■リアルのゲーム化
このところ、zippa-zappa様<とのコミュニケーション考察での
コメント交換で、いろいろと思考刺激を受け続けております。
まとまりがないのですが、でも残しておかないと流れてしまいそうなので、
現時点で思ったことを思うままにログ化しておきたいと思います。
大幅に編集していますので、zippa-zappa様の主旨とは異なるかもしれません。
興味のある方は元記事をご参照くださいませ。
なお記事とコメント・レスを同等扱いとしております。
(zippa-zappa様、問題あればおっしゃってくださいね?)
・・・と、こういう好都合主義な再編記事そのものもゲーム化を進める要素なわけですが・・・。
=================================
「戦争」についての考察メモ
N :最近のネットの意見って、
ゴーストの希薄な、並列化された義体のように思えることがある。
けっこう情報密度高くて、多角的考察に見えても結局ソースが1つだったり。
Z:ネットでの議論を見ていると、情報レベルで論破していくというのが多い気がします。
「論破」することが目的の情報収集合戦にも思える。
本当は、靖国とか、戦争とかどうでもよくて、議論して勝ったと思える快感が欲しいだけなんじゃないかと。
N :うーん、これは非常に鋭いですね。
一種の「情報ゲーム」ですね。
それ自体はいい面も持ってるのでしょうが、
そこに人間の本質的な快感欲求(残虐性含む)が絡むと
様相が変わるような気がします。
密度と凄さ
Z:情報は凄いんだけれど、なんか知性というか、情報を統合して、抽象化した思考が感じられなかったり。
N:きっと絵で言えばCG的には凄いけど、それって、8割まではPC任せだよね、みたいな・・・。
はてなやグーグルがますます知識共有化&自動編集効率を高めていく時、知識のレプリカをいくつも見ることになるのかな、と思います。
Z:素材を切って貼るのではなく、どろどろに溶かして、固めて、形を作って、削って、また溶かして…という作業が必要だろうなと。
単なる、ブロック遊びより、粘土遊びの方が面白い。
映画論から三段跳び
Z:同じ映画を観ることはできない。
こういう趣旨のことを、以前から、押井守が、言っている。
たとえ、映画館で同じ映画を並んで観ていても、認識として現れている映画は、全く違うものだろう。
また、一人の人間に着目しても、1度目と2度目では、異なるだろう。
(中略)
結局、全ての、広い意味での情報は、変容しながら流通している。
N:人間という認知機関はその不完全な再現性ゆえに
「個」としての意味をもつ、逆説的な場合もあるのかも。
というか、これってまさに人間が1代限りの生と引換えに
遺伝子のバリエーションを選んだのと同じ一緒のフラクタクル構造
みたいに思えました。
上記を思考ソースとして、以下、なるもにあ私見。
本来、人間は差違を持って生まれるように遺伝子自体に仕組まれ
無限の可能性を試すべく、決定づけられており、
いくら外部記憶装置がネットワーク化されている、といっても
最終的に認知するのが、個人のスタンドアローンな脳内消化で
ある限り、すべての情報もまたスタンドアローンであり、
「全ての、広い意味での情報は、変容しながら流通している。」
はずなのですが。
最近のネットコミュニケーションの傾向である
●情報の即時共有化・思考の並列化
●PC任せの二次以降情報の(見た目)多角的な自動編集・コピペカルチャー
が、コミュニケーション空間そのものを虚構化させ、ゲーム化させ、
結果的に一種のディベート感覚の勝ち負け重視の「快感」志向に陥ってる、
もしくは細部の区分にこだわりすぎている
という感じが強まっているように感じます。
ネットイナゴにいたっては、議論ではなく、記念コメ状態だったり。
自分で思考しているように見えて、その実、
情報ソース次第でどうにでも扇動される・・・。
もしくは自ら「情報ゾンビ」となってわざと操られる・・・。
自己埋没ゲームを楽しむ、同じ言葉を操るネット部族。
「魂は細部に宿る」のか?それではまるで「ヒトガタ」のようだ。
すでに全ての思考が&現象がゲーム化しつつある。
マルチエンディングではあるが、あらかじめ結果が書き込まれたゲーム。
マスコミも個人も思考停止して慣性の法則で動いているように見える。
エッシャーの関係性のように裏表でつながりながら・・・・。
お互いイニシアチブを取っているつもりだろうが、
お互いのしっぽを喰らいあってつながっているヘビのように
そこでは変化の予兆も進化の可能性も見ることはできない。
世界が自らの情報の重力で内側に沈みはじめたら
全てが加速的にブラックホール化していくのだろうか。
こういう文章もまた思考ゲームにすぎないわけで。
そうした全般的なゲーム化が悪いのかどうか・・・。
それもまたコミュニケーションのある種の進化と変容と
いうべきなのかもしれませんが。
でも、「私」たちが個々に相手のしっぽをくわえるのではなく、
情報をゴクゴクと飲み込んで、精一杯咀嚼して、
こうして自分の言葉にして語り続けるしか、思考の形はないという気もする。
私の場合は特に、「見える化」する作業が意味を持つと思っています。
それも他者視線を意識した環境で。
★SEEDS
・「見える化」は誰のための作業なのか?
・脳内思考も言葉を使う以上自分という相手を必要とする。独り言系の情報も参加型の情報も、受け手にとって刺激があれば、その区分けに意味はない。
・語る相手と語り方。
このところ、zippa-zappa様<とのコミュニケーション考察での
コメント交換で、いろいろと思考刺激を受け続けております。
まとまりがないのですが、でも残しておかないと流れてしまいそうなので、
現時点で思ったことを思うままにログ化しておきたいと思います。
大幅に編集していますので、zippa-zappa様の主旨とは異なるかもしれません。
興味のある方は元記事をご参照くださいませ。
なお記事とコメント・レスを同等扱いとしております。
(zippa-zappa様、問題あればおっしゃってくださいね?)
・・・と、こういう好都合主義な再編記事そのものもゲーム化を進める要素なわけですが・・・。
=================================
「戦争」についての考察メモ
N :最近のネットの意見って、
ゴーストの希薄な、並列化された義体のように思えることがある。
けっこう情報密度高くて、多角的考察に見えても結局ソースが1つだったり。
Z:ネットでの議論を見ていると、情報レベルで論破していくというのが多い気がします。
「論破」することが目的の情報収集合戦にも思える。
本当は、靖国とか、戦争とかどうでもよくて、議論して勝ったと思える快感が欲しいだけなんじゃないかと。
N :うーん、これは非常に鋭いですね。
一種の「情報ゲーム」ですね。
それ自体はいい面も持ってるのでしょうが、
そこに人間の本質的な快感欲求(残虐性含む)が絡むと
様相が変わるような気がします。
密度と凄さ
Z:情報は凄いんだけれど、なんか知性というか、情報を統合して、抽象化した思考が感じられなかったり。
N:きっと絵で言えばCG的には凄いけど、それって、8割まではPC任せだよね、みたいな・・・。
はてなやグーグルがますます知識共有化&自動編集効率を高めていく時、知識のレプリカをいくつも見ることになるのかな、と思います。
Z:素材を切って貼るのではなく、どろどろに溶かして、固めて、形を作って、削って、また溶かして…という作業が必要だろうなと。
単なる、ブロック遊びより、粘土遊びの方が面白い。
映画論から三段跳び
Z:同じ映画を観ることはできない。
こういう趣旨のことを、以前から、押井守が、言っている。
たとえ、映画館で同じ映画を並んで観ていても、認識として現れている映画は、全く違うものだろう。
また、一人の人間に着目しても、1度目と2度目では、異なるだろう。
(中略)
結局、全ての、広い意味での情報は、変容しながら流通している。
N:人間という認知機関はその不完全な再現性ゆえに
「個」としての意味をもつ、逆説的な場合もあるのかも。
というか、これってまさに人間が1代限りの生と引換えに
遺伝子のバリエーションを選んだのと同じ一緒のフラクタクル構造
みたいに思えました。
上記を思考ソースとして、以下、なるもにあ私見。
本来、人間は差違を持って生まれるように遺伝子自体に仕組まれ
無限の可能性を試すべく、決定づけられており、
いくら外部記憶装置がネットワーク化されている、といっても
最終的に認知するのが、個人のスタンドアローンな脳内消化で
ある限り、すべての情報もまたスタンドアローンであり、
「全ての、広い意味での情報は、変容しながら流通している。」
はずなのですが。
最近のネットコミュニケーションの傾向である
●情報の即時共有化・思考の並列化
●PC任せの二次以降情報の(見た目)多角的な自動編集・コピペカルチャー
が、コミュニケーション空間そのものを虚構化させ、ゲーム化させ、
結果的に一種のディベート感覚の勝ち負け重視の「快感」志向に陥ってる、
もしくは細部の区分にこだわりすぎている
という感じが強まっているように感じます。
ネットイナゴにいたっては、議論ではなく、記念コメ状態だったり。
自分で思考しているように見えて、その実、
情報ソース次第でどうにでも扇動される・・・。
もしくは自ら「情報ゾンビ」となってわざと操られる・・・。
自己埋没ゲームを楽しむ、同じ言葉を操るネット部族。
「魂は細部に宿る」のか?それではまるで「ヒトガタ」のようだ。
すでに全ての思考が&現象がゲーム化しつつある。
マルチエンディングではあるが、あらかじめ結果が書き込まれたゲーム。
マスコミも個人も思考停止して慣性の法則で動いているように見える。
エッシャーの関係性のように裏表でつながりながら・・・・。
お互いイニシアチブを取っているつもりだろうが、
お互いのしっぽを喰らいあってつながっているヘビのように
そこでは変化の予兆も進化の可能性も見ることはできない。
世界が自らの情報の重力で内側に沈みはじめたら
全てが加速的にブラックホール化していくのだろうか。
こういう文章もまた思考ゲームにすぎないわけで。
そうした全般的なゲーム化が悪いのかどうか・・・。
それもまたコミュニケーションのある種の進化と変容と
いうべきなのかもしれませんが。
でも、「私」たちが個々に相手のしっぽをくわえるのではなく、
情報をゴクゴクと飲み込んで、精一杯咀嚼して、
こうして自分の言葉にして語り続けるしか、思考の形はないという気もする。
私の場合は特に、「見える化」する作業が意味を持つと思っています。
それも他者視線を意識した環境で。
★SEEDS
・「見える化」は誰のための作業なのか?
・脳内思考も言葉を使う以上自分という相手を必要とする。独り言系の情報も参加型の情報も、受け手にとって刺激があれば、その区分けに意味はない。
・語る相手と語り方。
ゲームというのは、ルールに従ってやるものですから。
すでに仕組まれた世界の中で、プログラムに予定された行為の範囲で遊んでいるにすぎないわけですよね。
思考も、言語や、思考方法に拘束されてはいますが、エライ哲学者なんかが、必死になって、近代的な思考方法なんかから逃れようとしているように、思考はある部分では、プログラムから逸脱できてしまったりすると思います。
まあ、たいてい逸脱した思考は、他人に伝わりにくいものですが。
いや、何を言いたいかと言いますと、ゲームもそのプログラムの存在を意識したとたん、ゲームから逃れられるのではないかと。
少し現実的な話をしますと、ネットに関する教育ってそういう部分も必要だろうなと思います。
単なるスキルやリテラシーの部分だけではなくて、情報と思考の問題を意識して情報化社会とどう向き合うかというような。
ネットの海に漂っても、そこに埋没しないように。
細かな情報に振り回されないようにとか。
行えない人間を阻害する当方ですがこのネット
社会と化した現代ではナリスマス事で誹謗中傷
を簡単に行え逃走する輩がいます。それに対抗
するには自分もネットワーク・スキルを会得を
しないと自己防衛が出来ません。よってみっち
り勉学しましたが教師役が某世界ランクハッカ
ーだった為やたらと変な知識が身についてしま
いました。これを使用するかは自己規制以外に
ないのですが・・・ロシア系や中国系は違う意味
で進んでいます。
「見える化」はファクトリー分野で有名なもの
があります。所謂トヨタ生産方式ってやつです
が、この工場見学をさせてもらった某所では、
人間は機械並に正確な動きと正確な生産を繰り
返すマシンでした。重要なのは生産過程や行動
内容を「見える化」し他者へのアナウンスとし
て不良率低減を目指していました。工程全体を
円グラフ化し特性要因を列挙し・・・QCと言われ
るものを張り出していました。これも情報。
さてどちらの情報が正確でリアルかと言えば
当然後者。尤もそれを偽って良く見せるバカ
もいたりしますが(自動車:M社)。
ネットに徘徊するクラッカーやキディも、
工場で働く単純労働作業者やその管理者も、
基底では同じモノを扱っています。
それは「情報」という渦です。
顔が見えないネットワークは議論や情報の多さ
更にはその情報の秘匿性を公開する事による
優越感が快感の元になっている事は否めず。
しかしより生産的に無駄が無いのがリアルなる
先の工場レベル。ここは生活がかかっており
会社の存亡がかかっており「顔が見える」から
です。
情報は顔の見える人間から貰う時が貴重、
しかし、そこにはネットワーク以上に危険な
事もあるのは否めず。
それは「人間関係」を成立させるという事。
語る相手は顔を見て。
情報は渦にして呑み込まれるな。
見える化は重要な糧となる。
以上三点、当方の教訓でもあります。
適確なコメントをありがとうございます!
>思考はある部分では、プログラムから逸脱できてしまったりすると思います。
結局、ブログ考察でも同じなのですが、コピペを嫌って、情報ソースを
もとに、自分で思考していくしかない、と思います。
で、ネットではそうした思考活動も「見える化」できるので、
場合によっては「逸脱プロセス」も含めて、考えていく必要があるのかも。
(・・・ないのかも<どっちだ!
>まあ、たいてい逸脱した思考は、他人に伝わりにくいものですが。
そうですよね。
他人に伝わらなくてもいい、という意見もあると思いますが
それだと認知論的には非存在と同じなんですよね。
自分ですら把握しきれない自分の思考を他人に伝えるのは困難。
ただそこで生じる様々なズレが、非同一の可能性かもそれないので
「逸脱した思考」も支持したいと思います。
>単なるスキルやリテラシーの部分だけではなくて、
>情報と思考の問題を意識して情報化社会とどう向き合うかというような。
同感です。
でタイムリーな記事が『ITメディア』でアップされてたので、
さっそく記事化してみました・・・。
なんだか、ネットのリアルが思考に追いついてきてるというか
その逆か・・・
関連記事やひっかかるネット事件がひっきりなしにアップされるので
考察とゆーか、自転車操業というか、私のような一度咀嚼しないと
腑に落ちないタイプは周回遅れになりそう。
zippa-zappa様の情報掌握力とベクトルの管理能力
まじうらやましいですー;;;
こういうエゴな思考記事にご参加くださる方がおられるのは
大変ありがたく思っていますです。
リアルな具体例を事例にだされての比較考察、
非常に興味深いです。
ひきだしが多いというか、懐が底なし沼というか
einnonti-H様の思考樹海も深いですねーーーーーー!!!
(ご本人のための全自動可動式樹海、というイメージ)
>教師役が某世界ランクハッカーだった為
einnonti-H様の場合、リアルが映画のようです。
でも真実なのがコワイ(え”
で、エド並みの情報スイミングを身につけられたわけですね♪
>ロシア系や中国系は違う意味で進んでいます。
非常に興味をひかれつつ・・・。
まだまだ勉強不足ですので、もう少し修業を積んで
お話伺いたいですー。
>所謂トヨタ生産方式ってやつです
トヨタの看板方式ですねー。
サプライチェーン・マネジメントの元ネタでもあり
一時期勉強させられました。
で、そこでの情報の扱い方をネットワールドに
もってくるというのが、実は画期的なのでは?
>しかしより生産的に無駄が無いのがリアルなる
>先の工場レベル。
私的に目からウロコな展開で非常に新鮮で面白いです!
ネットでの情報管理のノウハウに流用できる可能性もありそう。
最近、リアルでは当たり前のことがネットではかえって
遅れてたりすると思っています。
ネット過信の結果かも。
だからマーケティング含み、リアルがネットにできることは
まだまだあるのかも・・・。
貴重な三点の教訓、多謝です。