岩手の野づら

『みちのくの山野草』から引っ越し

法華経信仰と「怨敵退散」

2017-11-20 10:00:00 | 理崎 啓氏より学ぶ
《『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》
 では今回は「七、東北砕石工場」の章についてだ。ただしこの章では法華経関連のものはあまり見つからず、目に留まったのは次のことだった。
 しかし、今まで見て来たように、賢治の法華経信仰は一貫して続いているのである。昭和5年というから羅須地人協会が挫折した2年後、軍に召集された教え子・菊池信一に宛てた書簡がある。「南無妙法蓮華経と唱えることはいかにも古くさくて迷信らしく見えますがいくら考へても調べてもさうではありません」として、題目は怨敵退散の呪文であり、あらゆる生物のまことの幸福を願う祈りの言葉でもあるのだから、どうしようもなくなった時は唱えるといい、と勧めている。
           〈174p〉
 したがって、理崎氏の記述に従えば、
    賢治の法華経信仰は一貫して続いている
ということがまずわかった。ここ10年間ほどの賢治に関する検証作業を通じて、誰かが「賢治は何をやっても長続きがしない」と言っていたことを知ったが、そのことはやはり否定できないのかなと私は思っていたところだった。したがってそうとばかりは限らず、「賢治の法華経信仰は一貫して続いて」いたのだということを知ってほっとした。

 次に、あれっこの「怨敵退散」という四文字熟語どこかで見たことがあるぞ、と気付いた。そこで取り敢えずこの書簡を確認してみると、それは次のようなものだった。
254(1930年)〔一月二十六日〕菊池信一あて
《表》弘前歩兵第卅一聯隊第九中隊第二班 菊池信一様 平安
《裏》岩手県花巻町 宮沢賢治〔封印〕
忙がしいなかからお手紙をまことにありがたう。どうかいろいろ気を散らさずに一生けん命やってください。
こゝまでが順調だったのでほんたうに安心してゐます。寒さもまづこれからは下り坂でせうが、それにつけてもおからだを大切にねがひます。お発ちの日は電報をあげやうかとも思ひましたが考へ直してやめました。
南無妙法蓮華経と唱へることはいかにも古くさく迷信らしく見えますがいくら考へても調べてもさうではありません。
どうにも行き道がなくなったら一心に念じ或はお唱ひなさい。こっちは私の肥料設計よりは何億倍たしかです。
軍陣の中によく怖畏を去り怨敵悉く退散するのこれが呪文にもなりあらゆる生物のまことの幸福をねがふ祈りのことばともなります。
いまごろ身掛けでいふなら私ぐらゐの年でこんなことは云ひません。たゞ道はあくまでも道でありほんたうはどこまでも本統ですから思ひ切ってあなたへも申しあげたのです。私もう癒りまして起きて居ります。早くご丈夫でおかへりなさい。
            〈『新校本宮澤賢治全集第十五巻 書簡 本文篇』(筑摩書房)〉
 そうか、この「怨敵悉く退散」のことを指していたのか。と同時に、この四文字がどこにあったのかを思い出した。それはあの「雨ニモマケズ手帳」の中の〔聖女のさましてちかづけるもの〕の次に書かれていた〔われに衆怨ことごとくなきとき〕の中にだ。ちなみにそれは、
    ◎われに
     衆怨ことごとく
           なきとき
     これを怨敵
        悉退散といふ
    ◎
     衆怨
      ことごとく
           なし

           <『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)116pより>
というように書かれていた。小倉豊文が〔聖女のさましてちかづけるもの〕の書かれた日と同じ昭和6年10月24日の作らしいと推測していたメモだ。
 そして、小倉は賢治がこの〔われに衆怨ことごとくなきとき〕をここに書き付けた理由を、
 恐らく、賢治は「聖女のさましてちかづけるもの」「乞ひて弟子の礼とれる」ものが、「いまわが像に釘う」ち、「われに土をば送る」ように、恩を怨でかえすようなことありとも、「わがとり来しは、たゞひとすじのみちなれや」と、いささかも意に介しなかったのであるが、こう書き終わった所で、平常読誦する観音経の「念彼観音力衆怨悉退散」の言葉がしみじみ思い出されたことなのであろう。そして、自ら深く反省検討して「われに衆怨ことごとくなきとき、これを怨敵悉退散といふ」、われに「衆怨ことごとくなし」とかきつけたものなのであろう。
           <『「雨ニモマケズ手帳」新考』119p~より>
解説していたことも思い出した。

 ということは賢治もある面で私のような凡人と同じところもあったのだ。「念彼観音力衆怨悉退散」の言葉は平常読誦する観音経の中にあるのだが、それに反して賢治は〔聖女のさましてちかづけるもの〕を書いてしまったのだから、その時の賢治には「聖女のさましてちかづけるもの」という怨敵がいたのだが、そんな自分を恥じて〔われに衆怨ことごとくなきとき〕を書いてということになりそうだからだ。ところが、それと同じ様なことを、前年の昭和5年に賢治は愛弟子に諭していたことになる。したがって、賢治はその段階その段階で階段を上に昇っていったわけではなく、昇っては滑り落ち、そしてまた昇ろうとしていたということになりそうだ。

 これでますます賢治に人間的な魅力を私は感じ、大分親近感が増してきた。当然のことではあるが、賢治はやはり聖人でも君子でもなかったのだ。

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 なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
   ・「聖女の如き高瀬露」
   ・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
   ・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。



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