宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

486 昭和3年夏岩手の「アカ狩り」

2013年06月08日 | 賢治昭和三年の蟄居
《創られた賢治から愛される賢治に》
 ところで当時の社会情勢はどうであったのであろうか。
荒木田家寿の証言
 『啄木 賢治 光太郎』を読んでいたならば荒木田家寿なる人物に出くわした。同書には荒木に関して次のようなことが記されていた。
 金田一兄弟の末弟、荒木田家寿は「『種蒔く人』を初めて持ち込んだのが、この直衛なんです。思想的には特にアカというのではなかったが、昭和三年、陸軍演習を前にして〝アカ狩り〟で盛中をクビになってしまった」という。
               <『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)37pより>
ということからは、昭和3年の陸軍特別大演習を前にして岩手県下では思想的な取締りがかなり厳しく行われたということが言えそうだ。直衛は思想的にそれほどではなかったのにも関わらず盛岡中学の教員の身を奪われたということのようだからだ。
 つまり、昭和3年の10月に行われたというこの大演習を前にして「県内にすさまじい「アカ狩り」旋風が吹き荒れた」というのはやはり本当のことだったようだ。それは、このような直衛なのに盛岡中学の職を追われた訳だけでなく、花巻では、下根子桜に出入りしていたという八重樫賢師が北海道に追放になったのもこの頃だったからである。
平井直衛馘首
 ところで、あの秋田出身の小牧近江が創刊した『種蒔く人々』を初めて盛岡に持ち込んだというこの直衛とは荒木田の兄なのだそうだ。そして、その直衛について前掲書は次のように紹介している。
 「独語」を書いた平井直衛は、明治二十六年盛岡生まれ。金田一京助を長男とした十一人兄弟の四男で、東京帝大でホイットマンを研究し、当時は盛中の英語教師。大正デモクラシーを教養にしたリベラリストで生徒の人望があつかったという。
               <『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)37pより>
 つまり、金田一京助、平井直衛、荒木田家寿の三人はなんと兄弟であったのだった。そして、この平井直衛は昭和3年10月に行われた陸軍特別大演習を前にして、「アカ」という理由で盛岡中学から追われたということになる。それも、弟家寿が言うところから推測すればその理由はせいぜい例の『種蒔く人』を初めて盛岡に持ち込んだ程度の理由であろうことが窺える。
 このことに関してはブログ
   『どっこ舎へようこそ!郷土の誇りを伝えよう!夢結ぼう!
の中の、
   『平井直衛
の中の〝4、盛岡中学校の教師を追われる〟で次のように紹介されている。
 昭和3年秋には、盛岡を中心に陸軍の大規模な特別大演習が行われ、お若い昭和天皇が盛岡中学校においでになり、授業を観閲なされた。こうした中にあって、盛岡中学校は警備も強化され、先生や生徒の動きにも厳しい目が向けられるようになった。後に直衛が亡くなった時、盛岡タイムスは2面トップに平井直衛先生の死を悼み、「社会主義の種をまく 赤の名で盛岡中学高を追われる」<*1>という見出しで当時のことを紹介している。直衛は昭和3年8月、退職して日詰にもどった。
 振り返ってみれば、大正デモクラシーの時代から昭和に移ると世の中は急激に右旋回し始めて軍国思想が高まっていったはずだ。そのような社会情勢下の岩手で行われる陸軍特別大演習を前にして、岩手では徹底した「アカ狩り」が行われて、盛岡中学の教師だった平井直衛は昭和3年8月にその職を追われた、ということになりそうだ。それも、何とその時期は
   昭和3年8月
だったのである。実際『白堊同窓会名簿』を見れば、
   平井直衛 T12.3~S3.8 英語
となっている。
 たしかに、
 平井直衛は昭和3年8月に赤の名で盛岡中学校を追われ、馘首された。
と言えそうだ。
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<*1:註>
  平井直衛先生の死を悼む
 社会主義の種をまく
    赤の名で盛中を追わる
 大正十二年から昭和三年八月まで県立盛岡中学で英語を教えていた平井直衛氏は九月十五日紫波郡日詰町日詰の自宅で死去した。大正の末から昭和のはじめにかけては、自由主義思想のらん熟期であるとともに社会科学形成期であり同氏は盛岡中学校にこうした思想の種をまき、育てた人として当時の卒業生には忘れられない先生であった。
              <『盛岡タイムス』(昭和42年9月10日付)>
 また関連して、佐藤好文氏の語ったという次のような記事も同紙面に載っている。
 大正十二年当時、すでに盛岡には岩手無産青年社なる団体があって、盛中五年生のぼくも加入していた。この団体の前に石川金次郎が中心だった牧民会という団体があったが、青年社は横田忠夫氏が中心だった。平井先生が仙台二中より赴任してきた英語の時間に、有島武郎の心中事件を社会的に解説したり、九月一日関東大震災でなぜ朝鮮人の人々のデマをとばさねばならなかったのか、」あるいはまたデカメロンなどを通して文芸復興の話をしたり、ぼくの目を大いに社会へ開かせてくれた。…(以下略)

 『賢治昭和三年の自宅蟄居』の仮「目次」
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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
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