はあどぼいるど・えっぐ

世の事どもをはあどぼいるどに綴る日記

偶人館の殺人

2007-02-25 23:26:56 | 小説
「偶人館の殺人」高橋克彦

広告代理店に勤める池上佐和子は、からくり展のポスター製作のために国際的デザイナー矢的遥を訪ねた。しかしこれが一風変わった男だった。イギリス人の母を持つハーフで、日本の常識はことわざ辞典で覚えた。そのため話す言葉がいちいち古めかしく、含蓄深い。頭も切れ、スコットランドヤードに顔が利き、いくつかの事件の解決に手を貸したこともあるという。知らず知らずのうちに矢的の魅力に惹かれていく佐和子は、また同時に殺人事件のあるほうにも引かれていってしまい……。
矢的遥と愉快な仲間たちを待ち受けるのは、からくり研究家にロックミュージシャンに女優に大社長等、様々な人間の関わる殺人事件。偶人館と呼ばれる増築に増築を重ねた不気味な屋敷と、獄死した江戸時代の大商人銭屋五兵衛の隠し財産の謎と、そのブレーンだったからくり師大野弁吉の残したからくり仕掛け。一筋縄ではいかない謎の連続が、極彩色を散りばめた万華鏡のように読む者の目を幻惑する。

「写楽殺人事件」などと比べるとさすがにアラが目立つが、それを読者に気にさせずグイグイ読ませる力技を高橋克彦は身につけた。多くは語らないので、ことわざとからくりの二段仕掛けの謎解きの妙味を味わってほしい。冒険ミステリ独特のドキドキも含め、うまく感じとれたら拍手喝采をお忘れなく。

らんぷの下

2007-02-24 22:52:31 | マンガ
明治四十二年冬。
その頃私は不忍池に程近い根津に住んでいた。
人の心も自分の心もその頃の私には捕らえがたく、漠とした不安を野心に変えて、私はただ待つしかなかった。
人生に何度か訪れる運命的な転機を……

「らんぷの下」一ノ関圭

とても漫画とは思えない、むしろ文学作品を思わせるような出だしから語られるのは、ある画家の生涯。
主人公柘植は画家志望の若者だ。美術学校の同期だった天才画家青木の出世の報に鬱屈とした日々を送っている。寝食を忘れ絵に打ち込むも目は出ず、親からの仕送りは打ち切られ、かえって財政的に逼迫していく。恋人すなほとの暮らしにも安らぎはない。むしろ憎しみとやりきれなさのみが募っていく。そうさせるのはヒモ生活の後ろめたさだけではない。
美術学校時代、すなほは青木の恋人だった。柘植は青木の才能とすなほの美貌を羨むあまり、無理矢理にすなほをモノにしようとしたのだが、意外にもすなほは柘植を拒まず、青木は二人を祝福しさえした……。
それが悔しいのだ。青木の描いた絵を模倣し、青木の抱いた女を抱いて、無駄に積み重ねられていく日々の中で、我慢ならない屈辱のみが残るのだ。嫉妬の炎にあてられた柘植は、かいがいしく世話を焼いてくれるすなほに鬱憤をぶつける。生々しい女の世渡りをあげつらい、怒鳴り散らす。
すなほも黙ってはいない。青木の陰に怯え、その背を追い続け、自分のことをちっともわかってくれようとしない柘植を罵る。
女に発言権がある時代ではなかった。女が出世できる時代ではなかった。かつて青木並みの才能を絶賛された女傑の、女であるが故の悲しみ。こんな男に賭けてしまった自分の目の無さ。奔流となったストレスのぶつかり合いは、やがて寒々しい結末へと流れ着く……。

白土三平を思わせるような暗い劇画調のタッチ。スクリーントーンを極力廃し、色の濃淡と線描の細やかさでのみあらわされた世界。そこにはデッサンのよどみも狂いもまったくない。この作品から漂う凛としたたたずまいの正体は、作者本人の作品に取り組む姿勢そのものであるようにも思える。
だからこそ惜しい。一ノ関圭という人は、俺と同郷で、俺が生まれる前にデビューして、俺がその存在を知る遥か前に筆を折っていた。これだけの画力で、これだけ説得力のあるストーリーテリングで、機会にも恵まれていて。なぜに語ることを辞めたのかわからない。あるいは、すなほと同様のことを思っていたのだろうか。
作品後半、すなほと柘植の口論のシーンから引用する。
「しょせん女の力じゃ一度燃焼するのがせいいっぱい。永くは続かないわ……」

ドリームガールズ

2007-02-19 16:16:14 | 映画
「ドリームガールズ」監督:ビル・コンドン

一瞬で引き込まれた。それは濁流に飲まれる感覚にも似ていた。派手な照明、きらめく衣装、リズミカルにかき鳴らされるブラックミュージック。陽気な音楽の洪水の奥から、きっと楽しいことが押し寄せてくる。その予感が運転疲れの脳を完全に覚醒させた。トニー賞6部門を受賞した伝説的ミュージカルの映画化は、「シカゴ」脚本を担当したビル・コンドンが指揮をとり、キャストにも恵まれ、結果後世に語りつがれるべき名画となった。歌うことの楽しさと、夢の変遷。それがテーマだ。
シカゴ育ちの三人娘エフィー(ジェニファー・ハドソン)、ディーナ(ビヨンセ・ノウルズ)、ローレル(アニカ・ノニ・ローズ)はドリーメッツというトリオを結成、スターになることを夢見て多くのアマチュアオーディションに出場していた。実力はあるのに運に恵まれない三人だが、野心家カーティス(ジェイミー・フォクス)との出会いにより、ジェームス・アーリー(エディ・マーフィー)のバックコーラスを任されることに。それだけでも成功には違いないが、カーティスは満足しない。強引な手腕ながらも黒人開放の時流に乗り、三人娘をザ・ドリームスとして華々しくデビューさせた。
その際リードボーカルを歌唱力に勝るエフィでなく華麗な容姿のディーナにしたのはテレビ時代の訪れの現われでもある。だがそれを不満とするエフィは大暴れの末に脱退。新メンバーとともにザ・ドリームスが歩むのは、ポップでライトで踊れる音楽。ソウルを失った楽曲に絶望したジェームスと作詞家C・Cが離れ、映画出演など音楽活動以外の活動に従事させられることにディーナは疲れ……。
彼女らは自らに問う。自分たちがやりたい事はなんだったのか、かなえたい夢はなんだったのか。他人の夢を踏みにじってもなんとも思わないハイパープロデュースマシンと化したカーティスに鉄槌を下し、そして壮麗なるラストステージが訪れる……。

ジェニファー・ハドソンの名演、ビヨンセ・ノウルズの美声、ジェイミー・フォックスの悪の演技。良いところはたくさんあるけど、個人的に印象に残ったのはエディー・マーフィだった。彼の演ずるところのジェームス・アーリーは中堅どころの歌い手だが、陽気で下品で女好きで、でもソウルに満ちていて、本当に楽しそうに歌うのだ。生粋のエンターティナーのエディのキャラが生かされていて、それがとても嬉しかった。最近ぱっとしない彼だけに、この当たり役は大きい。夢の変遷と人の心の移り変わりと、汚れちまった悲しみと、それらをすべて表現しきった彼のラストは見物。

密室殺人ゲーム王手飛車取り

2007-02-17 08:35:41 | 小説
「密室殺人ゲーム王手飛車取り」歌野晶午

頭狂人、044APD、aXe、ザンギャ君、伴道全教授。5人の趣味人が、AVチャットで会話している。名前だけでなく、姿形もまともではない。ウェブカム越しに映るのは、ベイダーマスク、モザイク、ホッケーマスク、カミツキガメ、アフロの鬘にぐるぐるメガネ。尋常一様ならざる奇妙な人間たちが語り合うのは、これまた奇妙な推理ゲーム。密室、アリバイ崩し、凶器探しに犯人当て。しかもそれらがすべて現実に彼らの(彼女らの)手によって起こされているという。
もはや食傷気味の感のあるネットを利用したミステリに一石を投じた、歌野晶午の意欲作。トリック偏重の新本格派、さらに題材が題材だけあってか人間性は意識的に排除して書かれている。5人は持ち回りで人を殺し、問題の難易度、回答の完璧さを競い合うのだが、人を傷つけたり殺したりすることに誰一人なんのためらいも持っていない。主人公頭狂人にいたっては、トリックが先にあり、実行に最善な状況があったから殺したのだといってはばからない。
現実にいるかもしれない、かつ得体の知れない人種に戦慄を覚えながら、しかしページをめくる手は止まらなかった。なんといっても面白いのだ。淡々と殺人を犯す5人の、唾棄すべき姿勢に怒りを感じながら、一方で麻痺していく感覚と、謎解きの楽しさに導かれるようにして、最後まで一気に読んでしまった。
強引だけど、力のある作家だ。匿名性を失うことの怖さと、極めてしまった人間の孤独をちらつかせながら、頭狂人という人間の悲しみを描いてみせた。禁忌の領域に踏み込んだ犯人たちに、ある種のシンパシーを感じさせた。「あってはならないこと」なのに、最後の最後に願わされた。彼らの(彼女らの)上に救いがあってほしい。そう祈らされた。それは歌野晶午という作家の実力のなせる業に他ならない。

ジョジョの奇妙な冒険 ファントム・ブラッド

2007-02-15 10:35:26 | マンガ
19世紀!
それは産業と貿易の発展が人びとの思想と生活を変えた時代だッ!
依然!
食糧不足や貧富の差が激しいにも関わらず大人も子供も「自分もいつか金持ちと同じようなくらしができるッ」このような幻想を抱いていたッ!
それは嵐のようなすさまじい渇きだったッ!

「ジョジョの奇妙な冒険 ファントム・ブラッド」荒木飛呂彦

19世紀後半の英国。ヴィクトリア女王の治世下で、貴族と呼ばれる特権階級の人口は0.4%にしか満たぬのに、国土の半分以上を所有していた。
エリート教育を受け、スポーツに励み、古典と信仰を学び、領土と階級の保護下に送る恵まれた人生。貴族は生まれてから死ぬまで貴族であり、程度の差こそあれ貧しさに悩むことはなかった。貴族以外の誰もが、その富裕ぶりを羨んだ。最下層に生まれたディオ・ブランドーだって例外ではない。
ましてや時代であった。第1次・第2次の産業革命を経て、海外植民地からの原材料と労働力を得て、石炭・石油など新燃料による工業の発展を見て、イギリスは富み栄えていた。その富が、つまりは金が、上・中・下と三つに分かれた階層社会の垣根を取り払いつつあった。
亡父のツテを頼り、名門ジョースター家に潜り込んだディオは、そこで運命的な出会いをする。ジョナサン・ジョースター。通称ジョジョ。悪を憎み、義を重んじる英国紳士の卵だ。
いずれジョースター家を乗っ取るつもりでいたディオは、ジョジョを徹底的にいじめ抜く。学問、スポーツ、遊び、愛犬、友人、恋人。ありとあらゆる分野でいたぶり、ジョジョに精神的ダメージを与えていく。打ちのめされたジョジョに、自分のほうが上であることを見せ付ける。しかしジョジョはくじけない。孤独とストレスに耐えながら、瞳の光を消さない。
やがて時は経ち、ディオとジョジョは親友になった。共に名門の大学へ進学し、輝かしい未来へ歩みを進めていた。……と、思っていたのはジョジョだけだった。ディオは相変わらずの邪悪さで、むしろより狡猾に事を運んでいた。それはジョジョの父、ジョージ・ジョースター1世の殺害。人知れず毒を盛り続けることによって毒殺し、一気にジョースター家当主の座を狙っていたのだ。
ところが……というところでようやくメインストーリー。アステカ民族に伝わる禍々しき石仮面の力を手中にし吸血鬼となったディオと、仙道波紋の技を習得した吸血鬼狩りジョジョの戦いのドラマ。それは本作だけでは終わらず、子々孫々の代にまで及ぶ長い戦いとなった。
ジョジョには多くの魅力的人物が味方してくれる。後の妻エリナ・ペンドルトン、師匠ウィル・アントニオ・ツェペリ、友人ロバート・E・O・スピードワゴン、戦友ポコ。
一方で、ディオに味方と呼べる人物は一人もいない。ワンチェンにしても切り裂きジャックにしても、黒騎士タルカスとブラフォードにしても、あくまで支配者と奴隷の関係に過ぎない。心を許せる者がいない。いるとすれば、それはただ一人、ジョジョのみなのだ。幼き頃から争い続け、憎み続け、何度も命のやり取りを交わしたライバル。彼のみが、最後にディオのことを友と呼んでくれた。船の中で抱き合うようにして、共に最後の時を待っていた……。

勇気・友情・勝利という少年漫画の三大原則を守りつつも毒に満ちたこの作品は、発行から十数年経った今も、色褪せることのない面白みに満ちている。数多くのジョジョの中の最初の一人。ジョナサン・ジョースターの潔癖さは、以降の作品の中にもしっかり受け継がれている。それはまるで血液のように。

ブラック・レイン

2007-02-10 18:36:05 | 映画
「ブラック・レイン」監督:リドリー・スコット

滲むように真っ赤に沈む夕日。蒸気と煙で黒く塗りつぶされた地上。赤と黒の毒々しいコントラストで表現された工場地帯が、敗戦後の瓦礫の山から復興した日本の象徴である、とリドリー・スコットは思っていた。結果生み出された猥雑で活気に溢れた街並みを大阪に求め、名作「ブレード・ランナー」のようなサイバーパンクな世界観を見事創りあげた。後にも先にも、これほど異国感を漂わせた道頓堀の映像を撮った作品を、俺は知らない。
ニューヨーク市警殺人課の汚職刑事ニック(マイケル・ダグラス)は、偶然居合わせたレストランで日本のヤクザ同士の抗争を目撃する。負傷しながらもなんとか拘束したヤクザ佐藤(松田優作)を日本まで護送する任務に就くが、日本の警察官に扮したヤクザに佐藤を奪われてしまい、慣れない土地での捜査に奔走することとなる。大阪府警の松本(高倉健)の協力はあるが、何せ大阪は佐藤の地元、相手の策略にまんまとハメられ、相棒チャーリー(アンディ・ガルシア)が斬殺されてしまう……。
捜査を共にするうちに芽生えるニックと松本の友情。菅井(若山富三郎)や菅井の若衆(安岡力也)の板につきすぎたヤクザぶり。ヤン・デボンの手による印象的なカメラワーク……。
見所は満載だが、なんといっても本作のポイントは佐藤。松田優作が生み出した暴走ヤクザのど迫力。ニューヨーク市警の取調室で、マジックミラー越しに見えるはずのないニックにサインを送るシーン。夜の大阪の駐車場で、追い詰めたチャーリーの首を刎ねる直前の無言の笑い。口数の少ない佐藤という男を所作のみで演じきるあたりはさすが。とても撮影当時癌を患っていたとは思えない。
佐藤の名演がアメリカ映画界に残したイメージは大きかった。実際、ショーン・コネリー監督の次回作に出演するという話もあったという。が、そんなことはもはやどうでもいい。彼が死んでしまったことに変わりはない。彼は永遠に失われ、スクリーンの中にのみ生き続ける存在となった。映画に命を賭けたある一人の男の亡骸。その姿が荒廃した工場地帯の姿とだぶる。高度経済成長の真っ只中にある街並みの、内在する儚い夢の、行き着く先にある悲しみ。それを背負っているからこそ、この映画は心に沁みるのだ。

うつうつひでお日記

2007-02-10 09:11:01 | マンガ
ネット媒体の日記が好きだ。ブックマークしたブログは20もあり、毎日暇を見つけては覗くようにしている。
紙媒体の日記も好きだ。日記漫画だけでも10冊以上は持っている。
映画、格闘、時事、育児、お仕事、バカップル、闘病に薬物。ジャンルに対するこだわりはなく、興味のある日常を扱っている日記であればなんでもいい。
世の中には他人の日記好きな人がたくさんいる。その多くは、少なくとも俺は、憧れているわけでも自分を重ねて見ているわけでもない。出歯亀根性、というのとも違うと思う。ある種の好奇心の発露だ。例えば他人と話している時に、自然とその人のことが知りたくなって色々聞いてしまうのと同じように。俺たちは、日記を通して対話している。

「うつうつひでお日記」吾妻ひでお

「失踪日記」の著者による、家に帰ってから「失踪日記」を発行するまでを描いた日記漫画。遅筆な作者らしく、一部自費出版していた作品を流用しているらしい。
そのせいか、というわけでもないな。この人の場合はもともと読者に対しておもねるところがまったくない。楽しませようとしていないわけではなく、単純に嘘を書かない。だからこそ、とてもリアルだ。事件も波乱もなく、神経症に悩まされながら好きな本を読み、格闘技を見、ちょっとロリで、ちょっと仕事したりして……そんな自堕落な日々を連綿と綴っている。アル中とか神経症とか、時々出てくるブラックな話題をコミカルに書いてしまえるのもこの作者ならでは。
得るものがあるか、と問われればあるとはいえない。生存を賭けた闘いを生き残った作者が、一転起伏のない生活を飄々と歩んでいく様が好ましい。それは映画のエンドロールに主役の日常が映されていくのにも似ている。願わくば、なるべく長生きして、もう少しでいいから作品を残して欲しいものだ。

幸せのちから

2007-02-06 00:44:26 | 映画
「幸せのちから」監督:ガブリエレ・ムッチーノ

原題はThe pursuit of happyness。アメリカ独立宣言に基づく言葉。スペルの間違いは、作中に登場する託児所の落書きに由来している。正しく訳すなら「幸福の追求」となるが、堅苦しさを避けるためこのような邦題になった。しかし「幸福の追求」は作中重大な意味を持つ言葉として何度も登場してくる。「幸せのちから」ではだめなのだ。その根幹に関わる変更をあっさりとやってしまうところが非常に腹立たしい。

個人的鬱憤はともかくとして、面白い映画だった。単純なサクセスストーリーではなく親子の愛を描くことに重きを置くことにしたのは正解。
骨密度測定器のセールスに失敗したクリス(ウィル・スミス)は妻に捨てられ、息子クリストファー(ジェイデン・クリストファー・サイア・スミス)と共に路頭に迷う。アパートを追い出され、モーテルからも締め出され、友人からは見捨てられ、泊まれるところといえばグライド(貧民救済の宿泊施設)のみ。そこがだめなら駅のトイレの個室。唯一の希望の光は株の仲買人の見習いになれたことだが、それだって20名の中から1名のみの選抜で、あげく半年間無給ときてる。
どこまでも落ちていく境遇に唖然としてしまう。しかもそのほとんどが自分の蒔いた種。まったくもって自業自得……なんだけど、なぜか同情してしまうのはクリスの行動指針が純粋だから。息子を愛し、共に幸せになる為にサンフランシスコをひた走る姿に父親を感じるから。
クリスが高級車から降り立った男に成功の秘訣を聞くシーンがある。街をゆく人々の笑顔に羨望を感じるシーンがある。すべての人間は平等で、等しく生命、自由、幸福を追求する権利を有するのだから、きっと俺だって幸福になれる。その願いには共感できる部分があった。幸せになってほしいと思わされた。だからこそというか、ラストの無音の雑踏の中での歓喜のガッツポーズはなかなかの名シーン。
その他に特筆すべきは息子クリストファーの可愛さだ。ウィル・スミスが実の息子を映画に登場させると聞いて、その親バカぶりに正直がっかりきていたのだが、これが意外や意外の掘り出し物だった。飛んだり跳ねたり泣いたり笑ったり愚図ったり、演技なのかそうでないのか分からないほどのナチュラルさ。そしてウィル・スミスにもたれかかった時に浮かべる安らぎの表情。委ねきった寝顔。こればかりは他の子役には真似できない。実の親子ならではのコンビに拍手。

失踪日記

2007-02-04 08:41:28 | マンガ
「89年11月。わたしは某社の原稿をほっぽって逃げた。
仕事したくない病と二日酔いのせいですかね。
一週間ばかり友人の部屋に泊めてもらった。
仕事場に帰ってみると編集さんのメッセージ。
その後ほとんどの連載をやめて、休養期間に入った。
休筆中は朝仕事場へ行き、酒飲んで寝る。
夕方家へ帰って、酒飲んで寝てた。
そんな生活をしているうちにだんだん鬱と不安と妄想が襲いかかってきて、死にたくなってきた。
金も無くなったし最後の酒を飲んだ。
山の斜面を利用した首吊りである。
でも眠ってしまった。」

「失踪日記」吾妻ひでお

なんとも人を食った出だしもあったものだ。
精神を病んだアル中漫画家吾妻ひでおの失踪期間を綴ったこの漫画は三部構成の日記形式になっていて、ホームレス編、ガテン仕事編、アル中病棟編、と題名を聞いただけでも重い生活をコミカルに描いている。
このコミカルというのがポイントだ。彼の筆には社会正義とか社会病理を描き出そうといった気負いがまったく見られない。テーマがテーマだけに、ややもすればドキュメンタリー調に問題点を押しつけてしまいそうなものなのだが、それは無視して淡々と日々の生き延び方のみを綴っている。まるでただのお仕事漫画のように。
寒風吹きすさぶ中腐った毛布で寝たり。盗んだ大根と拾った天ぷら油で朝食をとったり。ホームレスの人の食い物をかっぱらったり。夜うろついていたら警察官に追われたり。その生活は決して見習えたものではないが、なぜか目が離せない。それは、何物にも縛られることのない、ただ生存するのみの毎日を羨ましく思ってしまうからだ。極限まで削ぎ落とされたシンプルな生活は、ある種の望郷の念ともうひとつの感情を呼び起こす。それは……。

蛇足だが、この作品は2005年に発刊され公表を博し、日本漫画家協会賞大賞、文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞、手塚治虫文化賞マンガ大賞、の漫画三冠と星雲賞ドキュメント部門を受賞している。