<1↑『違っていた「ヒドリ」の解釈』(平成22年8月4日付け岩手日報投書欄”声”より)>
上記新聞記事は岩手日報投書欄に載っていたもので、その中身は以下のとおり。
◇宮澤賢治の詩の中で特に「雨ニモマケズ」が好きで何度も読み返してきた。
最近、玄侑宗久著「慈悲をめぐる心象スケッチ」を読んで「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」の個所を間違って解釈していたことに気付いた。
「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」の「ヒドリ」について、次の「サムサ」との関連で「ヒデリ」の間違いではないか、という説もあるようだが、賢治がそんな間違いを起こすと思うのは間違いだ。
「ヒドリ」は「日取り」。つまり人が亡くなったときに山伏が当家とお寺を往復して葬儀の日取りを決める行為を指すと思える。ひいては、人が亡くなったあとに山伏が来ると、そのものを意味したのではなかろうか。「日取り」のために山伏がやってくると、家人の死がもはや確実という実感をもち「ナミダヲナガシ」てしまうものなのである。
あるいは葬儀のあとに、やはり山伏が、死者を出した家は火も汚れたからと、かまどの灰をきれいに持ち去る「火取り」のことかもしれないと。
読み終えて流石に私も唸ってしまった。
多少、「ヒドリ」の件に関する玄侑氏あるいはこの投書子の解釈の仕方に対しては反論したいような気もするが、玄侑氏の主張を私は現時点では詳らかには知らないし、一方では「ヒドリ」の件に関しては以前私も大部言及したことなので今さら繰り返すことはせぬが、それにつけても気掛かりなことは、
賢治がそんな間違いを起こすと思うのは間違いだ。
と言い切っていいのだろうかということである。それも、
賢治がそんな間違いを起こすのは間違いだ。
ならまだしも
賢治がそんな間違いを起こすと思うのは間違いだ。
というのである。”思うのが間違いだ”といわれては取り付く島さえないような気がする。
はたして、賢治は間違いを犯さなかったと決め付けたり、あるいは賢治に対して無誤謬性を求めることは正しいことなのだろうか。
そもそも、賢治は少なからず用語の間違いがあると言われているし、実際この「雨ニモマケズ手帳」の中にも明らかな誤り、あるいは誤記と思われるものがある。
『校本 宮沢賢治全集 第十二(上)巻』(筑摩書房)を基に幾つかその例を挙げれば
2p 翼フ→翼は冀の誤記
21p 階子から→階は梯の誤記
28p 心己得通達→己は已の誤記
70p マツマン→マツランの誤記
《2 マツマンと書かれている「雨ニモマケズ手帳69~70p」》
かつて、賢治の親戚の方が
賢治はあまりにも周りから聖人君子化されてしまった。もっと違うところもあるのだがそのようなことは安易には言えない風潮になってしまった。
と嘆かれていたことを目の当たりにして、そうだよな賢治自身もそのような見方をされるのは心外だろうなと思っていた。
賢治も人の子、賢治でさえも間違いを犯すという見方の方が至極妥当、あるいは自然だと思う。ましてそう認識することは賢治を貶めることでは全くないと思うのだが…。
続き
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上記新聞記事は岩手日報投書欄に載っていたもので、その中身は以下のとおり。
◇宮澤賢治の詩の中で特に「雨ニモマケズ」が好きで何度も読み返してきた。
最近、玄侑宗久著「慈悲をめぐる心象スケッチ」を読んで「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」の個所を間違って解釈していたことに気付いた。
「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」の「ヒドリ」について、次の「サムサ」との関連で「ヒデリ」の間違いではないか、という説もあるようだが、賢治がそんな間違いを起こすと思うのは間違いだ。
「ヒドリ」は「日取り」。つまり人が亡くなったときに山伏が当家とお寺を往復して葬儀の日取りを決める行為を指すと思える。ひいては、人が亡くなったあとに山伏が来ると、そのものを意味したのではなかろうか。「日取り」のために山伏がやってくると、家人の死がもはや確実という実感をもち「ナミダヲナガシ」てしまうものなのである。
あるいは葬儀のあとに、やはり山伏が、死者を出した家は火も汚れたからと、かまどの灰をきれいに持ち去る「火取り」のことかもしれないと。
読み終えて流石に私も唸ってしまった。
多少、「ヒドリ」の件に関する玄侑氏あるいはこの投書子の解釈の仕方に対しては反論したいような気もするが、玄侑氏の主張を私は現時点では詳らかには知らないし、一方では「ヒドリ」の件に関しては以前私も大部言及したことなので今さら繰り返すことはせぬが、それにつけても気掛かりなことは、
賢治がそんな間違いを起こすと思うのは間違いだ。
と言い切っていいのだろうかということである。それも、
賢治がそんな間違いを起こすのは間違いだ。
ならまだしも
賢治がそんな間違いを起こすと思うのは間違いだ。
というのである。”思うのが間違いだ”といわれては取り付く島さえないような気がする。
はたして、賢治は間違いを犯さなかったと決め付けたり、あるいは賢治に対して無誤謬性を求めることは正しいことなのだろうか。
そもそも、賢治は少なからず用語の間違いがあると言われているし、実際この「雨ニモマケズ手帳」の中にも明らかな誤り、あるいは誤記と思われるものがある。
『校本 宮沢賢治全集 第十二(上)巻』(筑摩書房)を基に幾つかその例を挙げれば
2p 翼フ→翼は冀の誤記
21p 階子から→階は梯の誤記
28p 心己得通達→己は已の誤記
70p マツマン→マツランの誤記
《2 マツマンと書かれている「雨ニモマケズ手帳69~70p」》
かつて、賢治の親戚の方が
賢治はあまりにも周りから聖人君子化されてしまった。もっと違うところもあるのだがそのようなことは安易には言えない風潮になってしまった。
と嘆かれていたことを目の当たりにして、そうだよな賢治自身もそのような見方をされるのは心外だろうなと思っていた。
賢治も人の子、賢治でさえも間違いを犯すという見方の方が至極妥当、あるいは自然だと思う。ましてそう認識することは賢治を貶めることでは全くないと思うのだが…。
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