前回、次のような私見を述べた。
宮沢賢治は「経埋ムベキ山」の山々を選定する際に
(1) 童話『銀河鉄道の夜』が重要な役割を果たした。
(2) いくつかの山は白鳥座を意識して選んだ。
(3) 八方山をアンタレスに擬した。
(4) 32座を白鳥座、鷲座、盾座、射手座を構成するための必要十分条件としたわけではない。
と云う仮説である。
まず、(1) について検証してみたい。
宮沢賢治の年譜よりいくつか拾ってみると、
昭和6年9月19日上京中発熱臥床。21日遺書を認める。28日花巻帰着、病床につく。11月3日手帳に「雨ニモマケズ」を書く。
昭和7年3月「グスコーブドリの伝記」発表。高等数学を勉強し、旧作を推敲。
昭和8年1月、わずかに歩行できるようになる。「文語詩稿 五十篇」「文語詩稿 一百篇」の推敲を終える。9月21日喀血、永眠。
<『注文の多い料理店』(宮沢賢治著、角川文庫)より>
さらに、同著で弟の清六氏は
病状は両親のもとで一進一退をくり返した。一冊の手帳に「雨ニモマケズ」など、自分の一生を省みてざんげし自戒する詩句を書きつけ、「グスコーブドリの伝記」を清書し、「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」「セロ弾きのゴーシュ」等を推敲加筆した。
と述べている。
【Fig.25 復元版「雨ニモマケズ手帳」】(校本宮澤賢治全集 資料第五 筑摩書房)
【Fig.2(再掲) 復元版「雨ニモマケズ手帳」143~144p】(同上)
ということは、賢治は最後まで『銀河鉄道の夜』を推敲加筆し続けていたし、「経埋ムベキ山」の選定はこの時期だから、両者を同じ心境下で行い、同じ想いで行っていたことになろう。なぜなら、「経埋ムベキ山」の件は「雨ニモマケズ手帳」に書かれているからである。
因みに、賢治が『銀河鉄道の夜』の最終稿(第四次稿)の成立を試みたのは昭和6~7年(1931~1932年)と考えられると天沢退二郎氏は『新編 銀河鉄道の夜』(新潮文庫)の中で言っている。賢治はその時期花巻の自宅で病に伏せていた時期である。
一方、”『銀河鉄道の夜』とのこと(その1)”で述べたように草下氏の統計調査によると
賢治全集の頁を繰って、その全作品中にどの位天体が描かれているかを数えて見よう。・・・(中略)・・・総計七〇四。ということになる。
つまり七〇四ヵ所に天体に関する記述が見られる。全集の作品を含んでいる全頁合計すると三〇九七頁であり、結局四.四頁に一回の割で天体がえがかれていることになる。恐らく近代日本文学に於いては、空前の豊饒であるといっても差し支えないだろう。
ということであり、賢治の作品に天体は必要条件と云えそうだから、賢治の作品と天体は切り離せない関係にある。
とすれば、推敲加筆していた『風の又三郎』『銀河鉄道の夜』『セロ弾きのゴーシュ』の中で天体に一番関わりを持っているのは『銀河鉄道の夜』であるから、その中に賢治の天体に関する心象風景が最もよく出ているのではなかろうか(『銀河鉄道の夜』は賢治の心象世界そのものと私は思っている)。
ところで、”『銀河鉄道の夜』とのこと(その3)”で述べたように
賢治の心象世界では 山頂≒星
という近似式が成り立つと私は考えている。言い換えれば、
イーハトーブの山の頂≒星
であるから、イーハトーブの真ん中を北から南に流れる北上川は同様な論理から
北上川≒銀河
という近似式が成り立とう。
実際、「経埋ムベキ山」の32座は北上川に沿って選定されていることがそのことを示していると思う。
《1 イギリス海岸沿いを流れる北上川(平成20年6月18日撮影)》
川舟が浮かび、右奥に胡四王山が、左奥に淡く権現堂山が見える。
では(1)について、ここで図式化してまとめてみたい。
『経埋ムベキ山&北上川』⇔『山頂≒星&北上川≒銀河』・・・①
『銀河鉄道の夜』の列車が走る舞台⇔白鳥座などを含む銀河・・・②
したがって、①と②より
「経埋ムベキ山」の山々の選定に際し、童話『銀河鉄道の夜』が重要な役割を果たした。
という仮説はある程度検証できたのではなかろうか。
ところで、「雨ニモマケズ手帳」の中の151~152pの経筒について小倉氏は
埋経するのは、仏法がなくなってしまった時、再び仏法を伝えんとする念願からするのである。そこで「コノ筒法滅ノ后、至心求法ノ人ノ手ニ開カレンコトヲ翼フ」と記したのである。
と『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)において説明している。
因みに、手帳の当該頁151~152pは次のようなものである。
【Fig.26 復元版『雨ニモマケズ手帳』(校本宮澤賢治全集 資料第五、筑摩書房)】
また、経筒に関しては135~136pにも、その形と銘文の構想が次のように描かれている。
【Fig.27:復元版『雨ニモマケズ手帳』(校本宮澤賢治全集 資料第五、筑摩書房)】
思うに、賢治は「雨ニモマケズ手帳」を公開しようとしていたわけではなかろうから、病臥中に書いていたこの手帳は清六氏が言うように「自分の一生を省みてざんげ自戒する詩句の書きつけ」であろう。ほとんど歩行さえもおぼつかなくなった己が体躯に鑑み、この手帳に経筒のデザインなどを描き、選定した「経埋ムベキ山」32座に対して心象世界で埋経という行為を賢治は行っていたのではなかろうか。
というのは、手帳の一番最後の頁は次のようなもので
【Fig.28 復元版「雨ニモマケズ手帳」165~166p】(同上)
羽黒山などの供養塔のスケッチが描かれているが、青や赤そして紫の色鉛筆で丁寧に彩りされた”七庚申”が描かれているからである。
『解説 復元版「雨ニモマケズ手帳」』(小倉 豊文著、筑摩書房)によれば、
「庚申」は1年に六度めぐってくるのが普通であるが、年によっては五度しかないことがありそのときは米は凶作、七度のこともありそのときは豊作になるという民間信仰であると云う。そこで、それぞれその年には凶作回避、豊作御礼の「庚申天」のお祭りが行われるのだそうだ。
ところが、賢治の文語詩 一百篇『庚申』には
歳に七度はた五つ、 庚の申を重ぬれば、
稔らぬ秋を恐みて、 家長ら塚を理めにき。
汗に蝕むまなこゆゑ、 昴の鎖の火の数を、
七つと五つあるはたゞ、 一つの雲と仰ぎ見き。
<『校本 宮沢賢治全集 第五集』(筑摩書房)より>
とある。賢治は七庚申のときも『稔らぬ秋』と詠っているから、花巻あたりでは五庚申の年も七庚申の年もともに凶作になると思われていたのであろう(あるいは、賢治がそう思っていたのかも知れないが)。そこで、凶作回避のために恐(かしこ)んで農民は庚申塔を建てたのであろうことが推測できる。実際の庚申塔は、例えば花巻市の江釣子森付近のものだが
《2 江釣子森山付近の七庚申塔》(平成20年10月13日撮影)
のようなものである。
折悪しく、賢治が4月に発熱し、病の床に伏した昭和六年は「七庚申」の年だった。そこで、野面に七庚申塔を立てることは叶わぬにしても、「雨ニモマケズ手帳」の一番端っこの見やすいところにせめて理(おさ)めようと思って、賢治は心を込めて五庚申・七庚申を描いたのではなかろうか。
つまり、「雨ニモマケズ手帳」に五庚申・七庚申を描くことによって心象世界で『稔らぬ秋を恐みて塚を理め』て凶作回避を祈願するという考え方と、この手帳に経筒のデザインなどを描くことによって心象世界で『「経埋ムベキ山」32座に対してで埋経をする』という考え方は同じ思想だったのではなかろうかと思うからである。
なお、賢治の凶作回避の願いは裏切られ、同著で小倉氏は
この手帳の執筆中の一九三一年(昭和六年)は、十一月一日と十二月三十一日が「庚申」であったから「七庚申」の年であった訳。農村では「庚申天」の祭が賑わったことであろうと思うのは早合点で、この年は北海道は大凶作、岩手県も冷害と豪雨で大減収の九十九万石になってしまい、県下中学校生徒の授業料滞納や途中退学者が激増した年である。「庚申天」の祭も悲痛な祈願であったであろう。
と語っている。
だからこそ、賢治の絶筆
方十里
稗貫のみかも
稲熟れて
み祭三日
そらはれわたる
にはその年(昭和8年)の豊作を喜んでいる素直な気持が溢れており、さぞかし豊作であったことを喜んでいたことであろうことが伝わってくる。
では、(2)以降の検証は次回へ
続きの
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前の
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宮沢賢治は「経埋ムベキ山」の山々を選定する際に
(1) 童話『銀河鉄道の夜』が重要な役割を果たした。
(2) いくつかの山は白鳥座を意識して選んだ。
(3) 八方山をアンタレスに擬した。
(4) 32座を白鳥座、鷲座、盾座、射手座を構成するための必要十分条件としたわけではない。
と云う仮説である。
まず、(1) について検証してみたい。
宮沢賢治の年譜よりいくつか拾ってみると、
昭和6年9月19日上京中発熱臥床。21日遺書を認める。28日花巻帰着、病床につく。11月3日手帳に「雨ニモマケズ」を書く。
昭和7年3月「グスコーブドリの伝記」発表。高等数学を勉強し、旧作を推敲。
昭和8年1月、わずかに歩行できるようになる。「文語詩稿 五十篇」「文語詩稿 一百篇」の推敲を終える。9月21日喀血、永眠。
<『注文の多い料理店』(宮沢賢治著、角川文庫)より>
さらに、同著で弟の清六氏は
病状は両親のもとで一進一退をくり返した。一冊の手帳に「雨ニモマケズ」など、自分の一生を省みてざんげし自戒する詩句を書きつけ、「グスコーブドリの伝記」を清書し、「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」「セロ弾きのゴーシュ」等を推敲加筆した。
と述べている。
【Fig.25 復元版「雨ニモマケズ手帳」】(校本宮澤賢治全集 資料第五 筑摩書房)
【Fig.2(再掲) 復元版「雨ニモマケズ手帳」143~144p】(同上)
ということは、賢治は最後まで『銀河鉄道の夜』を推敲加筆し続けていたし、「経埋ムベキ山」の選定はこの時期だから、両者を同じ心境下で行い、同じ想いで行っていたことになろう。なぜなら、「経埋ムベキ山」の件は「雨ニモマケズ手帳」に書かれているからである。
因みに、賢治が『銀河鉄道の夜』の最終稿(第四次稿)の成立を試みたのは昭和6~7年(1931~1932年)と考えられると天沢退二郎氏は『新編 銀河鉄道の夜』(新潮文庫)の中で言っている。賢治はその時期花巻の自宅で病に伏せていた時期である。
一方、”『銀河鉄道の夜』とのこと(その1)”で述べたように草下氏の統計調査によると
賢治全集の頁を繰って、その全作品中にどの位天体が描かれているかを数えて見よう。・・・(中略)・・・総計七〇四。ということになる。
つまり七〇四ヵ所に天体に関する記述が見られる。全集の作品を含んでいる全頁合計すると三〇九七頁であり、結局四.四頁に一回の割で天体がえがかれていることになる。恐らく近代日本文学に於いては、空前の豊饒であるといっても差し支えないだろう。
ということであり、賢治の作品に天体は必要条件と云えそうだから、賢治の作品と天体は切り離せない関係にある。
とすれば、推敲加筆していた『風の又三郎』『銀河鉄道の夜』『セロ弾きのゴーシュ』の中で天体に一番関わりを持っているのは『銀河鉄道の夜』であるから、その中に賢治の天体に関する心象風景が最もよく出ているのではなかろうか(『銀河鉄道の夜』は賢治の心象世界そのものと私は思っている)。
ところで、”『銀河鉄道の夜』とのこと(その3)”で述べたように
賢治の心象世界では 山頂≒星
という近似式が成り立つと私は考えている。言い換えれば、
イーハトーブの山の頂≒星
であるから、イーハトーブの真ん中を北から南に流れる北上川は同様な論理から
北上川≒銀河
という近似式が成り立とう。
実際、「経埋ムベキ山」の32座は北上川に沿って選定されていることがそのことを示していると思う。
《1 イギリス海岸沿いを流れる北上川(平成20年6月18日撮影)》
川舟が浮かび、右奥に胡四王山が、左奥に淡く権現堂山が見える。
では(1)について、ここで図式化してまとめてみたい。
『経埋ムベキ山&北上川』⇔『山頂≒星&北上川≒銀河』・・・①
『銀河鉄道の夜』の列車が走る舞台⇔白鳥座などを含む銀河・・・②
したがって、①と②より
「経埋ムベキ山」の山々の選定に際し、童話『銀河鉄道の夜』が重要な役割を果たした。
という仮説はある程度検証できたのではなかろうか。
ところで、「雨ニモマケズ手帳」の中の151~152pの経筒について小倉氏は
埋経するのは、仏法がなくなってしまった時、再び仏法を伝えんとする念願からするのである。そこで「コノ筒法滅ノ后、至心求法ノ人ノ手ニ開カレンコトヲ翼フ」と記したのである。
と『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)において説明している。
因みに、手帳の当該頁151~152pは次のようなものである。
【Fig.26 復元版『雨ニモマケズ手帳』(校本宮澤賢治全集 資料第五、筑摩書房)】
また、経筒に関しては135~136pにも、その形と銘文の構想が次のように描かれている。
【Fig.27:復元版『雨ニモマケズ手帳』(校本宮澤賢治全集 資料第五、筑摩書房)】
思うに、賢治は「雨ニモマケズ手帳」を公開しようとしていたわけではなかろうから、病臥中に書いていたこの手帳は清六氏が言うように「自分の一生を省みてざんげ自戒する詩句の書きつけ」であろう。ほとんど歩行さえもおぼつかなくなった己が体躯に鑑み、この手帳に経筒のデザインなどを描き、選定した「経埋ムベキ山」32座に対して心象世界で埋経という行為を賢治は行っていたのではなかろうか。
というのは、手帳の一番最後の頁は次のようなもので
【Fig.28 復元版「雨ニモマケズ手帳」165~166p】(同上)
羽黒山などの供養塔のスケッチが描かれているが、青や赤そして紫の色鉛筆で丁寧に彩りされた”七庚申”が描かれているからである。
『解説 復元版「雨ニモマケズ手帳」』(小倉 豊文著、筑摩書房)によれば、
「庚申」は1年に六度めぐってくるのが普通であるが、年によっては五度しかないことがありそのときは米は凶作、七度のこともありそのときは豊作になるという民間信仰であると云う。そこで、それぞれその年には凶作回避、豊作御礼の「庚申天」のお祭りが行われるのだそうだ。
ところが、賢治の文語詩 一百篇『庚申』には
歳に七度はた五つ、 庚の申を重ぬれば、
稔らぬ秋を恐みて、 家長ら塚を理めにき。
汗に蝕むまなこゆゑ、 昴の鎖の火の数を、
七つと五つあるはたゞ、 一つの雲と仰ぎ見き。
<『校本 宮沢賢治全集 第五集』(筑摩書房)より>
とある。賢治は七庚申のときも『稔らぬ秋』と詠っているから、花巻あたりでは五庚申の年も七庚申の年もともに凶作になると思われていたのであろう(あるいは、賢治がそう思っていたのかも知れないが)。そこで、凶作回避のために恐(かしこ)んで農民は庚申塔を建てたのであろうことが推測できる。実際の庚申塔は、例えば花巻市の江釣子森付近のものだが
《2 江釣子森山付近の七庚申塔》(平成20年10月13日撮影)
のようなものである。
折悪しく、賢治が4月に発熱し、病の床に伏した昭和六年は「七庚申」の年だった。そこで、野面に七庚申塔を立てることは叶わぬにしても、「雨ニモマケズ手帳」の一番端っこの見やすいところにせめて理(おさ)めようと思って、賢治は心を込めて五庚申・七庚申を描いたのではなかろうか。
つまり、「雨ニモマケズ手帳」に五庚申・七庚申を描くことによって心象世界で『稔らぬ秋を恐みて塚を理め』て凶作回避を祈願するという考え方と、この手帳に経筒のデザインなどを描くことによって心象世界で『「経埋ムベキ山」32座に対してで埋経をする』という考え方は同じ思想だったのではなかろうかと思うからである。
なお、賢治の凶作回避の願いは裏切られ、同著で小倉氏は
この手帳の執筆中の一九三一年(昭和六年)は、十一月一日と十二月三十一日が「庚申」であったから「七庚申」の年であった訳。農村では「庚申天」の祭が賑わったことであろうと思うのは早合点で、この年は北海道は大凶作、岩手県も冷害と豪雨で大減収の九十九万石になってしまい、県下中学校生徒の授業料滞納や途中退学者が激増した年である。「庚申天」の祭も悲痛な祈願であったであろう。
と語っている。
だからこそ、賢治の絶筆
方十里
稗貫のみかも
稲熟れて
み祭三日
そらはれわたる
にはその年(昭和8年)の豊作を喜んでいる素直な気持が溢れており、さぞかし豊作であったことを喜んでいたことであろうことが伝わってくる。
では、(2)以降の検証は次回へ
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