宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

83 三郎沼

2008年12月07日 | Weblog
 胡四王山の東方、2.5㎞ほどのところにいくつかの貯め池がある。
 東北新幹線新花巻駅からJR釜石線沿いに東和町方向に向かうと小山田駅という駅があるが、そのそばにある溜め池は三郎池(三郎堤)と呼ばれている。

 次の賢治の詩〔はつれて軋る手袋と〕
      ……はつれて軋る手袋と
        盲ひ凍えた月の鉛……
   県道のよごれた凍しみ雪が
   西につゞいて氷河に見え
   畳んでくらい丘丘を
   春のキメラがしづかに翔ける
      ……眼に象って
        かなしいその眼に象って……
   北で一つの松山が
   重く澱んだ夜なかの雲に
   肩から上をどんより消され
   黒い地平の遠くでは
   何か玻璃器を軋らすやうに
   鳥がたくさん啼いてゐる
      ……眼に象って
        泪をたゝえた眼に象って……
   丘いちめんに風がごうごう吹いてゐる
   ところがこゝは黄いろな芝がぼんやり敷いて
   笹がすこうしさやぐきり
   たとへばねむたい空気の沼だ
   かういふひそかな空気の沼を
   板やわづかの漆喰から
   正方体にこしらえあげて
   ふたりだまって座ったり
   うすい緑茶をのんだりする
   どうしてさういふやさしいことを
   卑しむこともなかったのだ
      ……眼に象って
        かなしいあの眼に象って……
   あらゆる好意や戒めを
   それが安易であるばかりに
   ことさら嘲けり払ったあと
   ここには乱れる憤りと
   病ひに移化する困憊ばかり
      ……鳥が林の裾の方でも鳴いてゐる……
      ……霰か氷雨を含むらしい
        黒く珂質の雲の下
        三郎沼の岸からかけて
        夜なかの巨きな林檎の樹に
        しきりに鳴きかふ磁製の鳥だ……
         (わたくしのつくった蝗を見てください)
         (なるほどそれは
          ロッキー蝗といふふうですね
          チョークでへりを隈どった
          黒の模様がおもしろい
          それは一疋だけ見本ですね)
   おゝ月の座の雲の銀
   巨きな喪服のやうにも見える

    <『校本宮澤賢治全集 第三巻』(筑摩書房)より>    
の中の三郎沼とはこの三郎池(三郎堤)のことである。

 今回、この三郎沼周辺を散策してみたなら胡四王山に関係しそうなことがあったので報告する。

《1 三郎沼》(平成20年9月30日撮影)

遠くに望む山々は奥羽山脈である。
《2 〃 》(平成20年9月30日撮影)

こちらは早池峰山方向を望んでいる。中央の山の左肩にうっすらと見えるのが早池峰山である。
《3 三郎堤の碑》(平成20年9月30日撮影)

《4 三郎堤の由来》(平成20年9月30日撮影)

 碑には
 花巻市矢沢地区は、幸田地区よりの自然流入を用水源として、古志族で開拓された地区である。平安時代の末期文治五年(西暦一一八九年)に奥州の王者、平泉の藤原泰衡公が源頼朝によって滅ぼされたとき、その弟泉三郎忠衡公は平泉を逃れ幸田に落ちのびた。忠衡公は農地開拓に志を立て、四人の従臣をおそ込沢・牡丹平・下西沢・三ツ口の四ヶ所に配置し、十余年に及ぶ歳月を費して三つの堤が築造されたのが”三郎堤”であると伝えられ又此の工事の安全と早期完成を祈願して、ため池近くの小高い森に八雲の大神を祀った聖地がある。
建久三年(西暦一一九二年)藤原氏滅亡により鎌倉家人の配領として、この地は稗貫氏から稗貫郡と称し中山五郎為重が当郡を領した。のち南部藩となり、享保二十年(西暦一七三五年)に南部領内十郡を三十三通りに制定され、この地を安表通りと称し、三郎堤の修繕管理に当たったと云う。(花巻市史による)

と記されている。

 まずは、碑文の出だしに”花巻市矢沢地区”とあるが、この”矢沢”の由来から紹介したい。
 三郎堤や胡四王山のある一帯は”矢沢”と云われており、これは胡四王山の山中には流下する沢が8ヵ所あることから、「八沢」、のちには「矢沢」の地名が付けられたと伝えられる。
   <『花巻市博物館第7回企画展 胡四王山の世界』より>
 
 次に、これが今回特に報告したかったことだが、この碑文の中の”古志族”のことである。
 この古志族についてであるが、HP”満州族の祖先粛慎人及び靺鞨人と日本の親縁”の『渡海して日本に建国した北方ツングース族-粛慎、靺鞨、狄』の中に
 日本海岸の独立国「越国」は、山形県の小国町にあり、古志王神社がある。古志族は、中国東北から黒龍江流域沿海州に住んでいたツングース族である。日本古代、この民族は、遷移南下し、渡海して北海道に至り、日本一帯を統治した。一説によれば、彼らは、祖先の石像を彫刻して、祖先を祭った。現在、古志王神社が祭る神像は、鎌倉時代の一刀彫(小刀で刻み込む彫法)の古志王像である。古志国は、日本飛鳥時代(7世紀初め)の国名であり、越国又は高志とも写し、大化の改新時に至って、名称を越国に統一した。越国の位置は、今日の新潟県から福井県北部に当たる。この後、山形県、秋田県から青森県の最北端に至るまで、全て越国を称した。7世紀後半の天武、持統天皇時期に至り、越国は、越前、越中、越後に三分され、この呼称は、現在に至るまで用いられている。越後新潟の新発田市にも、古志王神社がある。当地の民間信仰には、このような伝説がある。神社の戸の隙間又は裂け目に赤土を塗り、身体上にも赤土を塗りさえすれば、冬になっても、皮膚は凍傷にならないという話である。これより、古志王は、元々寒地の神であったと見られる。「日本書紀」神代の国造り神話の中には、越州の地名がある。当時、本州を「大日本豊秋津洲」と称したことから、日本海沿岸の越国は、大和王権の外に独立した独特な地区であったと見られる。
というものがあった。ということは、
     胡四=古志=越
なのだろうか。
 つまり、矢沢の一帯は古志族の開いた地区であり、その古志族の信仰の拠り所が古志(胡四)王神社だったのだろうか。
 また、”由来”によれば”ため池近くの小高い森に八雲の大神を祀った聖地がある”ということだが、実は今はないのだが、明治時代の胡四王山図を見ると頂上には”八雲神社”も描かれてある。

 そして、実は”八雲神社が”この直ぐ近くにも幾つかあることを今回知った。

《5 堤の土手に咲くヤクシソウ》(平成20年9月30日撮影)

《6 三郎堤は白鳥の飛来地でもある》(平成20年9月30日撮影)

 堤の脇に階段発見
《7 泉三郎忠衡公霊の碑入り口》(平成20年9月30日撮影)

《8 鳥居》(平成20年9月30日撮影)

《9 元宮 槍塚の標識》(平成20年9月30日撮影)

《10 槍塚》(平成20年9月30日撮影)

《11 本宮略図》(平成20年9月30日撮影)

右側が欠けていて残念。
《12 丘の頂上》(平成20年9月30日撮影)

ここが”ため池近くの小高い森に八雲の大神を祀った聖地”に当たる。
《13 本宮の社》(平成20年9月30日撮影)

《14 八雲神社本宮泉三郎忠衡公霊碑》(平成20年9月30日撮影)

 近くの草地には
《16 センブリ》(平成20年9月30日撮影)

《20 アキノキリンソウ》(平成20年9月30日撮影)

《21 ノコンギク》(平成20年9月30日撮影)

 再び道路に出て東和町方向に向かうと右手に
《22 道路沿いの鳥居》(平成20年9月30日撮影)

何の鳥居か分からず、訝りながらさらに進むと同じく右手に
《23 神社発見》(平成20年9月30日撮影)

《25 これも八雲神社だった》(平成20年9月30日撮影)

《26 安山集塊岩で作られた?手水鉢》(平成20年9月30日撮影)


 そして実は、近くに別のもっと立派な”八雲神社”があったのだ。先程の”八雲神社”を後にした途端、西側50mほどの所に
《27 新たな鳥居発見》(平成20年9月30日撮影)

《28 額は”八雲神社”》(平成20年9月30日撮影)

となっている。さらに、となりに今度は
《29 赤い鳥居》(平成20年9月30日撮影)

があった。そして
《30 さらに鳥居》(平成20年9月30日撮影)

があり、額にはやはり”八雲神社”と書かれている。
《31 階段状の参道》(平成20年9月30日撮影)

をくぐると境内には
《32 ”前の八雲神社”よりも立派な”今度の八雲神社”社殿》(平成20年9月30日撮影)

《33 八雲神社御創建八百年式年祭の碑》(平成20年9月30日撮影)

には昭和五十五年とある。
《34 神楽殿》(平成20年9月30日撮影)

《35 ”八雲神社”の額》(平成20年9月30日撮影)

《36 奥社》(平成20年9月30日撮影)

 境内の
《37 八雲神社由緒》(平成20年9月30日撮影)

 平安朝末期 文治年中 奥州平泉藤原泰衡公の弟 泉三郎忠衡、矢沢百余町歩の水田灌漑のため 此の地に三ツの大きな堤を築造したと傳へられるが、この工事にあたって日頃尊崇する八雲の大神を、今日 元宮と呼ばれる小高い森に勧請工事の安全と早期完成を祈ったのが当神社を祀ったはじまりである。
 大神の守護のもと見事三郎池の完成を見、之に伴う開田も進み、村里は豊かに富み栄え、お宮のお祭りも盛んに執り行われるようになった。幸田神楽はこの時期に完成されたもので最も人気を呼び、夜を徹して踊られたと傳へられ、神楽場の地名も残って居る。
 かくて、二百五十年程を経て享徳三年となるこの年春三月、盛大なる御遷座の祭儀が執り行われた。現在の境内を、より神域に相応しい聖地として大神を鎮め祭り奉ったのである。記録によると、この年大干魃に見舞われ、池底の割れ目から鋤、釜(鎌?)等が出土したとあり、これ等は神社の宝物として保存されてい居る。
 当神社はもと牛頭天王(ごずてんのう)と称し奉り治山治水、農耕守護神として、又、疫病退散の御霊験あらたかなる神として近郷は云うに及ばず、広い地域に亘って篤い信仰が寄せられている。(以下略)   

と説明してある。
 
 それで、今回訪れてみて嬉しかったのがこの牛頭天王(ごずてんのう)と云う固有名詞を知ったことである。
 というのは他でもない、”牛頭天王”、「経埋ムベキ山」の”旧天王”、同じく”胡四王”が三つとも”王”が付くし、特に”牛頭天王”と”旧天王”はともに同じ”天王”が付くからである。
 そして、この1㎞四方にも満たない範囲にこれだけの”八雲神社群”があり、この一帯にこれほどの歴史があり、爾来里人が脈々と日々の生活を送ってきたことに感心するばかりだ。
 
《38 幸田神楽説明板》(平成20年9月30日撮影)

《39 安山集塊岩の手水鉢?》(平成20年9月30日撮影)

《40 小さい社》(平成20年9月30日撮影)


《41 石碑》(平成20年9月30日撮影)

《42 古峰神社》(平成20年9月30日撮影)

 三郎堤の近くにこれほどの数の八雲神社があることに驚き、感心した。

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