下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。
宮澤賢治の里より
42 (20) 八方山(その1)
今回は「経埋ムベキ山」の一つ八方山について報告したい。
この山は太田の高村山荘にも近い。もちろん、高村とは彫刻家高村光太郎のことである。光太郎は宮澤賢治との縁で晩年の7年間(1945-1952年)花巻の太田村に疎開し、そこで自給自足の生活をした。そのときの住まいとした粗末な小屋が高村山荘というわけである。ただし、この小屋は現在は二重の套屋で囲われている。
なお、下根子桜の「雨ニモマケズ」の詩碑は高村光太郎の揮毫を用いて昭和11年に建てらている。また、賢治は大正14年光太郎のアトリエを訪れているとのことである。
というわけで、遠くから八方山を訪れる方は、まずは太田と云うところにあるこの高村山荘を目安にするといいと思う。
《1 高村山荘入り口と八方山》(平成20年4月30日撮影)
なお、写真の奥に見える山が八方山である。
次は、高村山荘の近くにある花巻市スポーツキャンプ村に向かい、そこの交差点から長根崎コースの登山口を目指す。
後は、いくつかの
《2 新奥の細道 道標》(平成20年4月30日撮影)
が登山口まで案内してくれる。例えば
《3 登り口まで800m》(平成20年4月30日撮影)
そこからの
《4 八方山の眺め》(平成20年4月30日撮影)
左の肩が八方山である。
やがて、
《5 登り口》(平成20年4月30日撮影)
たどり着いた登山口には車が何台か駐車できるスペースがある。
《6 登山口のヤマザクラ》(平成20年4月30日撮影)
《7 八方山長根崎コース》(平成20年4月30日撮影)
ではいよいよここからは歩きである。
歩き出すと、
《8 ニオイタチツボスミレ》(平成20年4月30日撮影)
《9 ツボスミレ》(平成20年4月30日撮影)
《10 ミツバツチグリ》(平成20年4月30日撮影)
《11 山桜の花》(平成20年4月30日撮影)
《12 ヤマツツジ》(平成20年4月30日撮影)
《13 マキノスミレ》(平成20年4月30日撮影)
《14 〃 》(平成20年4月30日撮影)
《15 クロモジの花》(平成20年4月30日撮影)
《16 そのクローズアップ》(平成20年4月30日撮影)
《17 長根崎山頂上付近》(平成20年4月30日撮影)
ここには結構多くのカタクリの花が咲く。
《18 ツルシキミ》(平成20年4月30日撮影)
《19 その花のクローズアップ》(平成20年4月30日撮影)
《20 ルリタテハ》(平成20年4月30日撮影)
は大分後羽が破れてしまっていたり、
《21 イワウチワ》(平成20年4月30日撮影)
は散っていたり、
《22 ショウジョウバカマ》(平成20年4月30日撮影)
は薹が立っていたり、
《23 タムシバの花》(平成20年4月30日撮影)
も残り少なくて寂しい。
それに引き替え元気なのが
《24 ムラサキヤシオ》(平成20年4月30日撮影)
《25 木々の若葉》(平成20年4月30日撮影)
とりわけ
《26 ブナ若葉》(平成20年4月30日撮影)
の緑が目に滲みる。と思っていたら
《27 シュンラン》(平成20年4月30日撮影)
が未だ咲いていたし、
《28 珍しく未だ初々しいショウジョウバカマの花が・・・》(平成20年4月28日撮影)
咲いていると思ったならば、その向こうには
《29 イワウチワ》(平成20年4月28日撮影)
も結構咲いていた。
また、
《30 キバナイカリソウ》(平成20年4月30日撮影)
《31 ナガハシスミレ》(平成20年4月30日撮影)
《32 スミレサイシン》(平成20年4月30日撮影)
《33 エンレイソウ》(平成20年4月30日撮影)
《34 キクザキイチリンソウ》(平成20年4月30日撮影)
なども咲いていた。
そうこうするうちに
《35 尻平川コースとの合流地点》(平成20年4月30日撮影)
だ。
この付近の登山路には最盛期は過ぎてはいるが
《36 カタクリの花》(平成20年4月30日撮影)
《37 〃 》(平成19年5月8日撮影)
一面に
《38 ミヤマカタバミ》(平成20年4月30日撮影)
《39 〃 》(平成19年5月8日撮影)
が咲き、
《40 ウスバサイシン》(平成19年5月8日撮影)
も見つかる。
そして、殆ど頂上というところに
《41 アケボノミレ》(平成20年4月30日撮影)
と思われる美しい、色の際立ったやや小振りのスミレがいくつか咲いていた。
《42 その花》(平成20年4月30日撮影)
ここから
《43 頂上は間近》(平成20年4月30日撮影)
頂上はブナの木が結構あるにはあるが地面は結構だだっ広い。そしてここのブナの木はまだ葉っぱが殆ど出ていない。下と上ではかくも違う。というわけで、ブナの葉のこの繁り方を『ブナの峰渡り』と呼ぶらしい。
頂上到着。
《44 頂上の祠》(平成20年4月30日撮影)
ところで、賢治の作品に八方山は登場するのだろうか。例えば、
〔々としてひかれるは〕(先駆形)
かうかうとしてかゞやくは
硫黄ヶ岳の尾根の雪
灰白の雲かぶれるは
鳥ヶ森また八方山
また駒頭五間森
焼き枕木をぬすみ来て
水路に橋をかけしものあり
袴腰南晶山の一列は
みな灰雲にあとをくらます
<『新修 宮沢賢治全集 第六巻』(筑摩書房)より>
『村の政客』
水もごろごろ鳴れば
鳥が幾むれも幾むれも
まばゆい東の雲やけむりにうかんで
小松の野はらを過ぎるとき
この人は瑪瑙のやうに
うるんで赤い眼をして
がまのはむばきをはき
胸高く腕を組んで
ちがった熱い桃いろの春を
怨霊のやうにひとりさまやふ
うしろでは鳥ヶ森や
八方山の下からつゞく
一里四方の巨きな丘に
まだ芽を出さない栗の木が
褐色の梢をそろへ
その麓の
月光いろの草地には
立派なはんの一むれが
東方風にすくすくと立つ
このうつくしいのなかで
ふかぶかとうなじを垂れて
ひとはさびしく行き惑ふ
苗代はいま緑金を増し
畔では羊歯の芽もひらき
すぎなも青く冴えれば
あっちでもこっちでも
三本鍬をぴかぴかさせ
乾田を起してゐるときに
ひとはがまのはむばきをはき
うるんで赤いまなこして
その政敵への復讐をかんがへながら
怨霊のやうにそこらをあるく
『會合』
唐獅子いろのずぼんをはいて
どこの親方かと思ったよ
春木を伐りに行くんだな
(中略)
いまどの邊で伐ってるのかな
八方山の北側か
ずゐぶん奥へはいったな
……雪に黠々けぶるのは
三ツ澤山の松のむら……
ぼくの方はまるでだめだ
からだを傷めてしまってさ
今日はソーシへ行くとこだ
例の肥料といもちのことさ
……江釣子森が
氷醋酸の塊りのやうだ……
<『宮澤賢治全集 三』(筑摩書房)より>
などがあるようだ。
《45 祠の左の石塔》(平成19年5月8日撮影)
には”観音堂之跡”と書いてあるから、このだだっ広い所には立派な観音堂があったのだろう。
調べてみると、延暦21年(802年)坂上田村麻呂がエミシ征伐のとき、エミシの勢いが強くて苦戦が続いたため、田村麻呂はもとどりに納めていた十一面観音像に祈願したところたちどころに効験が現れ、征伐に成功した。戦い後の大同2年(807年)感謝のために八方山に観音菩薩を祀った。これが観音堂の始まりのようだ。なお、応永5年にこの観音堂は麓の太田に移され、いまは清水観音(音羽山清水寺)と呼ばれているとのことである。
そこで、
《46 頂上から麓の太田方面を俯瞰》(平成20年4月30日撮影)
した後、今度は尻平川コースを下山してその清水観音まで行ってみたいのだが、続きは次回へ。
続きの
”(20) 八方山(その2)”のTOPへ移る。
前の
”(19) 大森山”のTOPに戻る。
「経埋ムベキ山」32座のリストのある
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”目次”へ移動する。
この山は太田の高村山荘にも近い。もちろん、高村とは彫刻家高村光太郎のことである。光太郎は宮澤賢治との縁で晩年の7年間(1945-1952年)花巻の太田村に疎開し、そこで自給自足の生活をした。そのときの住まいとした粗末な小屋が高村山荘というわけである。ただし、この小屋は現在は二重の套屋で囲われている。
なお、下根子桜の「雨ニモマケズ」の詩碑は高村光太郎の揮毫を用いて昭和11年に建てらている。また、賢治は大正14年光太郎のアトリエを訪れているとのことである。
というわけで、遠くから八方山を訪れる方は、まずは太田と云うところにあるこの高村山荘を目安にするといいと思う。
《1 高村山荘入り口と八方山》(平成20年4月30日撮影)
なお、写真の奥に見える山が八方山である。
次は、高村山荘の近くにある花巻市スポーツキャンプ村に向かい、そこの交差点から長根崎コースの登山口を目指す。
後は、いくつかの
《2 新奥の細道 道標》(平成20年4月30日撮影)
が登山口まで案内してくれる。例えば
《3 登り口まで800m》(平成20年4月30日撮影)
そこからの
《4 八方山の眺め》(平成20年4月30日撮影)
左の肩が八方山である。
やがて、
《5 登り口》(平成20年4月30日撮影)
たどり着いた登山口には車が何台か駐車できるスペースがある。
《6 登山口のヤマザクラ》(平成20年4月30日撮影)
《7 八方山長根崎コース》(平成20年4月30日撮影)
ではいよいよここからは歩きである。
歩き出すと、
《8 ニオイタチツボスミレ》(平成20年4月30日撮影)
《9 ツボスミレ》(平成20年4月30日撮影)
《10 ミツバツチグリ》(平成20年4月30日撮影)
《11 山桜の花》(平成20年4月30日撮影)
《12 ヤマツツジ》(平成20年4月30日撮影)
《13 マキノスミレ》(平成20年4月30日撮影)
《14 〃 》(平成20年4月30日撮影)
《15 クロモジの花》(平成20年4月30日撮影)
《16 そのクローズアップ》(平成20年4月30日撮影)
《17 長根崎山頂上付近》(平成20年4月30日撮影)
ここには結構多くのカタクリの花が咲く。
《18 ツルシキミ》(平成20年4月30日撮影)
《19 その花のクローズアップ》(平成20年4月30日撮影)
《20 ルリタテハ》(平成20年4月30日撮影)
は大分後羽が破れてしまっていたり、
《21 イワウチワ》(平成20年4月30日撮影)
は散っていたり、
《22 ショウジョウバカマ》(平成20年4月30日撮影)
は薹が立っていたり、
《23 タムシバの花》(平成20年4月30日撮影)
も残り少なくて寂しい。
それに引き替え元気なのが
《24 ムラサキヤシオ》(平成20年4月30日撮影)
《25 木々の若葉》(平成20年4月30日撮影)
とりわけ
《26 ブナ若葉》(平成20年4月30日撮影)
の緑が目に滲みる。と思っていたら
《27 シュンラン》(平成20年4月30日撮影)
が未だ咲いていたし、
《28 珍しく未だ初々しいショウジョウバカマの花が・・・》(平成20年4月28日撮影)
咲いていると思ったならば、その向こうには
《29 イワウチワ》(平成20年4月28日撮影)
も結構咲いていた。
また、
《30 キバナイカリソウ》(平成20年4月30日撮影)
《31 ナガハシスミレ》(平成20年4月30日撮影)
《32 スミレサイシン》(平成20年4月30日撮影)
《33 エンレイソウ》(平成20年4月30日撮影)
《34 キクザキイチリンソウ》(平成20年4月30日撮影)
なども咲いていた。
そうこうするうちに
《35 尻平川コースとの合流地点》(平成20年4月30日撮影)
だ。
この付近の登山路には最盛期は過ぎてはいるが
《36 カタクリの花》(平成20年4月30日撮影)
《37 〃 》(平成19年5月8日撮影)
一面に
《38 ミヤマカタバミ》(平成20年4月30日撮影)
《39 〃 》(平成19年5月8日撮影)
が咲き、
《40 ウスバサイシン》(平成19年5月8日撮影)
も見つかる。
そして、殆ど頂上というところに
《41 アケボノミレ》(平成20年4月30日撮影)
と思われる美しい、色の際立ったやや小振りのスミレがいくつか咲いていた。
《42 その花》(平成20年4月30日撮影)
ここから
《43 頂上は間近》(平成20年4月30日撮影)
頂上はブナの木が結構あるにはあるが地面は結構だだっ広い。そしてここのブナの木はまだ葉っぱが殆ど出ていない。下と上ではかくも違う。というわけで、ブナの葉のこの繁り方を『ブナの峰渡り』と呼ぶらしい。
頂上到着。
《44 頂上の祠》(平成20年4月30日撮影)
ところで、賢治の作品に八方山は登場するのだろうか。例えば、
〔々としてひかれるは〕(先駆形)
かうかうとしてかゞやくは
硫黄ヶ岳の尾根の雪
灰白の雲かぶれるは
鳥ヶ森また八方山
また駒頭五間森
焼き枕木をぬすみ来て
水路に橋をかけしものあり
袴腰南晶山の一列は
みな灰雲にあとをくらます
<『新修 宮沢賢治全集 第六巻』(筑摩書房)より>
『村の政客』
水もごろごろ鳴れば
鳥が幾むれも幾むれも
まばゆい東の雲やけむりにうかんで
小松の野はらを過ぎるとき
この人は瑪瑙のやうに
うるんで赤い眼をして
がまのはむばきをはき
胸高く腕を組んで
ちがった熱い桃いろの春を
怨霊のやうにひとりさまやふ
うしろでは鳥ヶ森や
八方山の下からつゞく
一里四方の巨きな丘に
まだ芽を出さない栗の木が
褐色の梢をそろへ
その麓の
月光いろの草地には
立派なはんの一むれが
東方風にすくすくと立つ
このうつくしいのなかで
ふかぶかとうなじを垂れて
ひとはさびしく行き惑ふ
苗代はいま緑金を増し
畔では羊歯の芽もひらき
すぎなも青く冴えれば
あっちでもこっちでも
三本鍬をぴかぴかさせ
乾田を起してゐるときに
ひとはがまのはむばきをはき
うるんで赤いまなこして
その政敵への復讐をかんがへながら
怨霊のやうにそこらをあるく
『會合』
唐獅子いろのずぼんをはいて
どこの親方かと思ったよ
春木を伐りに行くんだな
(中略)
いまどの邊で伐ってるのかな
八方山の北側か
ずゐぶん奥へはいったな
……雪に黠々けぶるのは
三ツ澤山の松のむら……
ぼくの方はまるでだめだ
からだを傷めてしまってさ
今日はソーシへ行くとこだ
例の肥料といもちのことさ
……江釣子森が
氷醋酸の塊りのやうだ……
<『宮澤賢治全集 三』(筑摩書房)より>
などがあるようだ。
《45 祠の左の石塔》(平成19年5月8日撮影)
には”観音堂之跡”と書いてあるから、このだだっ広い所には立派な観音堂があったのだろう。
調べてみると、延暦21年(802年)坂上田村麻呂がエミシ征伐のとき、エミシの勢いが強くて苦戦が続いたため、田村麻呂はもとどりに納めていた十一面観音像に祈願したところたちどころに効験が現れ、征伐に成功した。戦い後の大同2年(807年)感謝のために八方山に観音菩薩を祀った。これが観音堂の始まりのようだ。なお、応永5年にこの観音堂は麓の太田に移され、いまは清水観音(音羽山清水寺)と呼ばれているとのことである。
そこで、
《46 頂上から麓の太田方面を俯瞰》(平成20年4月30日撮影)
した後、今度は尻平川コースを下山してその清水観音まで行ってみたいのだが、続きは次回へ。
続きの
”(20) 八方山(その2)”のTOPへ移る。
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コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )
« 41 (19) 大森山 | 43 (20) 八方... » |
ブログ拝見致しました。 非常に素晴らしい内容でいつも参考にさせていただいております。
実は花巻観光協会では今年度最後の事業として今月中に大空滝と八方山のパンフレッドを製作しておりまして
いろいろと山の写真を掲載したく探しておる所ですが、どうしても数が集まりません。
つきましては、もし可能であれば手持ちのお写真で観光協会の発行するパンフレッドに掲載出来そうな写真があれば一部掲載できないものか?というご相談ですが如何なものでしょうか?
もしお力を貸して頂けそうなのであれば、下記連絡先迄ご連絡して頂ければ幸いです。
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> > 社団法人 花巻観光協会
> > 狩野 友洋(カノ トモヒロ)
> > 〒025-0004
> > 岩手県花巻市葛3-183-1
> > 花巻市交流会館内
> > TEL:0198-29-4522
> > FAX:0198-29-4447
MAIL kano@kanko-hanamaki.ne.jp
> > ------------------------------------------------------