宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

§3. 『イーハトーヴォ』復刊2号より

2011年09月22日 | 賢治と一緒に暮らした男
 ではまずは『イーハトーヴォ』復刊2号(宮沢賢治の会、Jan-55)を捲ってみよう。
 ありました、ありました。この冊子の中には千葉恭が「羅須地人協会時代の賢治」というタイトルで行った講演(昭和29年12月21日の「賢治の会」例会における)の内容が綴られていて、次のようなことなどが記述されていた。
 文学に関しては、私は何も知ることはありませんが、私が賢治と一緒に生活して参りましたのは私自身百姓に生まれ純粋に百姓として一つの道を生きようと思ったからでした。そんな意味で直接賢治の指導を受けたのは或いは私一人であるかも知れません。
 賢治と私との関係は私が十九才のとき、花巻の穀物検査所に就任しこれで生活しようと考えておつた時代で、当時賢治は花巻の農学校の先生をしておられ、年令からすると凡そ十才も違っていたでしょうか。その年は豊作で立派な米が出来、賢治が穀物検査所にこれは何等米だとか、米の食生活に及ぼす関係とかで参ったことがございます。私も学校を出たばかりで、これは何等米だという米の等級づけの理由を訊かれ、肥料成分の如何によるものだ言えば、それはどういう訳だといろいろ質問され、とうとう質問攻めにされついには怒つてそんなことには返答しないと言つてしまつたことがあり、この実習教師は生意気な奴だと思つておりました。
 勿論私は賢治であることは知つておらずただの実習教師であろうぐらいに思つておりました。そのようなことがあつた次の晩に私のところに電話があり、宿直だから学校に遊びに来るようにとの電話でしたが、下宿のおばさんにお聞きして宮沢先生であろうということを知つて出かけて行つたものでした。そんな関係からぼつぼつ賢治と知り会うようになりました。
 実際彼は変わりものでしたし、私も少し変わりものでしたので、むしろ喜んで受け入れてもらい、親しくなつて参りました。それから宿直の度毎に電話があり、出かけて種々話をして参りました。二人の語らいというものは殆ど百姓の問題ばかりでありました。
 そのうちに賢治は何を思つたか知りませんが、学校を辞めて櫻の家に入ることになり自炊生活を始めるようになりました。次第に一人では自炊生活が困難になって来たのでしょう。私のところに『君もこないか』という誘いが参り、それから一緒に自炊生活を始めるようになりました。このことに関しては後程お話しいたすつもりですが、二人での生活は実に惨めなものでありました。
 その後先生から『君はほんとうに農民として生活せよ』と言われ、家に帰って九年間百姓をしましたが体の関係から勤まらず、再び役所勤めをするようになり、今日そのままに同じ仕事をいたしております。
 …(中略)…
 一旦弟子入りしたということになると賢治はほんとうに指導という立場であつた。鍛冶屋の気持ちで指導を受けました。これは自分の考えや気持ちを社会の人々に植え付けていきたい、世の中を良くしていきたいと考えていたからと思われます。そんな関係から自分も徹底的にいじめられた。
 松田甚次郎も大きな声でどやされたものであつた。しかしどやされたけれども、普通の人からのとは別に親しみのあるどやされ方であつた。しかも〝こらつ〟の一かつの声が私からはなれず、その声が社会を見ていく場合常に私を叱咤するようになつて参りました。

          <『イーハトーヴォ復刊2』(昭和30年1月、宮沢賢治の会)より>

 ここで千葉恭が語っている穀物検査所での賢治との出会いとは、佐藤成氏が言うところの大正13年11月12日のことであろう。賢治の質問攻めに千葉恭はかなり辟易したであろうことが彷彿として伝わってくる。
 そして、次のように千葉恭は続けて語っている。
 私は農事関係の指導面から賢治をみた場合、彼は科学的な農民の指導者であつたと感じています。これらのことはさつきの話にもありましたが、一つの例は、賢治が各町村の講演を頼まれたとき私も腰巾着としてお伴をしたことがありますが、彼は自分の知っている範囲のことは徹底的に教えてやろうという態度がうかがわれました。しかしそれは知識程度の低い百姓にとつては架空のことに感じられたようです。あのような先生のやり方では、教わる方では受け入れが出来ていないので、三時間の講演もそれほど意味があると思われなかつた。話が終わつて後に、自分の方からも説明しなければならないようでした。それで一を知る者には二を、二を知る者には三を、また三には四の程度を教えるようにしなければならず、一から十に飛ぶということはそこに空間が出来るのだと感じた。賢治も又そんなことを感じていたようでありました。こんな考えが私の現在の農民指導においても影響しているように思われます。
 当時、百姓たちはむしろただあの人を偉いんだとだけ感じ、どこが偉いかということはわからなかつた。これらは農家経営の経済面について話したときに多くの人々から聞いたことであります。
 …(中略)…
 賢治が何度も繰り返して言つたことは『われわれが言つたことをみんなが偉いと思つてくれても自分自身が偉いと思うまで発表してはならない。われわれが言つたことを決して言つてはならんぞ』ということでありました。
 賢治にもある目的があり、それを完成した暁においてみんなに発表していきたい気持ちがあつたようでした。しかも人にほめられて生きて行く人間であつてはならないと言つておりました。
 …(中略)…
 羅須地人協会の設立の目的というものは、自分に語つたところによると、百姓に稲の目的を言っても医者が病人を診断いて薬を与えると同じでその細部に関してはわからないから、自分達が土地設計をして農民を指導していかなければならない。それには気候・土質・肥料の問題が大切であり、これは農芸化学としても一番面倒で而も最も大切なところであるが、現在の百姓はそんなことは知らないし又知ろうとしない。これを知らしめることが必要なのだ。百姓の喜びは収穫の喜びなのだ、というわけで毎年十一月~翌年二月まで集会をもつた。最初蓄音機屋の一間を借りておつたが一週間して〝いちの川〟というところの土間を借りて勉強しておりました。次の年から忙しくなつて私も応援を頼まれてお手伝いしました。
 賢治は三年間肥料設計をしてやり、その後は結果をみて設計いたしましようと言つておられたが、惜しいかなその結果をその結果を見ずして死なれたわけです。

          <『イーハトーヴォ復刊2』(昭和30年1月、宮沢賢治の会)より>

 上記の事柄から例えば次のようなことなどが言えそうだ。
(1) 千葉恭自身が賢治と一緒に暮らしたと言っているのだから、宮澤賢治が下根子桜でず~っと「自炊独居生活」をしていたわけではないというのは事実であったこと。
(2) 千葉恭にしてみれば下根子桜の寄寓は賢治からの誘いによるものであったこと。それは賢治自身が一人では自炊生活がやっていけそうになかったから誘われたのだろうと千葉恭は忖度していたこと。千葉恭は賢治を不憫に思って寄寓したのではなかろうかということが推測できること。さらには、これだけしばしば賢治は千葉恭と百姓(農業や農民)のこと語り合った仲なのに、花巻農学校を辞める理由を一切明かさなかったこと(そのつれなさが千葉恭をして「賢治は何を思つたか知りませんが」という突き放した表現になっているのではなかろうか)。
(3) 千葉恭にしてみれば、二人での生活は実に惨めなものだったこと。
(4) 千葉恭の言い回しは慎重だが〝徹底的にいじめられた〟という表現や〝松田甚次郎も大きな声でどやされたものであつた〟という表現から、弟子入りしたという立場からか賢治は二人に対して厳しい指導をしたようだということ。
(5) 〝あのような先生のやり方では、教わる方では受け入れが出来ていないので三時間の講演もそれほど意味があると思われなかつた〟と千葉恭が評価していることや農民達が〝ただあの人を偉いんだとだけ感じ、どこがえ偉いかということはわからなかった〟ということを言っていたと証言していることから、賢治の講演はそれほど実効的ではなかったとも考えられること。
(6) これだけのことが賢治と千葉恭との間にありながら、羅須地人協会に集っていた他のメンバーの口から千葉恭に関するエピソードが語られていないのではなかろうかということ。
(7) 賢治と千葉恭との間の関係は結構微妙だったのではなかろうかということ。
などと。

 ただし残念ながらここにもあの「暦日及び期間」に関してははっきりと書かれてはいなかった。

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