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〈一〇七二 県技師の雲に対するステートメント〉

一〇七二  県技師の雲に対するステートメント    一九二七、六、一、
神話乃至は擬人的なる説述は
小官のはなはだ愧づるところではあるが
仮にしばらく上古歌人の立場に於て
黒く淫らな雨雲に云ふ
小官はこの峠の上のうすびかりする浩気から
またここを通る野ばらのかをりあるつめたい風から
また山谷の凄まじくも青い刻鏤から
心塵身劬くひとしくともに濯はうと
今日の出張日程に
辛くも得たる数頃を
しかく貴重に立つのであるが
そもそも黒い雨雲よ
おまへは却って小官に
異常な不安を持ち来し
謂はゞ殆んど古事記に言へる
そら踏む感をなさしめる
その故けだしいかんとならば
過ぎ来し五月二旬の間
淫らなおまへら雨雲族は
西の河谷を覆って去らず
日照ために常位を欠けば
稲苗すべて徒長を来し
あるいは赤い病斑を得た
おほよそかゝる事態に於て
県下今期の稲作は
憂慮なくして観るを得ず
そらを仰いで烏乎せしことや
日日にはなはだ数度であった
然るに昨夜
かの練達の測候長は
断じて晴れの予報を通じ
今朝そら青く気は澄んで
車窓シガーのけむりをながし
峡の二十里 平野の十里
旅程明るく午を越すいまを
何たる譎詐何たる不信
この山頂の眼路遥かなる展望は
怒り身を噛むごとくである
第一おまへがここより東
鶯いろに装ほひて
連亙遠き地塊を覆ひ
はては渺茫視界のきはみ
大洋をさへ犯すこと
第二にはかの層巻雲や
青い虚空に逆って
おまへの北に馳けること
第三 暗い気層の海鼠
五葉の山の上部に於て
あらゆる淫卑なひかりとかたち
その変幻と出没を
おまへがやゝもはゞからぬ
これらを綜合して見るに
あやしくやはらかな雨雲よ
たとへ数箇のなまめく日射しを許すとも
非礼の香気を風に伝へて送るとも
その灰黒の翼と触手
大バリトンの流体もって
全天抛げ来すおまへの意図は
はや暸として被ひ得ぬ
しかればじつに小官は
公私あらゆる立場より
満腔不満の一瞥を
最後にしばしおまへに与へ
すみやかにすみやかに
この山頂を去らうとする
             <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)より>
『春と修羅 第三集』より〟へ戻る。

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