さて、宮澤賢治は果たしてどれくらい山に登っているのだろうか。
賢治の日記が残っているわけでもなく確かなところは判らないが、奥田氏が『校本・宮澤賢治全集』第14巻の年譜などを手掛かりにして調べたものが『宮澤賢治の山旅』(奥田博著、東京新聞出版局)に記載されている。
同著で奥田氏は
もっとも登ったといわれるのは岩手山であることは間違いない。残念ながら正確な回数は全く不明である。一〇〇回を超えるという説や、三〇回あるいは一〇回程度ともいわれる。
一方、『宮沢賢治との旅』(宮城一男著、津軽書房)で宮城氏は、岩手山に関して
こうして、盛岡中学二年次の初登山以来、賢治は、すっかりこの山の魅力にとりつかれ、中学・高農の学生時代だけでも、三十数回の登山記録をつくったといわれる。
と述べている。
ということではあるが、『宮沢賢治の山旅』を基に、
赤色文字部分は『宮沢賢治作品選』(黒澤 勉編、信山社)から、
青色文字部分は『今日の賢治先生』(佐藤 司著、永代印刷出版部)から、
緑色文字部分は『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)の年譜より推測を
それぞれ追加して、知れるものだけにはなるのだが”宮澤賢治の登山歴一覧”を作成してみた。
【資料4:宮澤賢治の登山歴一覧】
なお、賢治の山登りについては前掲の『宮沢賢治の山旅』の中で、
賢治の登山時の神憑り的な体力には逸話がある。中学二年次の初登山時の阿部孝氏の証言である。「ふしぎでならなかったのは、あの初登山の際における賢治ののさっそうたる健脚ぶりであった。ふだんは、色の真っ白い、へなへなの坊ちゃんで、体操の時間などは、クラスの一番の劣等生だった彼が、一度山に組みつくと、まるで別人のような勇者であり、英雄であったのである」といわしめた。
と述べられている。
そして、この阿部孝氏自身が『宮沢賢治全集 第一巻 月報10』(筑摩書房)で次のように賢治の健脚ぶりを紹介している。
それにして、もふしぎでならなかつたのは、あの初登山の際における賢治のさつそうたる健脚ぶりであつた。ふだんは、色のなまつ白い、へなへなの坊ちやんで、體操の時間などは、クラス中で一番の劣等者だつた彼が、一度山に組つくと、まるで別人のような勇者であり、英雄であつたのである。三合目邉りでへばつてしまつた私を後にのこして、「おれは先にゆくから、ゆつくりこいよ」と言い捨てたまま、石ころの急坂をましらの如く登つていく彼の雄々しい後姿を、私は恨めしそうに見送っていた。賢治のへなへなな身體の、一體どこからあんなしぶとい力が湧いてくるのか、私には全く謎であった。
続きの
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賢治の日記が残っているわけでもなく確かなところは判らないが、奥田氏が『校本・宮澤賢治全集』第14巻の年譜などを手掛かりにして調べたものが『宮澤賢治の山旅』(奥田博著、東京新聞出版局)に記載されている。
同著で奥田氏は
もっとも登ったといわれるのは岩手山であることは間違いない。残念ながら正確な回数は全く不明である。一〇〇回を超えるという説や、三〇回あるいは一〇回程度ともいわれる。
一方、『宮沢賢治との旅』(宮城一男著、津軽書房)で宮城氏は、岩手山に関して
こうして、盛岡中学二年次の初登山以来、賢治は、すっかりこの山の魅力にとりつかれ、中学・高農の学生時代だけでも、三十数回の登山記録をつくったといわれる。
と述べている。
ということではあるが、『宮沢賢治の山旅』を基に、
赤色文字部分は『宮沢賢治作品選』(黒澤 勉編、信山社)から、
青色文字部分は『今日の賢治先生』(佐藤 司著、永代印刷出版部)から、
緑色文字部分は『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)の年譜より推測を
それぞれ追加して、知れるものだけにはなるのだが”宮澤賢治の登山歴一覧”を作成してみた。
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なお、賢治の山登りについては前掲の『宮沢賢治の山旅』の中で、
賢治の登山時の神憑り的な体力には逸話がある。中学二年次の初登山時の阿部孝氏の証言である。「ふしぎでならなかったのは、あの初登山の際における賢治ののさっそうたる健脚ぶりであった。ふだんは、色の真っ白い、へなへなの坊ちゃんで、体操の時間などは、クラスの一番の劣等生だった彼が、一度山に組みつくと、まるで別人のような勇者であり、英雄であったのである」といわしめた。
と述べられている。
そして、この阿部孝氏自身が『宮沢賢治全集 第一巻 月報10』(筑摩書房)で次のように賢治の健脚ぶりを紹介している。
それにして、もふしぎでならなかつたのは、あの初登山の際における賢治のさつそうたる健脚ぶりであつた。ふだんは、色のなまつ白い、へなへなの坊ちやんで、體操の時間などは、クラス中で一番の劣等者だつた彼が、一度山に組つくと、まるで別人のような勇者であり、英雄であつたのである。三合目邉りでへばつてしまつた私を後にのこして、「おれは先にゆくから、ゆつくりこいよ」と言い捨てたまま、石ころの急坂をましらの如く登つていく彼の雄々しい後姿を、私は恨めしそうに見送っていた。賢治のへなへなな身體の、一體どこからあんなしぶとい力が湧いてくるのか、私には全く謎であった。
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