日本人の大半が「無宗教」であることに関しては、すぐ多神教と宗教的共存の話が取りざたされる。しかし、インドといった反証がすぐに提示できることはすでに述べた通りである。ところでそれに連動して、日本人はキリスト教の精神性を理解せずに受け入れたという見解が出される(→だから一神教的要素はない)ことも多いが、その時によく思うのがそもそも「異端」とは何かという話である。もちろん、イエス=キリストって誰ですか?というような「キリスト教」はちょっとキリスト教とは言い難いとか、そのカテゴリーが無限に広げられるわけではないのは理解出来る。しかし世界を見渡してみた時に、韓国のシャーマニズム的キリスト教もそうだが実に多様であって、どうもその辺を踏まえて議論がされているように見えないのである。だから、そこには島国根性というか西洋キリスト教と相いれない我々というある種のオリエンタリズムが感じられてどうも自己認識の確認ツール化されているように思われる(というか、はっきり言えば社会システムや法令といったものが人々の認識や信仰にどのような影響を与えたのか、という宗教社会学的な視点があまりに希薄であるように思われる)。
【原文】
「マリア観音」を引き合いに出し、日本人が改宗して「キリシタン」となったことについてそれはキリスト教を理解したわけではない≒「異端」的なるものだと様々な意図でそう書く。
日本人が一神教的精神を理解し得ない説明としては使える、のかもしれない(まあこれについても当時の一向宗とかどうなんですかね~と思うが。それに明治以降の天皇を中心としたナショナリズムというか統合は、天皇という特異点が存在するという意味で、一神教的ではないのだろうか)。ただ、繰り返しになるがそれは日本人に対してキリスト教が広がらなかった説明には全くならない、と書いた。というのも、一神教的なものであれそのように改変して受容できることを示しているからだ。というわけで、多神教の地にはキリスト教広がりませんという説が噴飯モノであるのと同じように、上記の説明もおかしいってことやね。島国だからって特殊性ばかり考えず他の地域と比較対象しましょう。たとえば、「無宗教」を考える場合に「アメリカ的物質至上主義」。もっともらしく聞こえるが、じゃあなぜ肝心の「アメリカ」は日本みたいになっていないの?ていう疑問が出てくる。「バイブルベルトのような地域性」、神道の「無宗教」化etc...偶像崇拝、習合的に捉えており、ついぞ理解しなかった。という意見はある。
・マリア観音て偶像崇拝じゃねーか?キリスト教って偶像崇拝ダメなんじゃね?やっぱり日本のは特殊では?
ゲルマン人布教。文字が読めない・多神教。聖像を活用した。ではこれは異端か。あと、神じゃなけりゃ像を拝んでも偶像崇拝にはあたらんのだと。この定義でいくなら、それ自体は問題ないわな。
・とは言ってもマリア観音なんて日本にしかねーよ!
ごもっとも。一国(限られた地域)にしか適用できない=特殊。うーん、ではイギリス国王を宗教界のトップとするアングリカンチャーチはキリスト教のカテゴリーには入らないのかな?
・いやそもそも、「普遍」を意味するカトリックにしてからが、怪しい。「ローマ教皇の首位権」なるものの根拠は自明ではない。コンスタンティノープル教会との相互破門。ギリシア正教。またカトリック教会・教皇を否定するプロテスタントの出現。
・現世利益を強調する現代韓国のキリスト教
英語をEnglishではなくその多様性を認めてEnglishesと呼ぶべきという意見に通ずるものがある。たとえばイスラームについてもサウジ、エジプト、イラン、トルコでは違う。こないだUに紹介されて会ったサウジのヒジャーズ地方出身のアーリフ君と話したところでは、サウジの中でも大きな違いがあるとのこと(彼との話はいずれ書く予定)。多くの人がくる。
すべてを認めるべきと言いたいのではない。「マリア観音」といったような地域性は様々な地域において見られるわけで、それをもって日本の特殊性だとは言えないし、ましてやそれを日本の「無宗教」と直結させるような短絡的思考・議論は避けるべきである。
一神教を理解しなかったから広がらなかったは乱暴な議論ではないか。
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