《賢治年譜のある大きな瑕疵》
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。
“『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』の目次”へ。
*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
があるが、まさしくその性向をして賢治にチェロを買わしめたのがこの上京の折のことであろう。なおかつその時期もこの滞京期間の終盤(大正15年12月下旬)であろう。なぜならば「たった三日でセロが弾けるように」と言っていたようだから、そこからは念願のチェロは入手できたが、ほどなく花巻に戻らなければならないので時間的余裕がなく、そこでそのような無理なお願いを賢治はしたのだという推理ができるからである。いずれこのことは後程再考したい。
年末チェロ特訓後直ちに帰花
さて尾崎喜八は、賢治没6年後の昭和14年版『宮澤賢治研究』(草野心平編)所収の「雲の中で苅つた草」において次のように
多分四五年前になると思ふが、彼は上京中の或夜東京の某管弦樂團のトロンボーン手をその自宅に訪問した。海軍軍樂隊出身の此樂手は私の友人で、一方セロも彈き詩が好きで、殊に「春と修羅」のあの男らしい北歐的なノルマン的な、リヽシズムを愛してゐた。其時の宮澤君の用といふのが、至急簡單にセロの奏法と手ほどきと作曲法の初歩とを教授してくれと云ふのだつた。併し之はひどくむづかしい註文で遂に實現出來ず、やがて一日か二日で宮澤君は郷里へ歸つたのだが、その熱心さには、ワクナアのファンファールを吹き抜いて息一つ彈ませない流石のトロンボーン手さへ吐息をついて驚嘆してゐた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)203pより>
回想している。
もちろんこの「トロンボーン手」とは大津三郎のことであり、賢治が大津の自宅に例の「三日間のチェロ特訓」を受けに行った際のことを語っていることになろう。その特訓期間は通説では「三日間」だが、尾崎の言っている「一日か二日」も似たり寄ったりで、いずれその期間は短期間であったということをこの証言は駄目押ししていると思う。
ただしこのことよりももっと注目したいことは次の二点である。その一点目は
・多分四五年前になると思ふが
にである。このことからは、この証言はそれほど昔のことを言っている訳ではないということになる。そして二点目は
・やがて一日か二日で宮澤君は郷里へ歸つた
にである。
とりわけ、私はこちらの証言が重要だと思った。この証言からは、この際の滞京はこの「チェロの特訓」を受けた直後に終止符を打ち、即帰花したということが導かれるし、その信憑性がかなりの確度で保証されることになろうと思えるからである。さほど昔のことを言っている訳ではないからである。
よって現時点での私の判断は、父政次郎宛書「222」の中の
御葉書拝見いたしました。小林様は十七日あたり花巻へ行かれるかと存じます。わたくしの方はどうか廿九日までこちらに居るやうおねがひいたします。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)238pより>
に注意すれば、
◇大正15年12月の滞京については、その月末に大津三郎から「三日間のチェロの特訓」を受け、直ちに帰花した。
と判断できることになる。
もちろん、賢治のこの頃の上京といえばそれこそ「昭和2年の11月頃の上京」ということも考えられるが、その際は澤里武治の証言に従うならば病気になって帰花したのだから当てはまらず、この特訓を受けて賢治は直ちに帰花ということが言えるのは大正15年12月の上京しか考えられないことになる。なぜならば、もう一つの「下根子桜時代」の上京、昭和3年6月の上京がもちろん当てはまらないことは自明だからである。
4 チェロの入手について
エスペラントとチェロ
さて、賢治はいつ頃からエスペラントを習い始め、いつごろから本格的に学び始めたのだろうか。
このことに関しては、『世界の作家 宮沢賢治 エスペラントとイーハトーブ』(佐藤竜一著、彩流社)によれば、遅くとも大正15年の秋頃までには本腰を入始めていたであろうことが推測される。
同書には『アザリア』の仲間小菅健吉の追想「大正十五年の秋」があり、そこには次のようなこと
大正15年の秋、米国から帰国した小菅は帰朝挨拶のために母校花巻農学校を訪れ、その際下根子桜にも立ち寄ったが、その折賢治が次のように語ったという。
当時、自費出版で、「春と修羅」「注文の多い料理店」を出したが、日本では解つて貰えないから世界の人に解つて貰う為に、エスペラント語で発表するので、エスペラント語を勉強して居るのだと云つて居た。
<『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左ェ門編著)250pより>
と記されているからだ。このことから、賢治は大正15年の秋に小菅に「エスペラント語を勉強して居る」と語っていることが分かる。
一方、大正15年12月に始まった羅須地人協会での講義だが、その講義予告表の中に
三月中 エスペラント地人學藝術概論
<『イーハトーヴォ第一期』(菊池暁輝著、国書刊行会)
とあるし、『大正十六年日記』(いわゆる「手帳断片A」)の1月1(土)」の欄の
国語及エスペラント
<『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)408pより>
とあることから、その後も賢治はエスペラントの学習を継続していたことが確かであろう。
そして、大正15年年12月の上京の大きな目的の一つにエスペラントの学習があったこともまた確かであろう。
それは、政次郎宛書簡「222」〔十二月十五日〕に賢治が次のようなこと
毎日図書館に午後二時まで居てそれから神田へ帰って…(中略)…午後五時に丸ビルの中の旭光社といふラヂオの事務所で工学士の先生からエスペラントを教はり、夜は帰って来て次の日の分をさらひます。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)238p~より>
をしたためていることからも言えるだろう。
もちろんそれは、例の羅須地人協会の講義予定表中の「三月中 エスペラント」の講義のための準備ということもあったであろうが、エスペラントの学習はそれだけのためでないことも大津三郎の次のような証言から明らかであろう。
(「三日間のチョロの特訓」に関して)その時初めて、どうしてこんな無理なことを思い立つたか、と訊ねたら、「エスペラントの詩を書きたいのですが、朗誦伴奏にと思つてオルガンを自習しましたが、どうもオルガンよりセロの方がよいように思いますので…」とのことだつた。
<『昭和文学全集 月報第十四號』(角川書店)5pより>
しかし、ここで注意したいのは大正15年12月12日付政次郎宛書簡「221」で
いままで申しあげませんでしたが私は詩作の必要上桜で一人でオルガンを毎目少しづつ練習して居りました。今度こっちへ来て先生を見附けて悪い処を直して貰ふつもりだったのです。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)237pより>
と言っていることにである。この賢治の言に従うならばこの時の滞京の大きな目的の一つに
詩作の必要上、オルガンの悪い処を直して貰ふこと
があったということを「12月12日」時点で賢治は言っている訳である。
ところが先の大津の証言に従うならば、おそらくこの12月末頃の「三日間のチェロの特訓」の際に、
エスペラントの詩を書きたいのですが、朗誦伴奏にと思つてオルガンを自習しましたが、どうもオルガンよりセロの方がよいように思いますので…
と賢治自身が言っている訳だから、賢治の滞京の当初の目的
詩作の必要上オルガンの悪い処を直して貰ふこと ⇒(エスペラントの)詩作の必要上はオルガンの悪いところを直して貰うよりをセロを学ぶことへと変化していった、ということが言えそうだ。
もしこの私の推論が事実に即しているとすれば、この賢治の変化は少なくとも「大正15年12月12日」以降に起こったということになるであろう。
つまり
◇賢治は大正15年12月の上京の際は初めからチェロを学ぼうと思っていた訳ではなくて、滞京中のある時点から、次第に「どうもオルガンよりセロ」の方を学ぶべきだと思うようになっていった。
と言えよう。
東京でチェロを入手
以前から、賢治のチェロにはその胴の中にサインがあるということは伝聞していたが、その写真が『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)の口絵等に載っていることを知った。
それを見てみると確かに
1926.K.M.
というサインがあった。この「1926」とはもちろん1926年、すなわち大正15年のことだろうし
「K.M.」とはKennji Miyazawa のK.M.である。
ことは間違いなかろう。したがってこのチェロは1926年(大正15年)に賢治が購入したものだと言えそうだ。
ところでこのチェロをどこで購入したかは現時点では判明していないようだが、『チェロと宮沢賢治』の中で著者横田庄一郎氏は、もし地元花巻で購入したのであれば「このあたりからの証言が出てきてもよさそうなものである」(『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)52p)と指摘する。たしかに地元にいる私もそのような伝聞は聞かない。
一方で、「思い出対談 音楽観・人生観をめぐって」という対談の中で井上敏夫の質問に対して、
そのうちに宮沢君もチェロが欲しくなったのか、東京で一八〇円だかで買ってきました。
<『宮沢賢治 第5号』(洋々社)22pより>
と藤原嘉藤治が答えている。
また、横田氏は前掲書でこのチェロは「鈴木バイオリン製の六号だということがわかっており、当時の価格表によると百七十円だったのである」(前掲書51p)ということ、しかもこの6号とはチェロの中では最高級品だったこと、また、チェロ本体に弓も含めればその合計価格は約一八〇円になるだろうということも教えてくれている。
さらに同書には、
賢治がチェロを習いに上京するとき、教え子沢里武治は、この箱にヒモをつけて運んでいった。ヒモは縄だったという。
<『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)58pより>
とも書かれてあった。
そういえば、『宮沢賢治と遠野』(遠野市立博物館)の「澤里武治の略年譜」の中にも
賢治のセロを背負い花巻駅同行し、賢治の上京を見送る。
とあったことを思い出した。この略年譜の記載内容とこれは符合するから、賢治はチェロを納める「セロ箱」も同時に購入していたことは間違いなかろう。
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』 ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著) ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)
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なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』 ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』 ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』
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年末チェロ特訓後直ちに帰花
さて尾崎喜八は、賢治没6年後の昭和14年版『宮澤賢治研究』(草野心平編)所収の「雲の中で苅つた草」において次のように
多分四五年前になると思ふが、彼は上京中の或夜東京の某管弦樂團のトロンボーン手をその自宅に訪問した。海軍軍樂隊出身の此樂手は私の友人で、一方セロも彈き詩が好きで、殊に「春と修羅」のあの男らしい北歐的なノルマン的な、リヽシズムを愛してゐた。其時の宮澤君の用といふのが、至急簡單にセロの奏法と手ほどきと作曲法の初歩とを教授してくれと云ふのだつた。併し之はひどくむづかしい註文で遂に實現出來ず、やがて一日か二日で宮澤君は郷里へ歸つたのだが、その熱心さには、ワクナアのファンファールを吹き抜いて息一つ彈ませない流石のトロンボーン手さへ吐息をついて驚嘆してゐた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)203pより>
回想している。
もちろんこの「トロンボーン手」とは大津三郎のことであり、賢治が大津の自宅に例の「三日間のチェロ特訓」を受けに行った際のことを語っていることになろう。その特訓期間は通説では「三日間」だが、尾崎の言っている「一日か二日」も似たり寄ったりで、いずれその期間は短期間であったということをこの証言は駄目押ししていると思う。
ただしこのことよりももっと注目したいことは次の二点である。その一点目は
・多分四五年前になると思ふが
にである。このことからは、この証言はそれほど昔のことを言っている訳ではないということになる。そして二点目は
・やがて一日か二日で宮澤君は郷里へ歸つた
にである。
とりわけ、私はこちらの証言が重要だと思った。この証言からは、この際の滞京はこの「チェロの特訓」を受けた直後に終止符を打ち、即帰花したということが導かれるし、その信憑性がかなりの確度で保証されることになろうと思えるからである。さほど昔のことを言っている訳ではないからである。
よって現時点での私の判断は、父政次郎宛書「222」の中の
御葉書拝見いたしました。小林様は十七日あたり花巻へ行かれるかと存じます。わたくしの方はどうか廿九日までこちらに居るやうおねがひいたします。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)238pより>
に注意すれば、
◇大正15年12月の滞京については、その月末に大津三郎から「三日間のチェロの特訓」を受け、直ちに帰花した。
と判断できることになる。
もちろん、賢治のこの頃の上京といえばそれこそ「昭和2年の11月頃の上京」ということも考えられるが、その際は澤里武治の証言に従うならば病気になって帰花したのだから当てはまらず、この特訓を受けて賢治は直ちに帰花ということが言えるのは大正15年12月の上京しか考えられないことになる。なぜならば、もう一つの「下根子桜時代」の上京、昭和3年6月の上京がもちろん当てはまらないことは自明だからである。
4 チェロの入手について
エスペラントとチェロ
さて、賢治はいつ頃からエスペラントを習い始め、いつごろから本格的に学び始めたのだろうか。
このことに関しては、『世界の作家 宮沢賢治 エスペラントとイーハトーブ』(佐藤竜一著、彩流社)によれば、遅くとも大正15年の秋頃までには本腰を入始めていたであろうことが推測される。
同書には『アザリア』の仲間小菅健吉の追想「大正十五年の秋」があり、そこには次のようなこと
大正15年の秋、米国から帰国した小菅は帰朝挨拶のために母校花巻農学校を訪れ、その際下根子桜にも立ち寄ったが、その折賢治が次のように語ったという。
当時、自費出版で、「春と修羅」「注文の多い料理店」を出したが、日本では解つて貰えないから世界の人に解つて貰う為に、エスペラント語で発表するので、エスペラント語を勉強して居るのだと云つて居た。
<『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左ェ門編著)250pより>
と記されているからだ。このことから、賢治は大正15年の秋に小菅に「エスペラント語を勉強して居る」と語っていることが分かる。
一方、大正15年12月に始まった羅須地人協会での講義だが、その講義予告表の中に
三月中 エスペラント地人學藝術概論
<『イーハトーヴォ第一期』(菊池暁輝著、国書刊行会)
とあるし、『大正十六年日記』(いわゆる「手帳断片A」)の1月1(土)」の欄の
国語及エスペラント
<『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)408pより>
とあることから、その後も賢治はエスペラントの学習を継続していたことが確かであろう。
そして、大正15年年12月の上京の大きな目的の一つにエスペラントの学習があったこともまた確かであろう。
それは、政次郎宛書簡「222」〔十二月十五日〕に賢治が次のようなこと
毎日図書館に午後二時まで居てそれから神田へ帰って…(中略)…午後五時に丸ビルの中の旭光社といふラヂオの事務所で工学士の先生からエスペラントを教はり、夜は帰って来て次の日の分をさらひます。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)238p~より>
をしたためていることからも言えるだろう。
もちろんそれは、例の羅須地人協会の講義予定表中の「三月中 エスペラント」の講義のための準備ということもあったであろうが、エスペラントの学習はそれだけのためでないことも大津三郎の次のような証言から明らかであろう。
(「三日間のチョロの特訓」に関して)その時初めて、どうしてこんな無理なことを思い立つたか、と訊ねたら、「エスペラントの詩を書きたいのですが、朗誦伴奏にと思つてオルガンを自習しましたが、どうもオルガンよりセロの方がよいように思いますので…」とのことだつた。
<『昭和文学全集 月報第十四號』(角川書店)5pより>
しかし、ここで注意したいのは大正15年12月12日付政次郎宛書簡「221」で
いままで申しあげませんでしたが私は詩作の必要上桜で一人でオルガンを毎目少しづつ練習して居りました。今度こっちへ来て先生を見附けて悪い処を直して貰ふつもりだったのです。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)237pより>
と言っていることにである。この賢治の言に従うならばこの時の滞京の大きな目的の一つに
詩作の必要上、オルガンの悪い処を直して貰ふこと
があったということを「12月12日」時点で賢治は言っている訳である。
ところが先の大津の証言に従うならば、おそらくこの12月末頃の「三日間のチェロの特訓」の際に、
エスペラントの詩を書きたいのですが、朗誦伴奏にと思つてオルガンを自習しましたが、どうもオルガンよりセロの方がよいように思いますので…
と賢治自身が言っている訳だから、賢治の滞京の当初の目的
詩作の必要上オルガンの悪い処を直して貰ふこと ⇒(エスペラントの)詩作の必要上はオルガンの悪いところを直して貰うよりをセロを学ぶことへと変化していった、ということが言えそうだ。
もしこの私の推論が事実に即しているとすれば、この賢治の変化は少なくとも「大正15年12月12日」以降に起こったということになるであろう。
つまり
◇賢治は大正15年12月の上京の際は初めからチェロを学ぼうと思っていた訳ではなくて、滞京中のある時点から、次第に「どうもオルガンよりセロ」の方を学ぶべきだと思うようになっていった。
と言えよう。
東京でチェロを入手
以前から、賢治のチェロにはその胴の中にサインがあるということは伝聞していたが、その写真が『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)の口絵等に載っていることを知った。
それを見てみると確かに
1926.K.M.
というサインがあった。この「1926」とはもちろん1926年、すなわち大正15年のことだろうし
「K.M.」とはKennji Miyazawa のK.M.である。
ことは間違いなかろう。したがってこのチェロは1926年(大正15年)に賢治が購入したものだと言えそうだ。
ところでこのチェロをどこで購入したかは現時点では判明していないようだが、『チェロと宮沢賢治』の中で著者横田庄一郎氏は、もし地元花巻で購入したのであれば「このあたりからの証言が出てきてもよさそうなものである」(『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)52p)と指摘する。たしかに地元にいる私もそのような伝聞は聞かない。
一方で、「思い出対談 音楽観・人生観をめぐって」という対談の中で井上敏夫の質問に対して、
そのうちに宮沢君もチェロが欲しくなったのか、東京で一八〇円だかで買ってきました。
<『宮沢賢治 第5号』(洋々社)22pより>
と藤原嘉藤治が答えている。
また、横田氏は前掲書でこのチェロは「鈴木バイオリン製の六号だということがわかっており、当時の価格表によると百七十円だったのである」(前掲書51p)ということ、しかもこの6号とはチェロの中では最高級品だったこと、また、チェロ本体に弓も含めればその合計価格は約一八〇円になるだろうということも教えてくれている。
さらに同書には、
賢治がチェロを習いに上京するとき、教え子沢里武治は、この箱にヒモをつけて運んでいった。ヒモは縄だったという。
<『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)58pより>
とも書かれてあった。
そういえば、『宮沢賢治と遠野』(遠野市立博物館)の「澤里武治の略年譜」の中にも
賢治のセロを背負い花巻駅同行し、賢治の上京を見送る。
とあったことを思い出した。この略年譜の記載内容とこれは符合するから、賢治はチェロを納める「セロ箱」も同時に購入していたことは間違いなかろう。
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◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
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