宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

488 八重樫賢師が奔ったのも同じ頃

2013年06月10日 | 賢治昭和三年の蟄居
《創られた賢治から愛される賢治に》
八重樫賢師の生家訪問
 私は八重樫賢師の出奔時期等を知りたくなったので、平成25年3月6日(水)彼の生家を探し回ってみたところなんとかたどり着くことが出来た。お会いできたのは『80歳ですよ』と仰る若々しい老婦人とその息子さんであった。
 そしてそのご婦人から教えていただいたことは以下のとおりである。
① まず八重樫賢師の〝賢師〟の読み方についてだが、私は今まではついつい〝けんじ〟だとばかり思っていたが、〝けんし〟ですよと教わった。
② かつて、たしかに名須川溢男さんが来て義母から聞き取りをしていましたよ。その際傍にいてそのやりとりを聞いておりました。
③ 八重樫賢師は、昭和3年の陸軍特別大演習を前にして行われた警察の取り締まりから逃れるために、その8月頃に函館へ参りました。
④ 函館の五稜郭の近くに親戚がおり、味噌杜氏をしていたのですがそこに身を寄せました。しかし、2年後の昭和5年8月、享年23歳で亡くなりました。
⑤ 農学校の傍で生徒みたいなこともしておったそうです。
⑥ 頭も良くて、人間的にも立派なお方だったと聞いております。
⑦ 賢治さんの使い走りのようなことをさせられていたようです。
⑧ 昭和3年当時家の周りを特務機関の方がウロウロしていたものですよ、ということを隣家の方から教わったものです。
私はなるほどと思いながら、
 八重樫賢師が函館に追われたのもやはり昭和3年8月である。
と判断して間違いなさそうだと感じた。やはり予想通りであった。
確認できたこと
 八重樫賢師の生家を訪問したことで主に確認できたことは次の2つである。
 その一つは、
(1) 八重樫賢師が函館に奔ったのは小舘長右ェ門が小樽に奔った理由と同じであり、時期も同じで、それは昭和3年8月であったであろうこと。
 よって、平井直衛が盛岡中学の教員を首になり、小舘が小樽に奔り、八重樫賢師が函館に奔ったのも皆同じ昭和3年8月頃であたったことになる。言い方を変えれば、これらのことは同年10月陸軍特別大演習を前にして、官憲による徹底した取り締まりや凄惨な弾圧が為されたということを証左していると言えよう。奇しくも、この前月、7月には特高が新設された訳だから、岩手の場合に限って言えば特高はこの弾圧のために新設されたの観さえある。
 それからもう一つは
(2) たしかに名須川溢男は八重樫賢師の生家を実際訪ねて聞き取りをしていたことを確認出来たこと。なおかつ、名須川が論文に書いているような証言を先の〝義母〟が実際していたであろうこと。
である。これも私とすれば嬉しかったことである。名須川の論考がさらに信頼度を増してきたと思えたからである。
 そして、以前から
 名須川の論には聞き書きのあり方をめぐって批判が投げかけられた。……①
             <『宮沢賢治 童話の宇宙』(栗原敦編、有精堂)255pより>
ことがあったという栗原氏の指摘が私は気になっていて、何故そのような批判があったのかと訝しく思っていたのだが、今回の八重樫賢師生家訪問を通じて私なりにはその一つの可能性が少し垣間見えてきた。

 『賢治昭和三年の自宅蟄居』の仮「目次」
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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
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