宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

137 賢治と東和町(小桜家)

2009年04月12日 | Weblog
 前回触れた
《1 ツマゴ》(平成21年3月26日撮影)

と高村光太郎のエピソードに関して少し紹介したい。

 ”web春風倶楽部(http://www.shumpu.com/club/01.html)”の中で山折 哲雄氏が
     『売ってしまった賢治全集』
 このところ演歌が下火になり、クラシックの人気が下降ぎみなのだという。思うに、かつての居酒屋泥酔文化が低迷し、それとともにプチブル教養主義も権威失墜の運命にあるということなのだろう。
 それにかわって、ケイタイがわがもの顔に街頭を闊歩し、インターネットの電子亡霊が昼夜の別なく世間を騒がせる時代になっているようだ。本というものに三下り半がつきつけられているのだろう。もはや本は設備品の棚から引きずりおろされて、消耗品のコーナーに移しかえられているのかもしれない。本は、紙くず同然になってしまうのだろうか。
 戦後まもないころ中学生だった私は、戦前に十字屋という書店から出版された宮沢賢治全集を手に入れて、得意になっていたことがある。たしか全八巻に別巻がついていたと思う。編集委員のなかに高村光太郎と草野心平の名があったことを覚えている。二人とも、もっとも早い時期に賢治の作品を認めていたのである。箱と背表紙に「宮沢賢治全集」と書いたのが高村光太郎だった。背筋の通った、凛とした書体であったことが、いまでも眼前に甦る。
 敗戦の前から、私はたまたま賢治のふるさと花巻に疎開していた。そしてまもなく、光太郎がその花巻の地にやってきた。戦争讃美の詩を書いた、その罪滅ぼしのためであった。ある日私は、花巻の町を歩いている光太郎の姿をみつけて、あとをつけていった。大きいからだにつまごを履き、ゆっくり雪道を歩いていたのである。やがて光太郎は花巻を去り、私は大学生になって花巻を離れた。貧しい学生生活を余儀なくされることになったが、わずかの金銭を得るためにあの十字屋版の賢治全集を古本屋に売ってしまった。それがいま、悔まれてならない。

と述べている。ツマゴとはこの中に出てくるようなつまごのことなのだろうか。光太郎がこのようなツマゴを履いて雪道を歩いていたとちょっと意外であった。これでは雪道を歩くには辛かろうと思うからである。せめて、次のよな雪沓を履かせたかった。
《2 雪沓(奥の長靴に似た履き物)》(平成21年3月26日撮影)

あるいは、これも”つまご”と呼ばれていて、光太郎はこちらの方を履いていたのだろうか。

 さて、では光太郎ゆかりの場所が東和町にあるのでその報告をしたい。
 東和町商店街を釜石方面に向かってゆくと、その外れ近くに次のような
《3 食堂『小桜家』》(平成21年3月26日撮影)

があり、この食堂前には
《4 高村光太郎ゆかりの地》(平成21年3月26日撮影)

という石標が建ててある。その奥が
《5 割烹『小桜家』》(平成21年3月26日撮影)

である。この料亭の2階に高村光太郎のゆかりの 
《6 彫刻》(平成21年3月26日撮影)

がある。かつて光太郎がこの料亭に来た際に、この料亭の料理包丁でテーブルに彫った物だという。
   山影
   如
   太古

と彫られている。
        山影太古の如し
と読み下せばいいのだろう。
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 それにしても、山折氏が先の小品で『戦争讃美の詩を書いた、その罪滅ぼしのためであった』と述べているが、悲しいことにあの当時戦争を賛美しなかった文筆家は殆どいなかったのではなかろうか。さりとて、同時期を生きていない私が彼等を責めるのにはためらいがある。あの当時の社会情勢の中にあればそうしたであろうと思われるからである。また、あの戦争に積極的に賛成したわけではない文筆家だって、戦争翼賛に利用されたことだってあっただろう。賢治がもし早世していなかったならば、十五年戦争の時代を彼はどのように生きたのだろうか。

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