宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

317 写真で見る南城振興共働村塾

2011年05月04日 | Weblog
                 《1↑『南城振興共働村塾』》
                 <『拡がりゆく賢治宇宙』(宮澤賢治イーハトーブ館)より>

 以前、南城振興共働村塾については一度報告したことがあるが、この村塾関連の写真があったので今回はその報告をしたい。

 先ずこのブログの先頭の写真は、昭和14年3月下旬に南城(かつての根子村)に開塾された『南城振興共働村塾』の写真であり、『拡がりゆく賢治宇宙』に載っているものである。そして、次のような付記がそこにあった。
 昭和14年3月から30日間、県内各地から百名以上もの参加希望があり、花巻市南城小学校にて共働村塾が開催された。
 写真はその中心メンバーであった照井謹二郎(左)と、右は伊藤克己(弟の篤己は、最上共働村塾へ派遣された)。

 そして同著には、
《2 『南城振興共働村塾(昭和14年)』》

     <『拡がりゆく賢治宇宙』(宮澤賢治イーハトーブ館)より>
という写真も掲載されており、次のように付記されている。
 伊藤忠一(前列左から2人目)は、羅須地人協会の隣の家であり、協会の主要なメンバーの一人。
 あれっと思った。それは、若かりし頃の伊藤忠一が髭を生やしていていてちょっといままで彼に持っていたイメージとは違っている…ことではなくて、この写真の中に見える額縁のことである。この写真の中には例のベートーベンを真似てポーズをとった賢治の写真の額縁にまず気が付くが、その右隣の額縁にである。
 そこに納められているのは次の
《3 『水五則』》

と同じようなもののようだ。これは、以前新庄市立図書館に行っ際に松田甚次郎コーナーにあった資料の一つであり、画用紙に墨書されたもののコピーである。ところがついうっかりして、その謂れは訊かないままに図書館をお暇してしまったので気になっていたものである。おそらく、このよう村塾に掲げられて教訓にしていたのであろう。少し胸のつかえがおりた。

 さらには次のような
《4 無タイトルの賢治詩碑の前での集合記念写真》

     <『拡がりゆく賢治宇宙』(宮澤賢治イーハトーブ館)より>
が同著には載っている。
 直ぐに判るように、2列目の右から3番目が松田甚次郎である。また、3列目左側が照井謹二郎であり、写真《1》のときの服装とほぼ同じだし、1列目の右端は全く同じいでたちの伊藤克己であることが判る。
 したがって、この写真《4》は昭和14年3月末に松田甚次郎が南城振興村塾の指導に来た際のものであることはほぼ間違いなかろう。

 因みに昭和14年3月22日付の岩手日報に関連記事が載っている。
《5 昭和14年3月22日付 岩手日報》

 記事を文字に起こすと下記の通り。
  南城共同村塾けふから開設
    二日間の日程決定

 故宮澤賢治氏の偉大なる農道精神を戴し郷土南城を振興し新しき模範農村建設を目指す稗貫郡花巻町南城振興共同村塾は南城小学校照井又右衛門先生の真摯な努力によって廿二日から二日間開設されることになったのは既に報ぜられたところであるが、照井氏は遠く山形鳥越に故賢治氏の遺訓を信奉して黙々農村振興に努力をつゞけつゝある松田甚次郎氏の許を訪ひその熱烈火と燃ゆる精神いたく感激し、茲に松田氏の指導を乞ひ村塾開設となつたものであり、その成果は期待される、二日間の行事日程は左の通り、尚松田氏は二十二日来県盛岡聯隊を訪問の上花巻に向かひ村塾の指導に当たる筈である
◇二十二日(水)
 集合(午前八時)入塾式(同九時)講義(十時 ― 十二時)花巻町長間農林主事
 精神歌練習(零時半)講義(後一時 ― 三時)間社会主事(予定)開墾(四時六時)精神歌練習(六時半)講義(七時八時)花農堀籠教諭 座談会(九時)修道夜会、就床
◇二十三日(木)起床(午前五時)作業(六時)朝食(七時)精神歌練習(九時)松田氏講義(十時 ― 十二時)昼食(十二時)精神歌練習(午後一時)松田氏講義(二時)退場式(三時)家の光大会(四時 ―)


 この記事を読んでみると、当時如何に松田甚次郎の高名が知れ亘っていたかが窺い知れる。この時期、岩手花巻の南城からわざわざ伊藤篤己や照井又右衛門が山形新庄の最上共働村塾に入塾したり、訪ねたりしていたことになる。

 次は、やはり同著に載っている
《6 『最上共働村塾(昭和14年9月8日)』》 

     <『拡がりゆく賢治宇宙』(宮澤賢治イーハトーブ館)より>
である。そこには
 松田甚次郎ら山形県共働村塾一行が、賢治碑を訪れ、南城共働村塾のメンバーとの記念撮影。
と説明がなされている。
 昭和14年の9月に松田甚次郎が最上共働村塾の塾生と一緒に東北旅行した際に賢治詩碑を訪ねたということは知っていたが、その期日を今までは確定できずにいた。それが、この写真で確定できた。

 さらに、次のような写真も載っていた。
《7 『岩手最上の会(昭和18年3月13日)』》

     <『拡がりゆく賢治宇宙』(宮澤賢治イーハトーブ館)より>
 そこには
 宮澤家を弔問した松田甚次郎と宮澤家の人々。羅須地人協会時代のメンバーの顔も見える。
と付記してある。
 この写真からは宮澤家と松田甚次郎の親交の深さが見えてくる気がする。『宮澤賢治名作選』を松田甚次郎の名を生かして世に出してもらったから、宮澤家は松田甚次郎に恩義を感じていて甚次郎は宮澤家からは丁重に扱われていたに違いない。
 なお、この時期に松田甚次郎が花巻を訪れていたことは私は承知していなかった。昭和18年といえば松田甚次郎が亡くなった年である。着ている上衣は写真《3》と同じホームスパンのツイード?のようであるが、甚次郎の顔の表情を比較してみると心なしかこちらには疲労の色が見える。実際、この訪花から5ヶ月も経たない同年8月4日に享年35歳で甚次郎はあっけなく賢治の下に逝ってしまった

 ところでこの写真、席が狭いために中央政次郎の後に自分の躯をずらしている松田甚次郎の姿勢に、全国にその名が知れ亘っていた甚次郎の実は控え目なその性格が垣間見えてくる気がする。

 最後に、次のような写真
《8『松田甚次郎先生追悼会』》

     <『拡がりゆく賢治宇宙』(宮澤賢治イーハトーブ館)より>
も同著には載っていた。
 そこには
 昭和18年花巻宗青寺にて、賢治ゆかりの人々と南城振興共働村塾のメンバーによる松田甚次郎先生追悼会。
とあった。
 8月4日に亡くなった松田甚次郎。この日からそう遠くない日(着ているものから推測できる)にこれだけの人たちが集った追悼会が遠く花巻で行われていたということになり、その点でも松田甚次郎が当時如何なる位置にあったかが容易に想像できる。
 南城振興共働村塾のメンバーが集まることは松田甚次郎から直接指導を受けていることからさもありなんとは思えても、宮澤賢治ゆかりの人々が集まるということは今の時代からみればはちょっと意外だ。いや、この当時は宮澤賢治ゆかりの人々は松田甚次郎に対して感謝と畏敬の念に溢れていたということなのだろう。
 なお、松田甚次郎の遺骨は分骨されて賢治詩碑の横に埋葬されているという

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