前回の「神の創造から解体へ」と繋がるものとして、今回は「虚ろになった方向性」の集成バージョンを載せることにします。内容については文自体が長いので前回のコメントを参照してもらえればと思いますが、最後あたりの嫌味な文章は、当時の自分の苛立ちが作品・作者そのものよりむしろ、「とにかくハッピーエンドになれば何でもいいやというプレイヤーたち」に対して向けられていたことをよく表しています(このあたりについては「嫌いな作品:感動的なフレーズによる誤魔化し」や「過程の不在か細かな心理描写か」が参考になるでしょう)。なお、本文の理解を助けるものとしては、オカルトの混入に関する「人為100%で推理して失望した人へ」と「ひぐらしへのオカルト混入は論理的に証明可能であったか」、ひぐらしを「最初からホラー小説だった」などのように評価することについては「今頃賢しらに「物語」や「オカルト」を論じる者に死を」などを参照。
(以下原文)
今までの記事[筆者注:「神の解体と創造」などのこと]を見て「羽入がいるのは十分推理できたんじゃないか?」と少しでも思ったのなら、残念ながら私の主張は伝わっていないと思う。「推理が可能か否か」は推理の「質」に関する話であって、私が今話題にしているのは物語の方向性だからだ。わかりやすく言うと、羽入の存在が推理可能だったかを問題にしているのではなく、神の解体を進めてきたひぐらしが最終的に羽入という神を登場させた「ことによって何を主張したいのか?」を問題にしているのだ。つまり私は、羽入肯定(=神の創造)がひぐらしの方向性に与えた影響と波紋を論じているのである
神が解体されていた頃(すなわち羽入肯定以前)、プレイヤーにとってひぐらしの方向性は非常にわかりやすかったことだろう。というのも、オカルト・宗教・神といったものが結局人によって作り出されたものに過ぎないという説明・考え方はまさに現代の思考様式そのものであり、そこに生活するプレイヤーも、意識的にせよ無意識的にせよ、その影響を受けているからだ。ゆえに、「オヤシロさまの祟り」というオカルト的事件の真相が人為的なものである、という「オカルトの種明かし」的構造は非常に受け入れやすいものだったのである(ドラマ「トリック」が受けた理由の一つもここにあると思われる)。
そういった現代の風潮と「トリック」という人気ドラマのおかげで、神の解体という方向性には大した説明も必要ではなかったのである。しかしその逆、つまり神の創造・肯定が行われるに到り、そうもいかなくなった。一般的な考え方ではないため、神の解体の時以上に説明の説得力と分量が要求されたからである。そして残念なことに、事件の真相と解決策の模索が描写の中心となった皆編において、羽入の存在に関して十分な説明が行われたとは言い難い。ゆえに説得力が無いなどと感じて萎えたり批判したりする人間が増えるのはむしろ当然であった。
神の解体から神の創造へ方向転換した波紋はこれだけに止まらない。繰り返して言うが、神の解体は私たちにとってわかりやすい方向性であるため、「それによって最終的に何を主張したいのか」(わかりやすい例としては無神論、科学万能主義など)という点までは良くも悪くも追求されない。だが神の創造は違う。一般的ではないため、それによって何を主張したいのかという(今まで等閑視されていた)方向性が問題になってくるわけである。オヤシロさまを肯定、すなわち神を創造することでいったいひぐらしは何を言いたいのか、したいのか?そういった疑問が生じてくる。
これについてある人たちは言うだろう。「そもそもホラー小説なのだし、存在にいちいち意味などあるものか」と。なるほど確かにひぐらしが始めから「ホラー小説」と銘打っているか、もしくはそういう方向性を持っていると考えざるをえないような明明白白たる根拠があったというのなら、その意見は正しい。しかし鷹野スクラップ帳に提示された神解体の論理や「お疲れさま会」の「人為vsオカルト」という煽りを考えれば、ひぐらしの方向性が今まで述べてきたような神の解体にあると規定するプレイヤーが多かったのはむしろ当然だろう(その方が自分達にとってわかりやすいからだ)。
それゆえ、プレイヤーに理解してもらうためには、まず羽入に説明が必要になる。世界の構造との関係、奇跡との関連、症候群の問題など少し考えただけでも説明のいりそうな項目は多い。また羽入を出した意味が何なのか、ということも問題となるだろう(「宗教のことはよくわからないのです」という皆殺し編の梨花の発言が作者の考えを代弁しているのなら、宗教に触れる気はない様子)。単にループ世界を成立させるための道具なのか、本編のテーマと何かしら有機的な繋がりを持たせているのか(神を目指すあの御方[笑]との絡みなど)…その描写によって、祭囃し編の真価が問われるだろう。まあ、ハッピーエンドになりゃー何でもいいっつー輩には関係ないんだろうけどね(・∀.)
(以下原文)
今までの記事[筆者注:「神の解体と創造」などのこと]を見て「羽入がいるのは十分推理できたんじゃないか?」と少しでも思ったのなら、残念ながら私の主張は伝わっていないと思う。「推理が可能か否か」は推理の「質」に関する話であって、私が今話題にしているのは物語の方向性だからだ。わかりやすく言うと、羽入の存在が推理可能だったかを問題にしているのではなく、神の解体を進めてきたひぐらしが最終的に羽入という神を登場させた「ことによって何を主張したいのか?」を問題にしているのだ。つまり私は、羽入肯定(=神の創造)がひぐらしの方向性に与えた影響と波紋を論じているのである
神が解体されていた頃(すなわち羽入肯定以前)、プレイヤーにとってひぐらしの方向性は非常にわかりやすかったことだろう。というのも、オカルト・宗教・神といったものが結局人によって作り出されたものに過ぎないという説明・考え方はまさに現代の思考様式そのものであり、そこに生活するプレイヤーも、意識的にせよ無意識的にせよ、その影響を受けているからだ。ゆえに、「オヤシロさまの祟り」というオカルト的事件の真相が人為的なものである、という「オカルトの種明かし」的構造は非常に受け入れやすいものだったのである(ドラマ「トリック」が受けた理由の一つもここにあると思われる)。
そういった現代の風潮と「トリック」という人気ドラマのおかげで、神の解体という方向性には大した説明も必要ではなかったのである。しかしその逆、つまり神の創造・肯定が行われるに到り、そうもいかなくなった。一般的な考え方ではないため、神の解体の時以上に説明の説得力と分量が要求されたからである。そして残念なことに、事件の真相と解決策の模索が描写の中心となった皆編において、羽入の存在に関して十分な説明が行われたとは言い難い。ゆえに説得力が無いなどと感じて萎えたり批判したりする人間が増えるのはむしろ当然であった。
神の解体から神の創造へ方向転換した波紋はこれだけに止まらない。繰り返して言うが、神の解体は私たちにとってわかりやすい方向性であるため、「それによって最終的に何を主張したいのか」(わかりやすい例としては無神論、科学万能主義など)という点までは良くも悪くも追求されない。だが神の創造は違う。一般的ではないため、それによって何を主張したいのかという(今まで等閑視されていた)方向性が問題になってくるわけである。オヤシロさまを肯定、すなわち神を創造することでいったいひぐらしは何を言いたいのか、したいのか?そういった疑問が生じてくる。
これについてある人たちは言うだろう。「そもそもホラー小説なのだし、存在にいちいち意味などあるものか」と。なるほど確かにひぐらしが始めから「ホラー小説」と銘打っているか、もしくはそういう方向性を持っていると考えざるをえないような明明白白たる根拠があったというのなら、その意見は正しい。しかし鷹野スクラップ帳に提示された神解体の論理や「お疲れさま会」の「人為vsオカルト」という煽りを考えれば、ひぐらしの方向性が今まで述べてきたような神の解体にあると規定するプレイヤーが多かったのはむしろ当然だろう(その方が自分達にとってわかりやすいからだ)。
それゆえ、プレイヤーに理解してもらうためには、まず羽入に説明が必要になる。世界の構造との関係、奇跡との関連、症候群の問題など少し考えただけでも説明のいりそうな項目は多い。また羽入を出した意味が何なのか、ということも問題となるだろう(「宗教のことはよくわからないのです」という皆殺し編の梨花の発言が作者の考えを代弁しているのなら、宗教に触れる気はない様子)。単にループ世界を成立させるための道具なのか、本編のテーマと何かしら有機的な繋がりを持たせているのか(神を目指すあの御方[笑]との絡みなど)…その描写によって、祭囃し編の真価が問われるだろう。まあ、ハッピーエンドになりゃー何でもいいっつー輩には関係ないんだろうけどね(・∀.)
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