すずめ通信

すずめの街の舌切雀。Tokyo,Nagano,Mie, Chiba & Niigata Sparrows

第590号 「吉野ヶ里遺跡」再訪

2008-04-12 23:18:48 | Tokyo-k Report

【Tokyo】佐賀に行くなら吉野ヶ里に立ち寄らねばならない、と決めていた。福岡・柳川での所用のあと、佐賀に回ったのでこの行程が実現することになった。15年ぶりの再訪である。

「日本古代史研究家」を自称する私は、一時期、考古学にのめりこみ、遺跡・遺構・遺物の解析に心ときめかせていた。だから吉野ヶ里の発見は衝撃であり、九州出張の時間を割いて駆けつけたものだった。あれから15年、弥生時代の巨大遺跡はどうなったか、ぜひ確認しておきたかった。

佐賀駅から通勤の客に混じってJR長崎本線各駅停車に乗り、3つ目の吉野ヶ里公園駅(こんな駅ができたのだ!)で降りるつもりでいた。ところが一つ手前の神埼駅のホームに、「吉野ヶ里へはこちらが近い」という看板を見かけ、あわてて降りた。

閑散とした駅前には巨大な卑弥呼像が建ち、東方を指差している。そちらが遺跡地なのだろうと歩き始める。遺跡公園は二つの駅の中間に広がっていて、どちらかというとこちらは裏口のようであった。途中、だれにも出会わなかったのは、開門30分前と、私の始動時間が早過ぎたせいのようだ。

ところが門扉はわずかに開いているし事務所に人の気配はない。心ならずも致し方なく、無賃入園を決行する。国営、県営合わせて68ヘクタールという公園は広大である。その上、まるでテーマパークのように綺麗である。15年の年月を感じながら、ゆっくりと坂を登る。

開園前だからだれにも出会わない。竪穴の家々が並ぶ中心広場へと忍び寄りながら、屈強な弥生人が飛び出してくるような思いになる。もしそうなった時、彼と私の言葉は果たして通じ合うものだろうか。

復元された望楼に登ってみる。佐賀の市街地まで遠望できる。往時は海がずっと近かったのだろう。背後に背振山地、眼前に有明海と、立地に恵まれたクニであったことが分かる。

高床の家や倉庫も復元され、神殿のような建物まである。開園のチャイムが鳴ったので、通りかかった調査員らしき若者に「復元は正確なのですか」と聞いてみる。「柱穴に忠実に従っていますから、間違いありません」という。しかし屋根の構造など、あくまでも推定であるはずだ。

復元保存を否定するつもりはないけれど、遺跡は遊園地ではない。あくまでも謙虚に、誤解を与えないよう保全に勤めなければいけない。整備された「歴史公園」は往々にして綺麗過ぎる。

奈良の飛鳥はそうやって壊滅した。吉野ヶ里もそれに近いが、わずかにリアルだったのは、集落を囲む濠と木柵列である(写真)。垂れ込めた黒雲に、シルエットとなって並ぶ逆茂木は、倭国大乱の日々を連想するにふさわしい光景だった。

15年前と最も大きく変化したのは、2月に開園したばかりの「北墳丘墓」地域だった。銅剣などを伴った大型亀棺の発掘で、「王の墓では!」と研究者らが色めきたっていた墓域は芝生が張られ、墳丘墓は屋根が架けられて内部が発掘当時の状態で公開されていた。

中に入り、とっさに中国湖南省長沙の馬王堆漢墓を思い出したけれど、あの異様な深さ、異常な出土物に比したら顔色はないだろう。ほぼ同時代の遺構とはいえ、当時の彼我は文明の度合いが違う。こちらの規模はごくささやかである。

東の正門付近で、奇妙な服装をした人たちが子どもらに遺跡の説明をしていた。弥生人に扮しているつもりなのだろうが、かえって自由な空想を阻害しているかもしれないと気になった。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 第589-2号 初秋の客 | トップ | 第591号 聖火妨害と中国人観 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Tokyo-k Report」カテゴリの最新記事