岩手の野づら

『みちのくの山野草』から引っ越し

甚次郎の農民に対する姿勢との違い

2017-11-19 10:00:00 | 理崎 啓氏より学ぶ
《『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》
 さらに理崎氏は、
 農村の活動で、甚次郎の農民劇は頭初、集落の総代に止められている。会の活動も青年団に迫害された。周囲の反対、無理解の中、ある時は妥協し、ある時は説得して粘り強く交渉して乗り切っている。小作料の引き下げ交渉では、村の中で見方を一人一人増やし、有力者を説得し、最後にまったく動こうとしなかった村長も渋々翻意している。長い時間をかけて多くの人々と対話してわかってもらえるように根気強く行動しているのである。それに対して羅須地人協会に来る者だけを相手にして、反対者に対して説得することもない。もっとも、甚次郎の場合には反対者がいては事業が進められない。協会では反対者がいても悪口を言われるくらいで影響はあまりない。
           《155p》
と二人の活動における取り組む姿勢を比較しながら評していた。
 松田甚次郎の書いたベストセラー『土に叫ぶ』等によれば、
   小作人たれ/農村劇をやれ
と賢治から強く「訓へ」られた甚次郎は、ふるさと鳥越に帰って、早速
  父から六反歩の旱魃田の小作を許され
て小作人になったわけだが、もちろん農村劇(農民劇)にも取り組んだ。のみならず甚次郎は、生活改善や農村向上にも力を割いた。そしてその際の甚次郎の姿勢はまさに理崎氏の評どおりだと私も思っている。その一方で、賢治評もまたそのとおりだと思う。それは、
「羅須地人協会時代」の賢治は農民のため、とりわけ貧しい農民たちに対する稲作指導のために風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に病に倒れたが、彼の稗貫の土性や農芸化学に関する知見を生かした稲作指導法によって岩手の農業は大いに発展した。
とかつては思い込んでいた私だが、その実態は、
   〈仮説〉賢治が「羅須地人協会時代」に行った稲作指導はそれほどのものでもなかった。
ということを私は検証できたから、この件に関しては賢治のことを突き離してしまっている。

 さりながら、流石理崎氏は違っていて、賢治を見る目は次のように温かい。
 しかし、賢治が理想から現実に下りていく努力を続けたのも確かである。理想から現実へ下りていく。これが法華経信仰の特徴で「従果向因」という。従来の仏教は「従因因向果」――善行の因を積み重ねていって仏という果に至る。対して法華経は果――仏の境涯と同じ決意に立って現実の世界へ下りて行って、仏と同じ慈悲を行うのである。そうした理念によって農村に飛び込んで一人一人の農民と接していった行動は評価してよいのではないか。
           《156p》

 続きへ
前へ 
 “『理崎 啓氏より学ぶ』の目次”へ。
岩手の野づら”のトップに戻る。


 なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
   ・「聖女の如き高瀬露」
   ・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
   ・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿