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58 (31)篠木峠

 今回は「経埋ムベキ山」の一つ篠木(しのぎ)峠について報告する。

 まずは、
《1 篠木峠のある山並み》(平成20年11月12日撮影)

もちろんバックは秀峰南部片富士”岩手山”

 では、盛岡から国道46号線(秋田街道)を雫石方向に向かう。大釜付近で道路右側に”ビッグガマ”というパチンコが現れるからその次のT字路で右折し、県道16号線を滝沢村役場方向に向かう。1㎞強ほど進むと田沢湖線の跨線橋があり、そこを越えると
《2 篠木峠へのT字路》(平成20年11月12日撮影)

があるのでここを左折する。
《4 篠木峠のある山並み》(平成20年11月12日撮影)

《3 篠木峠への道》(平成20年11月12日撮影)

を真っ直ぐ進むと
《5 篠木小学校の側の交差点》(平成20年11月12日撮影)

があるので、そこを突っ切って
《6 峠への坂道》(平成20年11月12日撮影)

を登って行く。
《7 〃 》(平成20年11月12日撮影)

《8 そこから振り返った滝沢の街》(平成20年11月12日撮影)

《9 道路の端にはこんなものが溜まっている》(平成20年11月12日撮影)

見上げれば
《10 カラマツは黄葉》(平成20年11月12日撮影)

林だった。
《11 もみじ》(平成20年11月12日撮影)

の奥の樹間に白いものあり・・・ガードレールだ。行ってみると
《12 そこは旧道》(平成20年11月12日撮影)

《13 旧道から新道を見る》(平成20年11月12日撮影)

おそらく、宮澤賢治がこの峠を歩いた頃はこちらの旧道を歩いたのだろう。なお、地元の人に聞いてみると『いまの舗装道路は基本的には旧道とほぼ同じだ。峠も同じ場所だ』と云うことだった。
 舗装道路の脇には
《14 ヤブタバコ》(平成20年11月12日撮影)

《15 ノコンギク》(平成20年11月12日撮影)

《16 ユウガギク?》(平成20年11月12日撮影)

《17 ダイコンソウの実》(平成20年11月12日撮影)

《18 ナギナタコウジュの実》(平成20年11月12日撮影)

《19 ヒカゲイノコズチの実》(平成20年11月12日撮影)

《20 峠道》(平成20年5月16日撮影)(平成20年11月12日撮影)

 自転車を押しながら篠木野坂を登っているおじさんがいたので、私も一緒に歩かせて貰う。結構坂道はきつい。聞いてみると、姥屋敷などにいる人たちは滝沢などに出掛けるときはこの峠を使ったとのこと。
 やがて峠の頂上に出たので
《21 おじさんは軽快に自転車に乗って下りていった》(平成20年11月12日撮影)

 春ならば、峠頂上付近に咲いている山野草等は
《22 ハルザキヤマガラシ》(平成20年5月16日撮影)

《23 マイヅルソウ》(平成20年5月16日撮影)

《24 シラネアオイ》(平成20年5月16日撮影)

《25 チゴユリ》(平成20年5月16日撮影)

《26 ミツバウツギ》(平成20年5月16日撮影)

《27 脇の林に上がって峠頂上を見下ろす》(平成20年11月12日撮影)

舗装された峠では「経埋ムベキ山」としての篠木峠の雰囲気が出ないので、少し林の中に分け入ってみた。
《28 かつての峠の雰囲気?》(平成20年5月16日撮影)

これが晩秋なら
《29 〃 》(平成20年11月12日撮影)

《30 〃 》(平成20年11月12日撮影)

《31 〃 》(平成20年11月12日撮影)

 特にこれと思うものはなかったが
《32 ヤブレガサの穂》(平成20年11月12日撮影)

 この峠を下って姥屋敷・小岩井農場方面に向かうと、ほどなく周りが開ける。田圃の向こうには
《33 箱ヶ森など》(平成20年5月16日撮影)

が、田植のために水を張った田圃の向こうには
《34 岩手山》(平成20年5月16日撮影)

がそれぞれ野面を見守っている。

 さて、今まで登った多くの「経埋ムベキ山」はむべなるかなと思わせる雰囲気を感じたが、何故かここでは感じられなかった。
 この峠には石塔や権現様もないようだし、三角点もない。賢治の作品にも一切登場していないと思う。どうして、賢治はわざわざここを「経埋ムベキ山」に入れたのだろうか。

 そこで思ったことは以下のことである。

 次の図は 
《27 大正10年発行『岩手山登山案内図(一部抜粋)』》

  <『図説盛岡四百年』(郷土文化研究会)より>
である。
 賢治はしばしば小岩井に出掛けたと云う。一方、このロード・マップを見ると田沢湖線(橋場線)が書かれていないからその当時(大正10年、賢治26歳)はまだ鉄道は開業していなかったようで、小岩井へは歩いて行ったでことであろう。因みに、橋場軽便線は大正11年に盛岡~橋場間が開業しているようだ。
 とすれば、少なくとも大正10年以前は盛岡から小岩井へ行く場合はこの篠木峠を通るのが一番の近道なはずで、わくわくと「心象スケッチ」をしながらこの峠道を歩いたこともあったのだろう。
 一方、『小岩井農場 パート一』の出だしは
   わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた
   そのために雲がぎらつとひかつたくらゐだ
   けれどももつとはやいひとはある
   化学の並川さんによく肖たひとだ
   あのオリーブのせびろなどは
   そつくりをとなしい農学士だ
   さつき盛岡のていしやばでも
   たしかにわたくしはさうおもつてゐた
   このひとが砂糖水のなかの
   つめたくあかるい待合室から
   ひとあしでるとき……わたくしもでる
   馬車がいちだいたつてゐる
   馭者がひとことなにかいふ
   黒塗りのすてきな馬車だ
   光沢消しだ
   馬も上等のハツクニー
   このひとはかすかにうなづき
   それからじぶんといふ小さな荷物を
   載つけるといふ気軽なふうで
   馬車にのぼつてこしかける
    (わづかの光の交錯だ)
   その陽のあたつたせなかが
   すこし屈んでしんとしてゐる
   わたくしはあるいて馬と並ぶ
   これはあるひは客馬車だ
   どうも農場のらしくない
   わたくしにも乗れといへばいい
   馭者がよこから呼べばいい
   乗らなくたつていゝのだが
   これから五里もあるくのだし
   くらかけ山の下あたりで
   ゆつくり時間もほしいのだ
   あすこなら空気もひどく明瞭で
   樹でも艸でもみんな幻燈だ
   もちろんおきなぐさも咲いてゐるし
   野はらは黒ぶだう酒のコツプもならべて
   わたくしを款待するだらう
   そこでゆつくりとどまるために
   本部まででも乗つた方がいい
   今日ならわたくしだつて
   馬車に乗れないわけではない
      (以下略)

  <『新編 宮沢賢治詩集』(天沢退二郎編、新潮文庫)より>
となっている。そして、この詩が詠まれたのは大正11年5月21日のようだから、早速開業した橋場線(田沢湖線の前身)の汽車に乗って賢治はその便利さに浴している。

 ところが上の詩からは、賢治は馬車に乗れなくて苛立っている様子が窺える。「心象スケッチ」をしたりできる『くらかけ山の下あたりで ゆつくり時間もほしいのだ』というのに、それが出来そうにもないからであろう。とはいえ、まさか賢治がこれほどまでにこのような葛藤をするとは思っていなかったし、賢治は自分の時間をこれほど大切にしていたということを思い知った。

 ということから、賢治は鉄道が使えなかったときの小岩井への近道である篠木峠の有難味を、鉄道が出来て乗れるようになったことと較べてなおさら肌で感じていたであろう。自由になる時間をより多く生み出せる篠木峠の便利さに感謝していたのではなかろうか。
 そして、このことに対する感謝が「篠木峠(420m)」賢治をして「経埋ムベキ山」の一つに選んだ大きな理由かなと推理している。
 
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