本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

「聖女の如き高瀬露」(82p~85p)

2015-12-27 08:00:00 | 「聖女の如き高瀬露」
                   《高瀬露は〈悪女〉などでは決してない》







              〈 高瀬露と賢治の間の真実を探った『宮澤賢治と高瀬露』所収〉
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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
それを続けたかったからだ。私はそう理解できたし、納得もできた。それはちょうど、同じような想いで徳永恕が岩手県出身の及川鼎平との離婚を決めたのと同じように。

 思考実験<賢治三回目の「家出」>
荒木 ところで、前に吉田が言っていた「ある伏線」はこれらとどう繋がるのだ?
吉田 ご免、そのためにはもう少し準備運動が必要なんだ。まずは、当時のことを時間的な流れで以下に確認したい。
・大正15年秋~昭和2年夏:下根子桜の賢治の許に露出入り(菊池映一氏の証言より)。
・昭和2年秋   :伊藤ちゑ兄と共に来花、賢治と会う(10月29日付藤原嘉藤治宛書簡より)。
・昭和3年6月  :賢治伊豆大島行。
・同時期帰花後  :賢治、「おれは結婚するとすれば、あの女性だな」と嘉藤治に語った。
・昭和3年8月~ :賢治実家に戻り、病臥。
・昭和6年2月21日:「東北採石工場花巻出張所」開設正式決定。賢治同工場嘱託。
・昭和6年7月7日:ちゑとの結婚話がまた持ち上がっていることを賢治自身が森に語った。
・同 年9月19日 :40㌔あまりのトランクを持って上京。
・同 年9月20日 :着京。以降滞京。発熱。
・同 年9月28日 :東京から花巻に戻り、病臥。
・同 年10月4日 :「夜、高瀬露子氏来宅の際、母来り怒る。露子氏宮沢氏との結婚話」
・同 年10月6日 :「高瀬つゆ子氏来り、宮沢氏より貰ひし書籍といふを頼みゆく」
・同 年10月24日 :〔聖女のさましてちかづけるもの〕
・ 推定同時期   :〔最も親しき友らにさへこれを秘して〕
・同 年11月3日 :〔雨ニモマケズ〕
そして、この中のポイントは
・昭和6年7月7日に賢治が森に対して語ったというところの、また持ち上がった伊藤ちゑとの結婚話
だと思っているんだ。つまり、この「また持ち上がった伊藤ちゑとの結婚話」が「伏線」となって〔聖女のさましてちかづけるもの〕が詠まれたのではなかろうかと僕は考えている。
荒木 もう少し具体的に説明してくれ。
吉田 これはあくまでも僕の推測であり、これから述べることは一つの思考実験だがそれでもいいか?
荒木 中身によりけりだがな。さあ、どうぞ。
吉田 僕も以前から、「聖女のさましてちかづけるもの」とは果たして露なのか? どうもそうとばかりは言い切れないと考えていた。
 二人もそう訝っていると思うが、昭和2年の夏以降になると賢治は露を拒絶するようになったと言われているのに、その頃から約4年もの時を経てしまった昭和6年の10月に、例の「このようななまなましい憤怒の文字はどこにもない」ような詩を露に当て付けて詠むか。
荒木 そりゃあ確かに常識的にはあり得ねえべ…。あっ、わがった、そういうことか。「聖女のさましてちかづけるもの」とは露のことではなくてちゑのことであり、ちゑとの結婚にまんざらでもないということが推察される「昭和六年七月七日の日記」に出てくるような賢治の想いが「伏線」となって、賢治をして〔聖女のさましてちかづけるもの〕を詠ましめた、ってわけな。
吉田 そう、実は「聖女のさましてちかづけるもの」とは巷間言われている露ではなくて、伊藤ちゑのことなのだ。
 以前引用したように、昭和6年頃になると賢治自身が「私も随分かわつたでしょう、変節したでしよう――。」と言っていたというくらいだから、かつての賢治とはすっかり様変わりしてしまった。独身主義ももうやめた。ちなみに、
「私は結婚するかもしれません――」と盛岡にきて私に語つたのは昭和六年七月で、東北碎石工場の技師となり、その製造を直接指導し、出來た炭酸石灰を販賣して歩いていた。さいごの健康な時代であつた。
<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)104pより>
と森が証言している。
 このように独身主義からはおさらばした賢治は、前々からちゑとならば結婚してもよいと思っていたがゆえに、再燃したちゑとの結婚話を持ち出して「私は結婚するかもしれません――」と昭和6年7月に森に喋った。そして、そのことをちゑと具体的に話し合おうと思ったこともあって同年9月に上京した。
荒木 おっと、それはまさかの展開だな。そんな話今まであったっけかな?
鈴木 そっか、昭和6年の上京は東北砕石工場の製品売込みのためだったとばかり私は思い込んでいたが、それだけではなくて、ちゑと会ってその結婚話を進めるためでもあったということな。だけど、その時の上京の際に賢治が伊豆大島まで行ったという証言や記述はどこにもないはずだが。
吉田 いやぁ、違うんだなそれが。その頃ちゑは東京に戻っていたようだし、僕はこの時の上京はまたぞろ賢治が「家出」をするためでもあったと推測している。
荒木 昭和6年の上京の一つの目的はちゑと会って結婚の話を具体的に進めるためだったはとりあえず了としても、もう一つは「家出」のためだったというのか。おいおい、思考実験とはいえそれはあまりにも荒唐無稽だべ。
吉田 まあまあ、これはあくまでも実験だ。まずは前者、ちゑとの結婚について。
 澤村修治氏がこう述べている。
 これでは学校の経営もままならない。そうした不如意のあげく、同年八月一三日、七雄は遂に逝去する。…(筆者略)…兄の逝去とともにチヱは東京に戻る。休職していた二葉保育園に保母として復帰。
<『宮澤賢治と幻の恋人』(澤村修治著、河出書房新社)182pより>
そしてここでいう「同年八月一三日」とは昭和6年8月13日のことだということが、同書から判る。
荒木 そっか、昭和6年9月の賢治の上京時には既に七雄は亡くなっており、ちゑは東京に戻って住んでいたのか。
鈴木 となれば伊豆大島の場合とは違って、上京した賢治ならば会おうと思えば比較的容易に伊藤ちゑに会えたことになるな。上京の前々月、再燃したちゑとの結婚話を持ち出して「私は結婚するかもしれません――」と森に喋っていた賢治のことだ、そのことをちゑと具体的に話し合おうと思ったこともあって同年9月に上京したということは確かにあり得る。
吉田 では次、後者について。
 堀尾の『年譜 宮澤賢治伝』には、賢治が熱を出して寝ているという八幡館から電話連絡が入った菊池武雄が駆けつけて、
「花巻のおうちへ知らせよう」
といった。すると賢治はつよく、
「いやそれは絶対困ります。絶対帰りません。しらせないでください」
という。…(筆者略)…
 それに賢治は、
「なあに風邪です、すぐよくなります」
と、いかにも病気のことは専門だといわぬばかりに自分でうけあい、
「よくなったら、ここから墨染の衣をきて托鉢でもしてまわりますよ」
と妙なことをいう。
<『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、中公文庫)424p~より>
とある。
 そこで、どうも賢治は花巻に帰りたくないらしいと判断した菊池は、武蔵野に小さい貸家を見つけ出して賢治にそのことを知らせた、というような貸屋探しのことが具体的にそこに続けて述べられている。
鈴木 つまり賢治はこの時花巻に戻るつもりは毛頭なく、このまま東京に居て托鉢などもして回りたい。ついては住む家を探している、というようなことなどを言ったものだから菊池は貸家を見つけてやったという次第か。なんだか、大正10年の「家出」の時と似たにおいがしてきた。
荒木 そうか、賢治は実質的に「家出」を目論んで上京したと吉田は言いたいわけだ。
鈴木 しかし賢治はこの上京の折り直ぐに、9月21日に「遺書」を書いていたわけで、着京即重態に陥り死を覚悟したと思うのだが。
吉田 確かに通説ではそうなっているが、そこには「遺書」というタイトルが書かれているわけでもない。ちなみに、
この一生の間どこのどんな子供も受けないやうな厚いご恩をいたゞきながら、いつも我慢でお心に背きたうたうこんなことになりました。今生で万分一もついにお返しできませんでしたご恩はきっと次の生又その次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願いたします。
どうかご信仰といふのではなくてもお題目で私をお呼びだしください。そのお題目で絶えずおわび申しあげお答へいたします。
  九月廿一日
                       賢治
父上様
母上様
<『校本全集第十三巻』(筑摩書房)379pより>
というのがその中身の全てだ。
荒木 あっ、そうそう奇しくも賢治の命日ってやつな。
吉田 だからなおさら「遺書」と思いたくもなるが、月日の一致はそれとは無関係なこと。それよりは、この文面からは、花巻から離れての「家出」、決して花巻の実家に戻ることはないという自分自身に向けた決意表明だったととれなくもない。
鈴木 確かに、着京したと思われるのが9月20日、ところがその翌日に突如賢治は重篤となったので死を覚悟してこの「遺書」を書いた、ということは言われてみれば確かに奇妙だし不自然なことだ。
荒木 そういえば、今さっき名前が挙がった菊池武雄とは、この上京の折りに賢治が「春本」をプレゼントしたという人のことだよな。そうすると、賢治は何時どこでそれを菊池に渡したのべ。即重篤になったというのならばその機会がなかっただろうに。
吉田 そのことについては菊池自身が『宮澤賢治研究』所収の「賢治さんを想ひ出す」の中でこう語っている。
 その後去年の春突然駿河臺のある旅館から電話で「宮澤さんといふ方が上京していま風邪を引いて休んで居られる」と知らせてくれたので行つて見たら、いつものニコニコした顔で床に就いて居られたが私は容易でないことを直感しました。その時「お土産に持つて來たのだけれども形見になるかも知れぬ」といつて私にレコード(死と永生)二枚と○本などをくれました。私は何とかして健康回復のために力になり度いと願つたけれど、一つは賢治さんの性質も解つてゐるからそれも尊重したいし、私も微力と生まれつきの不親切者故、なにもして上げられませんでした。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)325p~より>
荒木 あれっ、ここには「春本」ではなくて、プレゼントしたのは「○本」とあるけど? あっそっか、この「○本」は「和とぢ」の本つまり「春本」を憚った表現か。
鈴木 でも変だな。さっき吉田が教えてくれた堀尾の記述内容だと菊池は結構賢治の世話を焼いているのに、こちらの菊池の証言によれば菊池は何もしてやれなかったいうことだから矛盾がある。
吉田 矛盾ということで言えば、このことに関しては深沢紅子の証言とも矛盾している。というのは、深沢は随筆「一ぱいの水-賢治との出会い」の中で、昭和6年当時吉祥寺に住んでいた深沢の家に賢治がやって来て、
「宮沢ですが、お隣の菊池さんが留守ですから、これをあずかってください」
 新聞紙にくるんで細いひもを十文字にかけた平たい包みを二箇、さし出されました。
<『追憶の詩人たち』(深沢紅子著、教育出版センター)124p~より>
と述べている。
荒木 えっ! 深沢紅子は菊池武雄と隣同士だったのか。
吉田 そうだよ。たしか、「菊池さんとは、私達夫婦も非常に親しい仲なので隣り同士に住んでいた」というようなこともそこで述べていたはずだ。
鈴木 じぇじぇじぇ、菊池と深沢夫婦はそんなに懇意だったの
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』




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