宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

§5. 「宮澤先生を追ひて」より

2011年09月24日 | 賢治と一緒に暮らした男
 では今回からは、『 四次元』の中に千葉恭がシリーズで連載した「宮澤先生を追ひて」を見てみたい。

1.賢治と出会う前までの千葉恭
 まずはその第一回目の4号(昭和25年1・2月合併号)から見てみよう。千葉恭は次のようこに述べている。
 現代社會の別の世界を求めてそこに生きて行くことが私の今の心であり實行であるのです。私が先生と知り合つたのは大正十三年秋、私がまだ十九歳の大人の世界に立ち入る境で、大人の世界に入る試験期といつた境でした。…(中略)…その時期に先生により他人と違つた、むしろそれよりも必要で光ものまで與へらえたのでありました。けれども今迄私は貰つた嬉しさのみで、活用もなく寶の持ちぐされにしてしまつた今の私であり又罪人の様に考へてゐるのです。先生と知り合つた時から先生を知る資料を與へられたのでしたが、火災により全部資料を焼失してしまひました。今さら寶として有難さと重要なことを感じても追ひつかず、只夢の彼方にある塵埃の如く頭に浮かび、そしてそれらをとらへ次第表して行くほかなくなつた私なのです。今の私はまとめると云ふ力も又勇氣もなくなりました。まことに残念で大罪人にも等しいと思ひます。
   …(中略)…
 先生と知り合つた動機を話す前に先づ私の立場を書いて置く必要があるやうです。私は自然に接するよさは子供の時からあつたので(浮動透明な形の)種々の無理を押し切つて農学校を選び卒業しました。そして大自然を相手に精一杯働きつゞける考へでゐたのでしたが、親達は親達の子供を歩ませる方針かただつたのでせう。私はその方針に従つて十九歳の春俸給生活者として出發したのでした。せまい俸給生活の社會に押詰められてその時はそれで満足してゐたのでした。しかもその俸給社會も農学校を卒へた関係から農産物検査所に入つたのでした。勤務地は先生の生まれた花巻町で小さい事務所に三人の職員とまじめに進んだのでした。
 その年もいよいよ秋となりみちのくの山國にも、水田には黄金の波うち、小さい風にもキンキンと音をしてたなびいてゐました。それは大正十三年の秋でした。百姓達は経営経済上田から穫った稲を調整して、商人を相手に現金と交換する時、生産者と商人の取引に正確な格付けをするのが私達の仕事でした。(出荷する米に等級を決定する検査)そろそろ忙しくなりかけてきた十一月十二日、秋としては珍しいほどよく晴れた日でした。

     <『四次元4号』(宮沢賢治友の会、Feb-50)より>
 食管法(食糧管理法)は昭和17年に制定されたということだから、この当時(大正13年頃)はもちろんまだ食管法などというような制度はなかったから、米相場を睨みながら農家は自分の判断で俵米を売っていたことになる。もし判断を誤ると悲劇が起こる。例えば、どうせ秋になれば自分の田圃から米は穫れるのだから、米貨が高い時点で手持ち米を売ってしまえということもあったであろう。ところが秋、その当てにしていた米が凶作で穫れないということになると、なんと農家なのに米を購入しなければならないという悲劇が起こる。よって、自分の田圃から収穫したお米の出来が如何ほどのものであるかは最大の関心事なわけで、千葉恭はその等級付けの仕事をしていたわけである。

2.出会い後の千葉恭と賢治
 そしてこの後に続くのは「米の等級検査のエピソード」であるがそれは以前触れたことなのでここでは割愛する。さらにその後には、翌々日のエピーソードが引き続き次のように語られている。
「先日は失禮致しました私は宮澤と云うものですが、あなたに是非お會ひいたしたいのですが、今農學校の宿直室にをりますからお出でいたゞけませんでせうか」と、電話を切つたのですが、何せ知らぬ他人のところに來いと言はれても何となく行くのがおつくうでしたが、さうかといつて行かねば申譯ないやうな氣がされたし、また會ひたい様にも考へられたので、秋の晴れた月の夜を散歩がてら出かけて見ることにしました。
 中心地から離れた廣い野原の様な處に建つてゐる花巻農學校を目當てにどんどんと走つて行きました。そして小使室を訪ね案内されて宿直室に行つて見ました。すると先生は暗い十燭光の電燈の下にキチンと坐り、何か萬年筆で原稿用紙に一生懸命ペンを走らせてゐました。はじめての客である私をきげんよく室に迎へ入られて挨拶を交しましたが、私は急に先日の失禮が頭の中に浮かんで本當に申譯ないやうな氣がされ、お詫びしたいやうな衝動にかられましたが、先生は何事もなかつたやうな態度で「いやかへつて私の方が失禮致しました」と云はれましたが、それから私は何も云はずにぢつと坐つたまゝでゐました。先生は私があまり固くなつてゐるのに氣づかれ、ぽつぽつと話出されました。そして先日の検査問題にふれられました。
 「實はあのとき私は等級を附けて貰ひましたが、何だかその時は、一生懸命になつて作つたものを臺なしにされた様に思はれたのですが、學校に帰つてからちよくちよく考へて見ましたが、やつぱりあなたが付けた等級に間違ひないことを知り感心して了ひました」
 私は何んと答へたらよいか判らないやうな變な氣持になりました。しばらく經て先生は先に立つて「散歩に行きませう」と促されて立ちあがりました。秋の夜の滿月は寒々と冴えかえつてゐました。先生も私もだまつて歩いて行きました。それから花巻町の中央の處のそばや(やぶそば)に入つて種々御馳走になりそのまゝ別れて宿に帰つて床につきました。床に入つて電燈を消してから先生の態度が何となく氣になつて仕方がありませんでした。そして今夜云はれた言葉が思ひ出されて来るのです。
 …(略)…
 最後に私が考へた結論として、やつぱり稲作其他農事に就ては深く研究してゐる年教師だなと斷定したのでした。其後二、三日位に一囘の電話があり、學校に訪ねたり、家庭に訪ねて行つたりして、農事に関する種々の問題を質問して、私としては私の好きな農事の大先生を見出したやうな氣がされて本當に嬉しかったのでした。

     <『四次元4号』(宮沢賢治友の会、Feb-50)より>
 この後半部分の千葉の言い回などしから、千葉は賢治を「農事の大先生」と尊敬し、巡り会えたことを素直に喜んでいることが判る。そして、2、3日に一回は連絡を取り合い、直接会っては二人で農事問題を熱く語り合ったであろうことが容易に想像できる。

 とはいえ、この「宮澤先生を追ひて」における千葉恭の賢治に対する心情と以前触れた「羅須地人協会時代の賢治」におけるそれとでは微妙な違いがあると私は感じてしまった。この「宮澤先生を追ひて」は昭和25年に書かれたもの、一方の「羅須地人協会時代の賢治」は昭和29年に語られたものであるようだから、もしかするとその時間的な流れの間に千葉恭の賢治に対する心情や評価が少しずつ変化していったのかもしれない。

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