愛少女ポリアンナ物語について

2006-03-02 02:45:56 | レビュー系
『少女パレアナ』と『パレアナの青春』をアニメ化したのが、この「愛少女ポリアンナ物語」である。全部で51話からなるが、6話まで見た感想を書いておきたい。


(原作との違い)
チップマックといういつもポリアンナと一緒にいるリスが登場する。また原作では、最初ポリアンナがパレー叔母さんのところへ来るシーンから始まるが、こちらでは父親との生活が4話まで描かれる。そしてこの中で、ポリアンナはしばしば深い悲しみにくれたり不満をこぼしたりというシーンが見られる。

さて、これは何を意味するのだろうか?思うに、ポリアンナの「ゲーム」がしらじらしくなり過ぎないように、との狙いではないだろうか?原作ではいきなりパレアナが「ゲーム」をするシーンが描かれるため、パレアナの陽の部分に注目が行く構造になっている(父親の死で「ゲーム」ができなかったというのは回想としてしか語られない)。だが、それがあまりに強調されることによりポリアンナが「能天気な」(まさにpollyannaという単語そのままに!)子として見られるのを避けようとしたのだと推測される。

これが放送されたのは1988年だが、すでにpollyannaの刊行から70年以上の時が経っており、様々な批判が出されていた。この一つの結実として、それを批判的に描いたような作品も出版されている(題名を失念してしまった。pollyannaの批判については、『アメリカの少女たち-少女小説を読む-』所収の「ポリアンナの秘密」に詳しい)。そう考えると、批判・出版状況および今の視聴者が見た感覚を考慮して、チップマックとポリアンナの悲しみを描くことにより「ゲーム」の性格を(ポリアンナの「明るさ」といった具合に)ぼかそうとしたのではないかと推測される。また、そういう雰囲気的な部分だけでなく、チップマックがポリアンナの家族という役割を持っていることも見逃せない。それは彼女の明るさを支え、かつ人に受け入れてもらうための「ツール」という側面を持つ「ゲーム」の必要性を相対的に弱めているからである。


(網戸の話)
原作ではよくわからなかったが、平凡社ライブラリーの『ウィトゲンシュタイン』によると、アメリカの家では網戸がはめ込まれているのが一般的らしい(144p)。そうすると、屋根裏というだけでなく、「網戸がない」という部分も「生活するための部屋ではない」、すなわちパレー叔母さんのポリアンナに対する扱いがいかにひどいものか、ということを強く印象づけるための設定なのかもしれない。


(雰囲気の話)
先に書いた「赤毛のアン」(1979)から9年の歳月を経ているが、それだけに全体としてポップになっている印象がある。それは特に、OPテーマの調子の違いによく表れているように思う。まあ原作からして(アンとポリアンナの性格など)全く違う性質の作品だから、単純に比較できるものでもないけど。

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