常識といった一般的な枠組みの否定について

2007-03-06 18:22:01 | 抽象的話題
常識といった一般的な枠組み(ここでは仮に「枠組み」と記す)を否定する際、その快楽に溺れて真逆の方が正しいと極端な考えに走ってしまうことがある。しかし、そうした過程を経て生まれた考えは、しばしば正しくないだけでなく、かえって「枠組み」を再認識させ、強固にしさえするものだ(※)。その理由は、「枠組み」がそれなりの合理性をもっている場合が多いからである(ただし、それがどれほど一般性を持つのかは大きく異なる。迷信なども一種の「合理」となることには注意を要する)。また、集団の規律や慣習に従うこと自体が一種の快楽(精神の安定)を生み出すことも多い。ゆえに、「枠組み」の逆を主張してもそれの持つ合理性や生理的嫌悪感などに基づいて否定されるわけだが、その過程で自明だったため等閑視されていた「枠組み」の合理性が認識されることになり、「枠組み」の正当性をかえって意識付ける結果となってしまう。このようにして、真逆の肯定はかえって「枠組み」を強固にするのだが、ここで問題なのは、「枠組み」から得る快楽原則に基づいた反作用であるため、「枠組み」の相対性、脆さ、あるいはマイナスの側面が(言葉尻ではともかく、内面的には)ほとんど省みられないことにある。よって、「枠組み」の真逆の肯定は(その安易な否定も含めて)、「枠組み」を否定したり相対化するどころか、それが否定されたり相対化される契機を奪いかねない行為だと言えるのである。


それゆえ、単に否定することで鬱憤を晴らしたいのなら話は別だが、「枠組み」を真剣に考えようと思うなら、その成り立ち、つまりはその歴史性や精神性から考えていかなければならない(その意味で、最も唾棄すべきは否定主義者の否定である)。疑問の始まりが「枠組み」の外側(外国など)から生まれることも多いだろうが、それにしても最終的には外側からではなく内側に分け入って分析していくことが必要なのである(※2)。



やや強烈な内容だが、「精神の境界線~サディズムへの反応から~」はその一例。

※2
喩えてみれば、「枠組み」は城のようなものだ。外側から攻めるのは難しいし、また仮に攻めたとしても(その程度はまちまちだが)強固な守りに阻まれる。よって、内側から切り崩していく方が得策なのである。もっとも、西欧の近代文化や思考様式が他の諸地域に影響を及ぼしたように、「枠組み」が外来の「枠組み」に侵食されたり取って代わられるという事態もありうるのだが。
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