88点(100点満点)
2014年7月19日 新宿シネマカリテで鑑賞。
失われものへの哀惜の念を、感性の赴くままに画にして行った記録のような映画。
ストーリーなんかめちゃめちゃすぎて、ストーリーが面白かったか?とか感動したか?と聞かれたらそうではないと答えざるを得ない。
でも「泣ける映画」なんて宣伝文句の映画よりはるかに深く心に突き刺さる映像詩。以下は評というよりほぼ単なる感想であります。
実はホドロフスキー映画初鑑賞。美術館に行って現代アートの特集展示を一巡りしてきたような印象を受ける映画。そして映画の在り方について色々と気づかされる映画だった。
特に強く感じたのが、映像を描くこととストーリーを語ることの違いであった。
本作では映像のほとんどがパンフォーカス(画面全体にピントが合っているような映像)で撮られていて、最近の「映像がかっこいい」とか「映像が美しい」とされる映画とは異なる印象をうける。そうした映像がかっこいいとか美しいとされる映画は画面内の特定のあるモノや人にピントを合わせて、それ以外の部分をぼやけさせるナローフォーカスの映像である場合が多い。特に一眼ムービーが流行りだした自主映画で顕著である。
そうした絵はかっこいいし印象に残るだけでなく、ストーリーテリングを効果的にする。観客の視線は当然スクリーン内のフォーカスのあった1点に向けられるので、映画作家は視線誘導による観客のエモーションコントロールがやりやすい。だからストーリー重視の映画で被写界深度の浅いレンズで撮影することは理にかなっているといえる。
少し前まで、低予算の日本の商業映画や日本のドラマにありがちなパンフォーカス気味の画が好きではなかった。ただ撮ってるだけで映像になんら魅力がない。映像作家の作為を何も感じない画、どっかそこらで撮ったような映像がつまんないと思った。だったらレンズの力でもなんでも使って印象的な画を作ればいいと思ったし、実際レンズで世界を作る是枝裕和監督みたいな人もいる。
しかし、最近になってなんか違うぞとも思い出した。ボケ感のある映像で綴られる映画を見ていると、映画というより写真集を見ているような気がする。
そんな気持ちの時に見たホドロフスキーの「リアリティのダンス」は映画の作り方についての新鮮な衝撃があった。
この映画の映像は基本的にのっぺりとしたパンフォーカスの画である。
それはカメラに映り込む全てのものを観客に提示したいからと思われる。
へんな格好の人の集団、所狭しと置かれたオブジェのようなものなどなど、全てのカットで監督はそこに映り込む全てのものを作り込んでいる。
レンズの力や、後工程でのデジタル加工の力で美しい映像にしようなどという発想は全く持っていないのである。
そうだ。そうじゃないか。
被写界深度の浅いレンズ、ボケ感のある映像、ナローフォーカスって画面の大半を捨てているんじゃないか。
大きいスクリーンの中のある一点しか見せないって、「映像重視」の姿勢と相反するのではないか?
映画はストーリーを語るだけのものにあらず。もちろんストーリーも語るけど、何よりもまず映像だ。映像であるべきだった。
そう思ってホドロフスキーの映像詩に軽いショックを受けながら見ていた。
ところで映画を撮ることを英語でShootingという。ライフルのシュートと同じ語だ。撮影をある一点を狙って撮ることと考えれば画面内の特定の一点を狙って撮影することをshootingというのはよくわかる(ある1点という意味だけでなく、ある瞬間を狙うという意味もあるかもしれないが、それは置いといて)。
特定のモノやヒトにフォーカスをあてて観客の注意をひきつけるような映画の撮り方を僕は「写真的感性」と言おうと思う。そして現代の映画作家(特にアメリカや日本)の多くは写真的感性で映画を撮っている。
でもホドロフスキーの映画の撮り方にshootingは似合わない。僕は彼の映画を「絵画的感性」と呼びたい。
画家ってのはキャンバスの隅々までくまなく筆を走らせる。映像に映りこむものすべてに手をかけるホドロフスキーはshootingではなく、全体を作り上げている。generatingとでも言った方が似合っている。撮影は出来上がったものを記録にのこす最終行程にすぎない。
でも美術や小道具や衣装やにこだわることだけが「絵画的感性」ではないだろう。ようするに画面内のある一点ではなく、スクリーン全体を使って画を見せようとする映画作家たちを広い意味で絵画的感性の人と呼びたい。そしてそういう作り方をする人は少なく感じる。
アンゲロプロス、ウェス・アンダーソンはそうだろうけど、イーストウッドやウディ・アレンは絶対違う。
日本では、アニメ作家をのぞけば、黒澤明とか鈴木清順とか古い人しか思いつかない。
写真的と絵画的って自分が勝手に思い付きでつけた分類だから、適切な分け方ではないと思う。キューブリックの画は明らかに絵画でなく写真だけどもフレーム全体で語る人だ。小津もそうだ。
ある特定のものだけを写す映画作家ではなく、できるだけフレーム全体で語れる作家になりたい。
手間も人手も金もかかるから、そんな簡単なことではないだろうけど。
-------
登場人物すべてに対する溢れるような愛がまたよいのですが中でも母ちゃん最高
一人だけミュージカル。奇跡のお小水で伝染病完治。愛って醜い部分もふくめてすべてを受け止めることなのかと思ったよ。
「リアリティのダンス」
監督:アレハンドロ・ホドロフスキー
出演:ブロンティス・ホドロフスキー、パメラ・フローレス、イェレミアス・ハースコヴィッツ
********
自主映画制作団体 ALIQOUI FILM
最新作「チクタクレス」
小坂本町一丁目映画祭Vol.12 入選 (2014/5/4 愛知県刈谷市 刈谷総合文化センター)
上映
富山短編映画祭 招待上映 (2014/11/3 富山市フォルツァ総曲輪)
KINEMICAL VIRTUES 招待上映 (2014/6/23 大阪市難波ROCKETS)
アプラたかいし映画祭 招待上映 (2014/3)
商店街映画祭ALWAYS松本の夕日 招待上映 (2014/1)
MATSUMOTO INDEPENDENT MOVIE PARTY (2013/12)
日本芸術センター映像グランプリ ノミネート(2013/11)
「チクタクレス」予告編
2014年7月19日 新宿シネマカリテで鑑賞。
失われものへの哀惜の念を、感性の赴くままに画にして行った記録のような映画。
ストーリーなんかめちゃめちゃすぎて、ストーリーが面白かったか?とか感動したか?と聞かれたらそうではないと答えざるを得ない。
でも「泣ける映画」なんて宣伝文句の映画よりはるかに深く心に突き刺さる映像詩。以下は評というよりほぼ単なる感想であります。
実はホドロフスキー映画初鑑賞。美術館に行って現代アートの特集展示を一巡りしてきたような印象を受ける映画。そして映画の在り方について色々と気づかされる映画だった。
特に強く感じたのが、映像を描くこととストーリーを語ることの違いであった。
本作では映像のほとんどがパンフォーカス(画面全体にピントが合っているような映像)で撮られていて、最近の「映像がかっこいい」とか「映像が美しい」とされる映画とは異なる印象をうける。そうした映像がかっこいいとか美しいとされる映画は画面内の特定のあるモノや人にピントを合わせて、それ以外の部分をぼやけさせるナローフォーカスの映像である場合が多い。特に一眼ムービーが流行りだした自主映画で顕著である。
そうした絵はかっこいいし印象に残るだけでなく、ストーリーテリングを効果的にする。観客の視線は当然スクリーン内のフォーカスのあった1点に向けられるので、映画作家は視線誘導による観客のエモーションコントロールがやりやすい。だからストーリー重視の映画で被写界深度の浅いレンズで撮影することは理にかなっているといえる。
少し前まで、低予算の日本の商業映画や日本のドラマにありがちなパンフォーカス気味の画が好きではなかった。ただ撮ってるだけで映像になんら魅力がない。映像作家の作為を何も感じない画、どっかそこらで撮ったような映像がつまんないと思った。だったらレンズの力でもなんでも使って印象的な画を作ればいいと思ったし、実際レンズで世界を作る是枝裕和監督みたいな人もいる。
しかし、最近になってなんか違うぞとも思い出した。ボケ感のある映像で綴られる映画を見ていると、映画というより写真集を見ているような気がする。
そんな気持ちの時に見たホドロフスキーの「リアリティのダンス」は映画の作り方についての新鮮な衝撃があった。
この映画の映像は基本的にのっぺりとしたパンフォーカスの画である。
それはカメラに映り込む全てのものを観客に提示したいからと思われる。
へんな格好の人の集団、所狭しと置かれたオブジェのようなものなどなど、全てのカットで監督はそこに映り込む全てのものを作り込んでいる。
レンズの力や、後工程でのデジタル加工の力で美しい映像にしようなどという発想は全く持っていないのである。
そうだ。そうじゃないか。
被写界深度の浅いレンズ、ボケ感のある映像、ナローフォーカスって画面の大半を捨てているんじゃないか。
大きいスクリーンの中のある一点しか見せないって、「映像重視」の姿勢と相反するのではないか?
映画はストーリーを語るだけのものにあらず。もちろんストーリーも語るけど、何よりもまず映像だ。映像であるべきだった。
そう思ってホドロフスキーの映像詩に軽いショックを受けながら見ていた。
ところで映画を撮ることを英語でShootingという。ライフルのシュートと同じ語だ。撮影をある一点を狙って撮ることと考えれば画面内の特定の一点を狙って撮影することをshootingというのはよくわかる(ある1点という意味だけでなく、ある瞬間を狙うという意味もあるかもしれないが、それは置いといて)。
特定のモノやヒトにフォーカスをあてて観客の注意をひきつけるような映画の撮り方を僕は「写真的感性」と言おうと思う。そして現代の映画作家(特にアメリカや日本)の多くは写真的感性で映画を撮っている。
でもホドロフスキーの映画の撮り方にshootingは似合わない。僕は彼の映画を「絵画的感性」と呼びたい。
画家ってのはキャンバスの隅々までくまなく筆を走らせる。映像に映りこむものすべてに手をかけるホドロフスキーはshootingではなく、全体を作り上げている。generatingとでも言った方が似合っている。撮影は出来上がったものを記録にのこす最終行程にすぎない。
でも美術や小道具や衣装やにこだわることだけが「絵画的感性」ではないだろう。ようするに画面内のある一点ではなく、スクリーン全体を使って画を見せようとする映画作家たちを広い意味で絵画的感性の人と呼びたい。そしてそういう作り方をする人は少なく感じる。
アンゲロプロス、ウェス・アンダーソンはそうだろうけど、イーストウッドやウディ・アレンは絶対違う。
日本では、アニメ作家をのぞけば、黒澤明とか鈴木清順とか古い人しか思いつかない。
写真的と絵画的って自分が勝手に思い付きでつけた分類だから、適切な分け方ではないと思う。キューブリックの画は明らかに絵画でなく写真だけどもフレーム全体で語る人だ。小津もそうだ。
ある特定のものだけを写す映画作家ではなく、できるだけフレーム全体で語れる作家になりたい。
手間も人手も金もかかるから、そんな簡単なことではないだろうけど。
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登場人物すべてに対する溢れるような愛がまたよいのですが中でも母ちゃん最高
一人だけミュージカル。奇跡のお小水で伝染病完治。愛って醜い部分もふくめてすべてを受け止めることなのかと思ったよ。
「リアリティのダンス」
監督:アレハンドロ・ホドロフスキー
出演:ブロンティス・ホドロフスキー、パメラ・フローレス、イェレミアス・ハースコヴィッツ
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自主映画制作団体 ALIQOUI FILM
最新作「チクタクレス」
小坂本町一丁目映画祭Vol.12 入選 (2014/5/4 愛知県刈谷市 刈谷総合文化センター)
上映
富山短編映画祭 招待上映 (2014/11/3 富山市フォルツァ総曲輪)
KINEMICAL VIRTUES 招待上映 (2014/6/23 大阪市難波ROCKETS)
アプラたかいし映画祭 招待上映 (2014/3)
商店街映画祭ALWAYS松本の夕日 招待上映 (2014/1)
MATSUMOTO INDEPENDENT MOVIE PARTY (2013/12)
日本芸術センター映像グランプリ ノミネート(2013/11)
「チクタクレス」予告編