、『法華経』以外の一切経に会うことはできても、仏様の最高の教えである『法華経』に会うことの難しさに譬えられております。
たとえ、赤栴檀に巡り会っても、自分のおなかに丁度合う穴のあいたものに巡り会うことの難しさは、私たち衆生がせっかく最高の『法華経』に巡り会っても、『法華経』の肝心であります。「南無妙法蓮華経」を唱え難いことに譬えられております。
目については、全く信心の無い人を無目に、利他の心の無い人を一目に、仏法を自分も求め、他をも弘めようとする方を二目に配されております。
また、この亀に手足の無いことは、私たち衆生が、「自分は智慧が有る」と慢心を大なり小なり起こして、その実は、最高の教えを見下し、程度の低い教えを最高であると思っているようなものであります。
末法の世には、このような慢心の人が多いために、邪宗教が持てはやされ、大いに栄え、正しい真実の仏様の教えが流布することを妨げるのであります。
虚心に慢心を捨て、正しい師について仏教を学べば、自ずから正しい宗教にたどり着くのであります。しかし、その正しい師に巡り会うことも又難いのであります。
                              (この項続く)