岩手の野づら

『みちのくの山野草』から引っ越し

法華経信仰と社会運動は何等矛盾しない

2017-11-19 14:00:00 | 理崎 啓氏より学ぶ
《『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》
 さて、賢治は昭和2年2月1日付け『岩手日報』の新聞報道を受けてあの楽団活動を止め、同年の4月前後になると今度は羅須地人協会の活動も止めた<*1>わけで、何度か挫折を味わったわけだが。これらは、いずれも当時の時代性に鑑みれば、そして状況証拠からも賢治の活動がいわゆる「主義者」のそれ、あるいは「社会主義教育」者とみられたからだと私は判断している。そしてとりわけ大きな挫折が「下根子桜」からの撤退であり、その原因は
 〈仮説〉賢治は特高から、「陸軍大演習」が終わるまでは自宅に戻っておとなしくしているように命じられ、それに従って昭和3年8月10日に「下根子桜」から撤退し、実家でおとなしくしていた。
がその真相だったからで、それはずばり「大きな挫折」だったと言える。なお、この仮説の検証については、〝『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』〟の〝第二章 「羅須地人協会時代」終焉の真相〟あるいは〝『羅須地人協会の終焉-その真実-』〟をご覧いただきたい。

 とはいえども、賢治は一般には主体的には社会運動に関わっていないとされているようだ。それは賢治が法華経を信仰していたからだ、と一般に言われているようだし、私自身もその説にある程度納得させられていた。
 ところが、実は法華経信者でも積極的にそのような運動を実践したという人物として妹尾義郎がいるということを、これまた理崎氏から教わった。それがまず、前の投稿〝日蓮主義者の社会主義者・妹尾義郎〟で先に取り上げた、
 日蓮思想自体が右翼的と考えるのは間違いである。例えば、日蓮主義者の妹尾義郎は左翼である。…(投稿者略)…悲惨な農民の生活を知って「新興仏教青年同盟」を結成して左翼運動、労働運動に没入していったのである。
             〈58p〉
によってであり、そして今回知った次の、
 日蓮主義者同盟の妹尾義郎は農村での布教で、地主と小作人の対立の矢面に立たされた。その中で、小作人の悲惨な生活をつぶさに見て苦悩する。地主も収入が減少して困窮するが、小作人はそれがそのまま生死に繋がる、と悟ったという。妹尾はついに地主たちの依頼に反し、小作人のために奮闘することとなる。そのために多くの会員が離反したことから組織を再編、新興仏教育青年同盟を結成した。以後は遠慮なく社会主義者とも連携して農民運動、社会運動に没入していく。法華経の思想は、常に現実から出発する、目の前にいる人を慈悲の心で助けていくものである。
             〈167p〉
という解説によってだ。
 なるほど、法華経信者でもこのような運動に没入した人がいたということであり、それは何等法華経の教えに反しないのか。あるいはそれが法華経精神の実践であったとも言えるということのようだ。

 となれば、賢治が法華経信者だったからそのような運動をしていなかったという論理は成り立たないということか。法華経信仰と社会運動は何等矛盾しないのだ。

<*1:註> 昭和2年4月4日消印の高橋六助宛葉書に、
    羅須地人協会農芸化学協習
     昭和二年度第一小集
      農業ニ必須ナ化學ノ基礎的部分
       四月十日午前九時カラ午後三時マデ
                   宮澤賢治

         <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)より>
とあるし、『新校本年譜』等には、
 4月10日 「羅須地人協会農芸化学協習」として「昭和二年度第一小集」を開催。午前九時から午後二時まで「農業に必須ナ化学ノ基礎部分」を学習したと見られる。
とあるし、それ以降のこのような集会等の記載が同年譜にはないからである。

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 なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
   ・「聖女の如き高瀬露」
   ・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
   ・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。



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