はあどぼいるど・えっぐ

世の事どもをはあどぼいるどに綴る日記

惣角流浪

2006-12-27 22:32:37 | 小説
戦国時代より受け継がれた伝統的な甲冑組討の技法を、平和な日常でも使えるようにアレンジしたのが、現在広く知られている柔術だ。平たくいえば無手丸腰のまま戦う術で、その原型は江戸時代に形作られ、完成と成したのが明治時代だ。その裏には一人の男の存在がある。武田惣角。大東流合気柔術・開祖である。

「惣角流浪」今野敏

触れるだけで相手を投げ飛ばす。大して力を入れてもいないのに相手を無力化させる。様々な伝説と下卑た噂を呼ぶ合気の技。その開祖の若き日の戦いを描いた物語だ。
惣角は、会津の郷士の家に生まれた次男坊だ。生来戦うことの好きな男で、幼き頃より戦場を駆け巡ってちょこまかと遊んでいた。世の中が武士の時代から平民の時代へと移行しているのにも関わらず、学問を放って武芸を学び、宝蔵院流槍術、剣術、相撲、家に伝わる大東流などをベースにめきめきと腕を上げた。
学問を教えることを親に諦められたほどの格闘バカ惣角は、さらに小野派一刀流の皆伝を受け、直心影流を学ぶ。兄の訃報に接しても微動だにせず、家督を放棄してひたすらに己の道を突き進む。いっそ清々しいとすらいえるその姿勢は、最後まで変わらない。この人は本当に戦うことが好きなのだ。傍から見ると危なっかしく見えるほどに。
講道館柔道の創始者・嘉納治五郎との対決。琉球空手の使い手・伊志嶺章憲との戦い。命がけの死闘を経て、惣角の技と精神状態は極限まで極まっていく。暴徒の群れに立ち向かうラストシーンなどは、返り血にまみれながら歓喜の雄叫びをあげたりしているんだから、「本当にこの人、これでいいんだろうか」と心配してしまった。
人間としては明らかに間違っている。だけど、武士という絶対的な価値観の崩壊に接しながら、なおも自分の生き方を貫き通したという意味では素直に尊敬できる。明治という変革期にあって、己の持てる技と知恵の限りを後世に伝え、そして今もそれが受け継がれているんだから。たとえただの格闘バカだったのだとしても。

硫黄島からの手紙

2006-12-25 00:51:43 | 映画
極彩色に塗り分けられたイブのF市、寒い中を、Aと二人歩いていた。腕を組んで寄り添うようにしながら耐えていたのは、しかし寒さではなく……。

「硫黄島からの手紙」監督:クリント・イーストウッド

暗い映画だった。重い映画だった。各方面から賛否両論の寄せられた、クリント・イーストウッドの太平洋戦争二部作。その裏面を見てきた。
時は太平洋戦争末期、主力艦隊が破られ、本土決戦も間近に迫った日本の洋上、遥か最果ての島。陸海空の兵力を極限まで削り取られた硫黄島で、塹壕を掘る少年兵西郷(二宮和也)の独白から物語は始まる。
本部から派遣された栗林中将(渡辺謙)の指揮の下、日本軍は迫り来る米国に必死に抵抗する。しかし、戦力の圧倒的な不足、指揮官クラスの小競り合いといった様々な障害が、彼らの戦闘を不利に導く。本土からの援軍が期待できなくなったことで、それはあるひとつの明確な結末を予想させた。
これは、多くの人間の死を描いた物語だ。逆説的にいえば、生を描いた物語だ。硫黄島に死んだ人たちが一体何を思って戦っていたのか、戦わざるを得なかったのか。彼らにとっての希望と絶望は何なのか。それを思う物語だ。過ぎ去った過去に思いを馳せる物語だ。
戦争は怖い。戦争は恐ろしい。スクリーンに釘付けになりながら、ひたすらそれだけが胸に刻まれた。
だって悲惨なのだ。戦う前に赤痢で命を落とす者。爆撃でなすすべなく死ぬ者。トーチカごと火炎放射で焼き殺される者。玉砕する者。自害する者。敵に捕まり嬲り殺される者。命令違反で殺され、投降しても殺され、介錯しようとして殺され、結局、誰も彼もが死んでいく。
意識的に抑制された演出が、時折現れるグロテスクな画像が、淡々と、淡々と、見る者の心を抉る。最後のシーン、完全に征服された硫黄島の夕暮れが、会場に静寂をもたらした。沈黙の意味を、きっと誰もが知っていた。
この映画を、日本人の監督ではなくクリント・イーストウッドが撮ったということに驚いた。アレクサンドル・ソクーロフが「太陽」を撮ったように、あるいは外国人だからこそ見える真実があるのだろうか。渡辺謙の鬼気迫る演技とともに、この映画が世界に打って出ることに、特別の感慨を抱いた。




28days

2006-12-22 21:55:03 | 映画
……気がつくと、自分の部屋の布団にうつぶせになって寝ていた。
時刻は午前5時。
手探りでエアコンのリモコンをつけ、脱ぎ散らかしたジーンズとシャツの山からメガネを取り出した。
舌と手足が軽く痺れている。冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを飲みながら、状況を整理しようと試みた。
忘年会。
人数が多すぎて土鍋でしゃぶしゃぶするというレアな体験をした。
ビールを飲み、日本酒を飲んだ。浴びるほど、という表現が冗談でなくなったのは、手元がおぼつかなくなってコップを倒したからだ。
グループごとに点在するように飲んでいる同僚達の間を泳ぐようにうろつきながら、いつしか気持ちよい酩酊の中にいて……。
楽しく酒を飲んだ。いろんな人に迷惑をかけた。そういう大雑把な印象が残るのみ。
昔はこうではなかった。いくら酒を飲んだって、記憶は完璧に残っていた。加齢によって奪われたものは、体力だけではない。

「28days」ベティ・トーマス

グエンはアルコールと鎮痛剤の中毒患者。姉の結婚式でさんざ暴れ倒し、酔っ払い運転で事故を起こして施設に収容される。施設というのは、アルコール、ドラッグなど中毒や依存症の人間の更生施設だ。一定期間(多分題名どおりの28日間)、患者は下界と隔離され、食事療法、カウンセリング、各種セラピーなど介護プログラムを受ける。
グエンは我侭に好き放題にやってきた人間で、最初は施設が気に食わなくて何かと反抗するものの、刑務所送りをほのめかされたところでようやく目を覚ます。施設の作業にも積極的に参加し、嫌いだったチャントも大きな声で唱え(数人で輪になってスローガンを唱える)、グループの仲間の問題も解決しようと走り回る。
サンドラ・ブロックがアル中女を演じるってのも衝撃だけど、内容の興味深さはその上をいく。中毒患者の更生施設の内側を描いた映画なんて今まで見たことがない。
更生プログラムは、まず患者のプライドを壊すところから始めるのだ。一人の患者に対して他の患者が数人でカウンセリングをするのだが、これが決定的に痛いところをついてくる。個人が大事にしていたものや張っていた片意地、問題点を洗いざらいにし、論理的に責め立てる。
グエンのアキレス腱は、家族のことだった。アダルト・チルドレン(アルコール中毒の親に影響を受けながら育った子供)だったグエンは、酒で死んだ母の存在と優等生の姉にコンプレックスを感じ、結果的に快楽に溺れる自分になってしまったというわけだ。
家族を呼んで行うセラピーでは、当然姉が呼ばれる。今まで自分が感じていた事、姉が感じていた事。いわなかった事。いえなかった事。すべてをぶちまけて、向き合って。そして、グエンは更生するのだが……。
映画の中で、ある患者がいう。自分が真人間になったことをどこで判断すればいいのか。するとある人が答える。1年間植物か動物を育ててみなさい。水をやって、餌をやって、愛して。1年後にそれが生きていたなら、あなたは真人間です。
大変なんだ。更生するのって。一度覚えた快楽の味は、忘れようったって忘れられるものではない。一度堕ちた人間は、どこまでも堕落する。どれほど願っても、努力しても、すべてが報われるわけではない。この世には、自分では変えられないものがある。
ラストに、その怖さを思い起こさせるような事件が起きる。その事件はグエンにも多大な影響を与えるのだが、彼女は決して挫けない。挫けず、新たな人生を切り開いていく。
人間は、強くも弱くもある。希望だけでも、絶望だけでもない。多分、そういうこと。

ファイアボール・ブルース(2)

2006-12-19 22:19:14 | 小説
「どうして」布団をかぶったまま与謝野は篭った声で尋ねた。もう泣き声になっていた。「あたしが嘘ついたから?」
「違う。自分に才能がないから、それを認めるのが嫌でここまできたけど、もうごまかすのが嫌だから」
「近田ちゃんに才能ないなんて誰も思ってないよ。考えすぎなんだよ」
「違う」

「ファイアボール・ブルース2」桐野夏生

近田が火渡の付き人になってからもう3年以上が経過している。その間試合ではほとんど勝てなかったけど、後輩が入ったりして立場だけは上がっていった。気がつけば、すでに中堅どころ一歩手前の24歳。同期の与謝野や神林が結果を出して周囲に認められていく中、近田だけが足踏みしていた。
ファイアボール・ブルースの短編集は、そんな所から始まる。殺人なんて大げさな話はないけど、前作よりもPWPに密着した話が多く、その分気楽に読める。近田の火渡への忠誠は変わらず、同期の美人レスラー与謝野の出番は増え、こっちのほうが面白いという人も多いかもしれない。
だけど、結末は厳しい。2作目にしてラストということから、プロレスラーとしての近田の行く末について語られるのだが、それが辛いのだ。単にひとつの世界が閉じられるという寂しさだけではない。決してうまくいかない人生の機微が心に響く。

近田は気づいてしまった。自分が一人立ちしなければならない時期だということに。そして自分にはそれだけの力がなく、プロレスラーとしてやっていくには絶望的で、なおかつ自分が気づく前から周囲の人間はそれに気づいていたのだということに。
火渡のようになりたかった。美しく毅然として、強さと威厳に満ち溢れた存在になりたかった。望みが大きすぎることは知っている。身の程知らずだということも。でも、それでなければ意味がないのだ。
なかったのに……。
真っ暗な部屋の中、近田は悟っていた。自分と与謝野の部屋。二段ベッドの上ですすり泣く与謝野の声を聞きながら、じっと、その懐かしい暗闇の匂いをかいでいた。

最終章を読みながら、不覚にも泣きそうになってしまった。
夢破れ、田舎へ帰った近田。一般人の生活を営みながらも、彼女はかつての仲間たちへ情のこもったまなざしを注ぎ続けていたのに、同期のレスラーの葬儀の席上で、彼女は火渡から決定的な拒絶を受ける。
どうしようもない距離感とリアルな挫折。誰かの泣き声が胸を打つ。その残響が恐ろしい。

ファイアボール・ブルース

2006-12-16 17:53:29 | 小説
なぜ痛くもない関節技で痛がるのか、なぜロープに振られれば帰ってこなければならないのか。プロレスはショーであるのか、そうでないのか。それらは永遠の命題のようでもあり、また野暮な質問のようでもある。
プロレスラーという名称に、ひとつの答えがある。アマチュアではなくプロフェッショナルだということ。そのことの意味は大きい。
プロレスを見て育った。ブルーザー・ブロディやスタン・ハンセンに憧れ、三沢や川田の凌ぎ合いに胸を焦がした。彼らはまぎれもないプロであった。多くの少年たちに、永遠に解けぬ魔法をかけた。
女の子にとっての女子プロも、そうであるのに違いない。鍛え上げられた肉体。研ぎ澄まされた手練の技。飛び散る汗。血。戦う姿と立ち上がる心の強さというものへの憧れは、男女共通であるはずだから。

「ファイアボール・ブルース」桐野夏生

身長170センチ、体重70キロ。筋肉質で均整の取れた体型。短く刈り込んだ髪。左の上腕に入れられた燃え盛る火の玉のタトゥーは、バトルスタイルを表すのにふさわしい。
ファイアボール。
火渡抄子はそう呼ばれていた。アマレス仕込みのグラップリングを武器に、セメント最強女子レスラーとして名声を上げていた。
ある日組まれた男女混合の変則タッグマッチで、火渡はプロレスラーのようには見えない外国人女性ジェーンと戦う。彼女の肉体は鍛えられてはいるが、彼女自身に闘争意欲がなく、試合の最中に逃げ出し、行方不明になるという前代未聞の事件を引き起こす。なぜだかそのことが気になって、ジェーンの行方を探す火渡だが、探し当てた時には彼女は死体になっていて……。
どうでもいい事件のはずだった。得体の知れぬ外国人がひとり死んだだけ。そのはずだった。
最初に火渡の変化に気づいたのは、付き人だった。近田。試合に一度も勝ったことのない最弱プロレスラー。ハルウララみたいな女だが、この女、火渡のこととなると俄然闘志を燃やすのだ。何せ彼女の世界は火渡を中心に回っている。戦い方、生き様、すべての面で惚れ抜いている。火渡の敵は自分の敵。火渡の望みは自分の望みと、事件の真っ只中に突っ込んでいく。
そんな彼女の視点で語られるストーリーは、ミステリの形をとりつつも汗臭く爽やかだ。移動のバスの中、女子寮の生活、地方興行のリング設営など、弱小プロレス団体の悲哀を語りながら、しかし決して火渡賛歌を忘れないところなどは、可愛く微笑ましい。
でも、それだけじゃだめなんだ。それって、紙一重なんだ。仕えるべき主君を見つけた下僕の喜び。犬の幸せ。誰かにすがって生きることの気持ちよさ。女子レスラーは、強くなければならない。リングの上では、己一人しか頼れる者などいないのだから。
そのことを、火渡は近田に身体を張って教える。シングルマッチのリング上で、技の一つ一つに殺意をこめて、容赦なく徹底的に叩きのめす。それは観客が引くほど凄惨なもので、あっという間もなくスリーパーホールドで近田を絞め落とした。
「わかってるだろう。てめえ一人だってことだよ。何があってもてめえ一人。それがプロレスなんだ。」
近田のために、火渡は言う。
それはプロレスラーとしてのひとつの愛情表現でもある。燃え盛る火の玉のタトゥーは、彼女のプロ魂の象徴であると同時に、愛の強さでもあるのだろうか。
師弟関係とミステリ。プロレスラーであること。あろうとすること。透明感のある、まぶしいような本だった。

ALWAYS~三丁目の夕日~

2006-12-12 19:48:59 | 映画
渥美清の寅さんとか、水谷豊の杉下右京とか、藤岡琢也の岡倉大吉とか、ある特定の役柄の印象がついてしまう役者っている。それだけのハマリ役があることは役者として光栄なのかもしれないけど、実際には弊害のほうが多いのではないだろうか。
例えば、何をやってもその役柄のイメージで見られること。
吉岡秀隆という役者がいる。繊細で心優しい青年がよく似合う。最近の若い役者には見られない本格派の演技者だと思うが、いかんせん彼にも強すぎるイメージの問題が付きまとう。山にいる時は「北の国から」の純。海にいる時は「Dr.コトー診療所」のコトー。纏わりつく殻の大きさに、彼はいつも悩まされている。

「ALWAYS~三丁目の夕日~」

昭和33年。まだ日本が猥雑な活気に満ちていたあの時代。建築中の東京タワーの麓の夕日町三丁目には、一癖も二癖もある人たちが住んでいた。
一度切れたら止まらない、鈴木オートの堤真一。
いやがる病人に無理矢理注射、アクマ先生の三浦友和。
そして純文学の大家になる夢を諦めきれぬダメ青年ブンガクを吉岡秀隆が演じる。茶川竜之介、なんてペンネームでわかるように、このブンガクはとてつもないダメ人間だ。東北の良家を勘当され、なんとなく受け継いだ親戚の駄菓子屋も今また潰しかけている。カストリ雑誌のあがりでは生活するのが精一杯。意中の女性へプレゼントする指輪も、金を借りたうえで「箱しか」買えない。正真正銘の甲斐性なし。
最初は違和感が拭えなかった。吉岡秀隆はか弱い青年を演じさせたら右に出るもののいない役者だが、コメディの要素を含んだブンガクとはどこかシンクロしない部分があると思っていた。だが、そんなイメージの刷り込みは、いつのまにか解けていた。吉岡秀隆は、作為性を感じたコメディをあっさり自分のものとして消化し、さらに演技力1本でブンガクという青年を演じきった。
身寄りのない少年淳之介を引き取り、慣れぬ子育てに奮闘し、打ち解け、やがて強固な絆で結ばれていくブンガク。惰弱だけど、臆病だけど、わがままだけど、もたもたしてるけど、ふらふらしてるけど、めそめそしてるけど、ブンガクはブンガクのままに、じっくりと成長していく。今までだったら「いいんだ。しょうがないんだ」と諦めていたことにも、意義を唱えることができるようになって……だけど、手にいれられぬものもある。
最後のシーン。淳之介とともに沈みゆく夕日を見つめながら、ブンガクはある幻想を視聴者に抱かせた。今この瞬間の夕日が綺麗なこと、この先ずっとそれが続いていくかもしれないこと。ブンガクというキャラクターが、上映終了後もスクリーンの中で生き続けていくかもしれないこと。その息吹を与えたのは吉岡秀隆だ。そしてたぶん、それがこの映画の続編を製作させる原動力となったのに違いない。

春信殺人事件

2006-12-11 23:14:37 | 小説
小学校の図画工作から高校の美術にいたるまで、美的センスや手先の器用さを問われる授業が苦手だった。5段階評価でほとんど5をとることができた通知表の中で、一点だけ曇りがあるのが美術だった。大学に入って必修強化として強要されなくなった時には心の底から安堵を覚えた。
与えられたモチーフの陳腐さ。己の手指の不器用さ。他の教科と違って、どうすれば教師受けするのか計算できない。美的感覚に点数をつけられることも納得いかない。とにかく嫌いな教科だった。自然、美術業界そのものへの興味も薄らいでいった。世界史も日本史も好きだったが、美術史になるとてんでダメ。勉強する気にならない。接点のないままこの年齢まで生きてきて……。
そのことを、今ひたすら後悔している。

「春信殺人事件」高橋 克彦

読み始めた動機が不純だった。なにせ「パンドラ・ケース」以来のお気に入り、美術探偵塔馬双太郎がちょい役として登場するという知識以外まったくない状況。先に高橋克彦が書き上げた写楽殺人事件より始まる浮世絵3部作のことなど当然の如く知らない。登場人物の相関関係も背景もまったく白紙のまま。
それでも楽しめるのだから、まあ立派なものだ。
浮世絵専門の捜し屋仙堂耿介は、美人画の絵師として名高い鈴木春信の12本の肉筆画と共に蒸発した男の捜索依頼を受ける。自分の専門分野とは異なる捜しの依頼に違和感を覚える耿介だが、案の定、美の真贋と人間の醜い欲望を見せ付けられることになる。何年も前に拒絶した暗部を直視することになる。
というのが大雑把なあらすじ。浮世絵の専門家が描いたという割には専門用語も少なく読みやすい。謎解きの解が浮世絵と直結しているのも素晴らしい。だが何より見事なのは、主題の見せ方だ。
「ほら、浮世絵って面白いでしょ。綺麗でしょ。美しいでしょ。素晴らしいんだよ」
という純粋な感動を、他人に味わってほしいという気持ちを、登場人物を通して見せてくれるところだ。それは決してストレートなものではないけれど、きっと、読めば分かるはずだ。浮世絵に関わる人間の、金や見栄、意地汚さ、そういったものに直面し、打ちのめされた耿介が、なおも離れることのできぬのはなぜなのか。彼を縛るものはなんなのか。それはたぶん、ひたすらに、逆説的に、彼がそれを愛しているから。心が欲してやまぬから。そのものの名は……。

八月の博物館

2006-12-08 20:55:08 | 小説
「じゃあ、最後の小部屋にどうぞ」美宇はまた扉を開けた。「16世紀の収集室。珍品陳列室とか驚異の部屋とかいわれていた部屋。キャビネ・ド・キュリオジテ、ドイツ語でいうならヴァンダー・カマー」
 入るなり、亨は圧倒されて声が出なくなった。
 それはガラクタの洪水だった。天井を覆う剥製や骨や貝殻。亨はその部屋に一歩入り込んだ瞬間、物の熱気に当てられて顔が火照るのを感じた。四方を見渡す。壁という壁はもちろん、天井も窓も扉も、すべての平面に物が展示されていた。左手の棚には大きな本が何百冊と積み重なり、右手のキャビネットには鳥の剥製がひしめいていた。向かい側の壁には何段もの棚が設えてあり、中には細かい木製の標本箱がぎっしり詰め込まれている。なんだかよくわからない文字がラベルに書かれていた。窓枠にはヘビとカメの乾燥した標本が架かっている。

「八月の博物館」瀬名 秀明

 幼い頃、俺のおもちゃ箱には意味のない物がごっちゃになって詰め込まれていた。それはふやけたメンコだったり、使い古しの百円ライターだったり、時には何の変哲もない石だったりした。だけど、大事なものだったのだ。近在最強のメンコ。邪悪なるものを退ける炎。風を生む聖石。他愛もない、といってしまえばそれまでだが、少なくとも俺にとっては、それらは意味のある宝物だった。
 本書の主人公亨は、小学校最後の夏を迎える男の子。ふとした気の迷いで訪れた学校の近くの林の奥で、プレートに「THE MUSEUM」とだけ記された建物に遭遇する。それは、古今東西の博物館を集めた夢のテーマパークだった。資料の残っているあらゆる時代と場所に扉の繋がっているその建物の中で出会うのは、謎の美少女美宇と黒猫のジャック。2人と1匹は時の狭間を跳躍するうちに、古代エジプトの邪悪なる意思と遭遇してしまう。その力は強大で、ついには未来の自分にまで影響が及んでしまい……。
 というのがあらすじ。小説家になった亨と、小学生の亨の行動が相互に関係しながら事件の解決にまで至る様は、まさに王道ファンタジー小説の趣を感じさせる。
 これを書いたのが瀬名 秀明というのだから驚きだ。パラサイト・イブで第2回日本ホラー小説大賞を受賞したのが1995年。それから実に11年の月日が流れているが(本書は宮城大学を離職するのと同時期に出版されたもので、実際には5年程度)、いったい作者に何が起こったのか、と心配せずにはいられないほどの変貌ぶりだ。特段愛読者ではなかった俺ですらそう思うのだから、ファンの方々にとっては青天の霹靂どころの話では済まなかったのではないだろうか。
 もちろん、葛藤はあったのに違いない。それは、作中の専門分野に縛られる理系作者のくだりを読めばわかる。亨の大人バージョンは、瀬名 秀明本人をモデルに描かれているのだ。当人が登場する、という最大のタブー。それをこの人は恐れることなくやってのけた。どころか違和感を逆に逆手にとってもみせた。まだ小学生の男の子が、小説を論じ、小説を考える様子は、とても好ましく微笑ましい。切なさの残るラスト。その余韻の残し方は、脱帽、お見事という他ない。
 現在は東北大学工学部の特任教授を勤めている作者が、研究を遠ざけ小説に挑んでいくターニングポイントになった本という意味で、本書の存在意義は大きい。文庫本で600ページ超と、多少長めだが、一読の価値はある。

凍結

2006-12-07 13:59:59 | 出来事
その日は仕事で早出しなければいけなかった。いつもより起床時間を30分早めた午前4時半。事件は起きた。

その日は寒い日だった。早朝であることを差し引いても、いつもより一際震えるような気温だった。部屋からダイニングに出ると、素足が床に凍って張り付きそうになった。
生理現象、空腹、眠気、鳥肌。やらなければならないことと耐えなければならないことが山ほどあった。その中から選んだのが、風呂にお湯をためるという行為だった。バスタブに栓をし、蛇口をひねる。得られる代価のことを考えれば……なにより時間効率的にもっともよい。
風呂の戸を開けると、窓から寒風が吹き込んでいた。そういえば、昨晩眠気のあまり閉めるのを忘れていたのだった。後悔の念に襲われながら窓を閉め、蛇口をひねると、「シュルル」と遠くで何かがうねるような音が聞こえた。それは小さく、注意していなければ聞き逃してしまいそうなほどに微かな音で、でも、事の重大さを告げるに十分なものだった。
音が止むのと同時に風呂を飛び出し、洗面所の蛇口をひねった。台所の蛇口をひねった。トイレの給水タンクには昨日の名残の水が残っていて、わずかながら安堵した。
ポットに残っていたお湯と、冷蔵庫にあったペットボトルの水。ガスコンロとヒーター。出社までのわすかな時間に、やれるだけのことをやらねばならない。腕組みし、僕は考えた。僕と入れ違いに会社から帰宅してくる二人。その失望を想像した。
火をともしたガスコンロに薬缶をかけ、ペットボトルの水を注いだ。タオルを蛇口と、蛇口につながる管に巻く。ポットのお湯を洗面器に開け、ぬるまるのを待った。慌ててはいけない。凍結した水に熱湯をかければ化学変化で管が破裂する。それだけは避けねばならない。
万一に備えて二人のために書置きを残した。この事態への対処。間に合わなかったときの事を詫びた。
お湯の温度が下がると、それをゆっくりと管にかけた。タオルに染み込んだ温かいものが、じわじわと氷を溶かしていく。薬缶からの湯も同様にした。電気ヒーターを近づけ、最大温度で熱した。
時間切れが迫っていた。出社まで間もない6時ジャスト。着替えと準備を済ませてから蛇口をひねった。
「シュルルルル」長い音だった。はっきりと、力強いうねりの感触を手に感じた。遠くから、何かが迫ってくる。命の源。希望の象徴。努力が満たされていく感覚。

達成感を噛み締めながら僕は寮を出た。
出社し、多少得意げに、同僚のW氏に事の顛末を話して聞かせた。
冷め切った口調で彼はいった。
「今朝、あのへん6時まで断水でしょ」

最大公約数

2006-12-04 18:53:18 | 音楽
 A君と喧嘩した。
 何せ骨の髄まで文系の僕たちのことだから、爆発するような激しいものではない。
 静かな概念の対峙。そういうものだ。
 A君はこの世の善意を信じていて、僕は信じていない。
 A君は死後の世界を信じていて、僕は信じていない。
 A君は生まれもって在る宿命を信じていて、僕は信じていない。
 いつもは尊重しあえる互いの信念を、僕の舌鋒が突き崩した。もともとディスカッションが好きだということもあるのだが、その日はひたすらに機嫌が悪かったから、とことんまでいってしまった。
 A君は怒った。
 何せ骨の髄まで文系の僕たちのことだから、爆発するような激しいものではない。
 拗ねてしまったAと、僕は長い長い会話をした。逃げたくなかった。逃げてほしくなかった。対話の中で生まれるもの。その中には信頼だって当然ある。

「RADWIMPS3」RADWIMPS

 二人の関係を修復してくれたのは、たった1曲の歌だった。今風の若者が作った、青くさい愛の歌。

 何を与えるでもなく 無理に寄り添うわけでもなく
 つまりは探しにいこう 二人の最大公約数を

 その考え方は、見事に僕のそれと合致する。A君はA君、僕は僕。無理にひとつになる必要はない。互いのことを好ましく思っているのなら、二人の最大公約数を探せばよい。時間をかけて、ゆっくりと年老いながら。そうありたい。