宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

216 「雨ニモマケズ」は標準語で書かれている

2010年03月20日 | Weblog
      【↑ Fig.1 「雨ニモマケズ手帳」(51~52p)】
   <『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』、筑摩書房より>

 「雨ニモマケズ手帳」に書かれている「ヒドリ」は「ヒデリ」の誤記だというのは定説でもう決着が着いていると聞いていたが、最近手に入れたある著書で、その著者W氏は
 「ヒドリ」とは南部藩が使っていた公用語で日傭労働のことを意味し「日用取」と表記していた。
 したがって、
  ヒドリノトキハ  ナミダヲナガシ
とは、冷夏にヒデリはなく、その秋に収穫の農作業はなくなる。そこでヒドリの日銭で生活するしかなく、そのヒドリにナミダが流れるという意味なのである。
 よって、「雨ニモマケズ」の中の
  ヒドリノトキハ  ナミダヲナガシ
  サムサノナツハ  オロオロアルキ
の”ヒドリ”はヒドリで正しいのだ。

という論理で持論を展開していることを知った。

 そこで、幾つかの観点からこのことを自分なりに検証してみたいと思うようになったのでその報告をしたい。

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1 「雨ニモマケズ」は標準語で書かれている
 かつて
  「ヒドリ=ヒトリの方言」説
というものもあったという。つまり、”ヒドリ”は”一人”の方言だということらしい。
 いくら東北人は訛るからとはいっても、私の知る限りでは”私”が”わだし”と訛るようなことはあっても、”一人”を”ひどり”と訛るような喋り方はこの花巻辺りではないと思う。
 そして、それよりなにより「雨ニモマケズ」は標準語で書かれれているはず。因みに以下に「雨ニモマケズ」の全文を載せてみる。
 11.3
  雨ニモマケズ
  風ニモマケズ
  雪ニモ夏ノ暑サニ
  モ マケヌ
    丈夫ナカラダヲ
         モチ
  慾ハナク
  決シテ瞋ラズ
  イツモシヅカニワラッテ
           ヰル
  一日ニ玄米四合ト
   味噌ト少シノ
       野菜ヲタベ
  アラユルコトヲ
  ジブンヲカンジョウニ
        入レズニ
      ヨクミキキシワカリ
ソシテ
  ワスレズ
  野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
   小サナ萱ブキノ
      小屋ニヰテ
  東ニ病氣ノコドモ
      アレバ
  行ッテ看病シテ
       ヤリ
  西ニツカレタ母アレバ
  行ッテソノ
     稲ノ束ヲ
        負ヒ
  南ニ
    死ニソウナ人
         アレバ
  行ッテ
    コハガラナクテモ
      イヽ
        トイヒ

【Fig.2 「雨ニモマケズ手帳」(57~58p)】

  <『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』、筑摩書房より>
   北ニケンクワヤ
      ソショウガ
         アレバ
  ツマラナイカラ
     ヤメロトイヒ
  ヒドリノトキハ
     ナミダヲナガシ
  サムサノナツハ
     オロオロアルキ
  ミンナニ
     デクノボート
         ヨバレ
  ホメラレモセズ
  クニモサレズ
    サウイウ
       モノニ
    ワタシハ
      ナリタイ

  <『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』、筑摩書房より>
というわけで、「雨ニモマケズ」は方言では書かれていないからこの「ヒドリ」の部分だけが方言になってしまう「一人」説は付会と言わざるを得ないのではなかろうか。

 したがって、「ヒドリ」は方言ではなくて標準語あるいはそれに準じた用語ではなかろうかと考えられることになる。

2”日傭労働”が「ヒドリ」と読まれていたか
 そこでだろうか、W氏は自著で
 「ヒドリ」は方言ではなくて南部藩の公用語であり、「ヒドリ」は「日用取」と書かれていた。いまは「手間取」とか「日手間取」とか使われている”日傭労働”のことである。
ということの主張をしている。W氏は「ヒドリ」は標準語とまではいえなくとも南部藩では公用語だったということを言いたいのだろう。
 ただし、W氏はその著書で南部藩ではかつて”日傭労働”に当たる「公用語」として「日用取」が当てられたことは示していても、その「日用取」が「ひどり」と読まれていたということの証左は示せていないと私は思った。
 そして、もし仮に藩政時代にそう読まれていたとしても、賢治の「雨ニモマケズ」は昭和6年に認(したた)められたものだからその当時にもそれが「公用語」として使われていたのでなければこのW氏の「ヒドリ=日用取」説の根拠は弱いものになるのではなかろうか。

 W氏は続けて
 冷夏にヒデリはなく、その秋に収穫の農作業はなくなる。そこでヒドリの日銭で生活するしかなく、そのヒドリにナミダが流れるという意味なのである。
と論じている。
 たしかにW氏の言うとおり、冷夏のときに不作は避けられず、その秋の収穫作業もなくなりがちだろう。まして、凶作なら尚更だ。
 そのようなとき、農民が糊口を凌ぐために行ったであろうものにたしかに”日傭労働”があったと思う。そこで、当時”日傭労働”に当たる「公用語」にはたして「ひどり」という読み方のものがあったかどうかを探してみようと思い、たまたま大凶冷であった昭和6年の岩手日報をしらみつぶしに調べてみた。新聞にそのような使われ方がなされていれば「ヒドリ」は昭和6年頃においては”日傭労働”を意味する「公用語」であったと見倣せると思ったからである。
 
 その結果、これらのことに関連する岩手日報の記事で見つかったものが次の3つである。
<その1>
【Fig.3 昭和6年8月7日付 岩手日報】

 焼石に水 救済事業の皮肉 工事起こしても失業者は増える 前月より千余名増
市町村からの報告を求め社会課で本県失業者数を本月一日現在を以て調査中であるが九分通り集計の結果現在失業者数は五千六百名の数字を示し前月の三千九百六十名に千七百名からの激増であつて例年夏期に入ると共に農山村労働者は耕作養蚕働き土木工事等の日傭労働(ひやとひらうどう)に就く関係上失業者数漸減の傾向を示す本態をなしてゐるに拘わらず此の度の現象は比較的大規模な失業救済土木工事等の開始されつゝあり当然失業者数減少を予想されてあつたのに対照し異様な衝動を当局に与へて居り社会課では数字の誤謬等に就いて更に精査を加へる事になつたが農山村極度の疲弊困憊が日傭労働者就労の機会を逸し本県の失業者は局部的の救済工事等にては到底救済の実効を収め得ず焼け石に水の感じがあり漸増の傾向を持続しつゝあるは否まれぬ事実らしい
というわけで、この記事では”日傭労働(ひやとひらうどう)”のようにふりがなが付いており”ひどり”ではない。

<その2>
【Fig.4 昭和6年9月11日付 岩手日報】
 
 出稼ぎ労働者の 失業帰郷者多し 前月より三百七十名増加し 県下の失業者数 三千八百名に達す
県社会課調査本月一日現在本県失業者数は三千八百五十九名で前月に比し三百七十一名の増加で失業救済土木事業の進捗に反比例して増加する一方であり職業別に示すと
 ◇……給料生活者四百十一名(男三二八名女八三名)
 ◇……日傭労働者一千九百七十三名(男一、五一四女四五四名)
 ◇……その他一般労働者一千四百七十五名(男一、一八六女二八六名)
 ◇……合計三千八百五十九名(男三、〇二八、女五四二)
救護を必要とする失業者は給料生活者五十四名日傭労働(ひようらうどう)者四百八十名其他労働者四百三十九名計九百七十三名(内七八九名女一八四)前月よりこれ亦五十六名の増加である尚県から内務省社会局に報告するに当たり失業趨勢について左の如く付記報告した(以下略)

というわけで、この記事では”日傭労働(ひようらうどう)”のようにふりがなが付いており”ひどり”ではない。

<その3> 
【Fig.5 昭和6年9月16日付 岩手日報】

 失業救済事業 求人休職状況 県下の八月下旬
失業者救済事業に使用の日傭労働(ひやとひらうどう)者の県下に於ける求人休職紹介状況は八月下旬十日間の状況左の通りであつた(以下略)
というわけで、この記事では”日傭労働(ひやとひらうどう)”のようにふりがなが付いており”ひどり”ではない。
 また、以上の3つのいずれの記事にも”日傭労働”に当たる言葉で「ヒドリ」と読ませるものは出てこない。

 そして結局、”日傭労働”の読みは”ひやとひらうどう”あるいは”ひようらうどう”であり、”ひどり”ではない。

 したがって、
 昭和6年当時、”日傭労働”にあたるとW氏のいう「ヒドリ」は「公用語」でもないし、まして”日傭労働”は「ヒドリ」と読まれてもいなかったし、それに当たるもので”ひどり”と読まれるものもなかった。
と判断する方が妥当ではなかろうか。

 なお、「ヒドリ」は”日傭労働(日用取)”を意味する標準語ではないことはもちろんである。また、南部藩で「日用取」が「ヒドリ」と読まれていたということを示す古文書等はいまだ見つかっていないと思う

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