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§29. 下根子桜寄寓期間の一つの解釈

 なぜなのだろうかと思っていたことの一つにその期間の長さの違いがある。もちろんそれは千葉恭が賢治と一緒に暮らした期間についてのである。
1. 期間の長さの違い
 千葉恭自身は『イーハトーヴォ』復刊5号(宮沢賢治の会)において
 賢治は当時菜食について研究しておられ、まことに粗食であつた。私が煮炊きをし約半年生活をともにした。一番困ったのは、毎日々々その日食うだけの米を町に買いにやらされたことだった。
と言っているわけで
   その期間は約半年………①
であると考えられる。
 一方、私としては今までの調査結果から
 千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月23日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間強を2人は下根子桜の別荘で一緒に生活をしていた。
という仮説を立てているし、これは千葉恭の長男E氏夫人の証言もこのことを傍証をしているので、結構いい線を行っているのではなかろうかと秘かに自信を持っている。というわけで私は
   その期間は少なくとも8ヶ月間強………②
と見ている。ただし当然私は、一方は〝約半年〟他方は〝少なくとも8ヶ月間強〟という期間の長さの違いをどう考えればいいのかと悩まざるを得なかった。
2.期間の一つの解釈の仕方
 ところが、千葉恭関係の資料を読み直していたならば次のような部分があったことに気がついた。それは以前紹介した「宮澤先生を追つて(三)」での証言
  開墾した畑に植えたトマトが大きい赤い實になつた時は先生は本當に嬉しかつたのでせう。大きな聲で私を呼んで「どうですこのトマトおいしさうだね」「今日はこのトマトを腹一杯食べませう」と言はれ其晩二人はトマトを腹一杯食べました。しかし私はあまりトマトが好きなかつたのでしたが、先生と一緒に知らず識らずのうちに食べてしまひました。翌日何んとなくお腹の中がへんでした。
に続く
先生が大櫻にをられた頃に私は二、三日泊まっては家に歸り、また家を手傅ってはまた出かけるという風に、頻りとこの羅須地人協會を訪ねたものです。
          <いずれも『四次元7号』(宮沢賢治友の会)より>
という部分の証言である。
 このトマトのエピソードはもちろん千葉恭が賢治と一緒に下根子桜で生活していたときのものであるから、後者の証言はこのときの寄寓の仕方を千葉恭自身が述べていることになり、それは
 千葉恭の下根子桜の宮澤家別荘での寄寓の仕方は、そこに二、三日泊まっては実家に帰り、実家の仕事を手伝ってはまた別荘に戻るということを繰り返すという寄寓の仕方であった。
というものであったということになる。
 とすれば、千葉恭が〝約半年〟と言っている意味は延べ寄寓日数が約180日ほど(=約半年)という意味でのそれであり、一方の〝少なくとも8ヶ月間強〟とは寄寓開始から寄寓解消までの時間的な隔たりが〝少なくとも8ヶ月間強〟あるという意味の寄寓期間だから、これらの二つの一見異なる寄寓期間は矛盾をせず、こう解釈すれば整合性がとれることになる。あわせて、これは一つの解釈の仕方であるがこの千葉恭の証言によってそれほどそれは真実から遠い訳でもなさそうだ。
3.現時点での認識
 このように二つの寄寓期間はそれぞれ解釈可能だから、このような解釈の仕方をすれば①と②の間には何ら矛盾も生じない。よって私は、仮説
 千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月23日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間強を2人は下根子桜の別荘で一緒に生活をしていた。
はこの期間の長さの違いにも耐え得るものなので、自信を失う必要はないと今は認識している。

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