90点(100点満点)
2014年4月19日鑑賞
ネタバレ注意
年に1~2回出会っちゃう忘れられない衝撃作。激流のような感情だったり、心にぽっかりと深い穴があいたようだったり、そこには物語とか芝居とかを超えた2人の女がいた。
3時間という長尺を費やして愛の芽生えから喪失までをじっくり描いたほとばしる激情体験映画。ああ、やっぱり映画って凄い。
物語は同性愛女性二人の数年間の恋愛を追うもの。
高校生のアデルが男の子と付き合って求められるままセックスもするけど満たされずに結局別れて、ある時クラスメートの女子に冗談半分でキスされたら本気になっちゃって、でも相手には当然拒絶され、そんな時、画家を目指し性に自由な考えをもつ青い髪の女エマと出会う。
そんな感じで、同性愛に目覚める過程が丹念に積み重ねられていくので、エマを愛するアデルの気持ちが判る気がする。
しかしこの映画の本当の凄さは、ストーリーとかシナリオとかではない。アデルとエマ、二人の感情から息づかいにいたるまで、隅々まで満たされた生命感、それに尽きると思う。
なんでも原作のコミックではクレモンティーヌという名前のヒロインを、映画では演じる女優の名と同じアデルに変えたのだという。
この点からも監督の狙いは見事な芝居なんかではなく、アデルその人のカメラの前のリアルだったと想像できる。
愛の悦びも、絶望も、すべてアデルその人の生の感情のように見えた。
実際に監督はアデルとエマにとにかくよく食べさせる。そしてR18指定も恐れずに二人にリアルにセックスさせる。
この二つの行為は間違いなく芝居ではなく生理反応に近い。
また、アデルが街頭のデモに参加してシュプレヒコールをあげる場面も実際にデモに参加して撮っている。
演技に求められるのはリアルでなくリアリティ(リアルっぽさ)であることは確かだが、所々にリアルを差し挟むことでアデルとエマのリアリティはより強く印象づけられる。
2人の女優の渾身の演技は、演技の域を超えてアデルとエマという人物表現となっている。
カンヌ審査員長のスピルバーグがパルムドールを監督だけでなく2人の女優にも与えたその気持ち、判る気がする。
カメラは常に2人に寄り添う。あれだけ近くにいても2人は自分たちの感情をむき出しにする。スクリーンが膨らむような激情。
だからラストカット。一気に引くカメラ。カメラからどんどん遠ざかって行くアデル。アデルの愛は終り、そして映画も終わる。3時間私たちを激情の渦に叩き込んだアデルは去って行く。私を突き放して遠くに行く。こんなにつらく悲しい映画との別れ。最初から最後まで「映画」の力みなぎる傑作であった。
もう一度観よう。終盤のアデルの空っぽな心にもう一度手を延ばしてみたい。そんな気になった。
---
追記
しかし、よく食べる映画だった。泣きながらもお菓子を食べたり、どの場面でも何か食べているようで、それも面白かった。
追記2
笑った台詞。うろ覚えですが
「僕は役者だよ。アメリカで映画に出ているんだ。僕はアラビア語が喋れるから重宝されるんだ。ヒゲ面のテロリスト役さ。アラー・アクバルって叫んで死ぬんだよ。ははは」
こういうことをしれッと言うユーモア。
追記3
にしても、この映画で描かれるフランスの束縛なきユートピア感。
ゲイもレズも普通にいて、色んな価値観、文化の人たちが、ごちゃっといて、対立偏見差別はあるけれど、基本的に自分に正直に生きている人たち。しかも性の解放区。高校生たちはテレビやゲームじゃなく哲学と芸術を学び休みの日はデモに参加して終わったらセックスみたいな
フランスのある一部を抜き取ってるだけなのだろうが、それにしても進んでいる。
追記4
アデル役のアデル・エグザルコプロスちゃん。フランスの女の子をこんなに好きになったのは「アメリ」のオドレイ・トトゥ以来か。(マリオン・コティヤールさんはなんか別格感あるので別カウント)
追記5
原作のコミック
日本語版出ないかな。(映画の方が面白いハズと確信しているが)
********
自主映画制作団体 ALIQOUI FILM
最新作「チクタクレス」
小坂本町一丁目映画祭Vol.12 入選
日本芸術センター映像グランプリ ノミネート
2014年4月19日鑑賞
ネタバレ注意
年に1~2回出会っちゃう忘れられない衝撃作。激流のような感情だったり、心にぽっかりと深い穴があいたようだったり、そこには物語とか芝居とかを超えた2人の女がいた。
3時間という長尺を費やして愛の芽生えから喪失までをじっくり描いたほとばしる激情体験映画。ああ、やっぱり映画って凄い。
物語は同性愛女性二人の数年間の恋愛を追うもの。
高校生のアデルが男の子と付き合って求められるままセックスもするけど満たされずに結局別れて、ある時クラスメートの女子に冗談半分でキスされたら本気になっちゃって、でも相手には当然拒絶され、そんな時、画家を目指し性に自由な考えをもつ青い髪の女エマと出会う。
そんな感じで、同性愛に目覚める過程が丹念に積み重ねられていくので、エマを愛するアデルの気持ちが判る気がする。
しかしこの映画の本当の凄さは、ストーリーとかシナリオとかではない。アデルとエマ、二人の感情から息づかいにいたるまで、隅々まで満たされた生命感、それに尽きると思う。
なんでも原作のコミックではクレモンティーヌという名前のヒロインを、映画では演じる女優の名と同じアデルに変えたのだという。
この点からも監督の狙いは見事な芝居なんかではなく、アデルその人のカメラの前のリアルだったと想像できる。
愛の悦びも、絶望も、すべてアデルその人の生の感情のように見えた。
実際に監督はアデルとエマにとにかくよく食べさせる。そしてR18指定も恐れずに二人にリアルにセックスさせる。
この二つの行為は間違いなく芝居ではなく生理反応に近い。
また、アデルが街頭のデモに参加してシュプレヒコールをあげる場面も実際にデモに参加して撮っている。
演技に求められるのはリアルでなくリアリティ(リアルっぽさ)であることは確かだが、所々にリアルを差し挟むことでアデルとエマのリアリティはより強く印象づけられる。
2人の女優の渾身の演技は、演技の域を超えてアデルとエマという人物表現となっている。
カンヌ審査員長のスピルバーグがパルムドールを監督だけでなく2人の女優にも与えたその気持ち、判る気がする。
カメラは常に2人に寄り添う。あれだけ近くにいても2人は自分たちの感情をむき出しにする。スクリーンが膨らむような激情。
だからラストカット。一気に引くカメラ。カメラからどんどん遠ざかって行くアデル。アデルの愛は終り、そして映画も終わる。3時間私たちを激情の渦に叩き込んだアデルは去って行く。私を突き放して遠くに行く。こんなにつらく悲しい映画との別れ。最初から最後まで「映画」の力みなぎる傑作であった。
もう一度観よう。終盤のアデルの空っぽな心にもう一度手を延ばしてみたい。そんな気になった。
---
追記
しかし、よく食べる映画だった。泣きながらもお菓子を食べたり、どの場面でも何か食べているようで、それも面白かった。
追記2
笑った台詞。うろ覚えですが
「僕は役者だよ。アメリカで映画に出ているんだ。僕はアラビア語が喋れるから重宝されるんだ。ヒゲ面のテロリスト役さ。アラー・アクバルって叫んで死ぬんだよ。ははは」
こういうことをしれッと言うユーモア。
追記3
にしても、この映画で描かれるフランスの束縛なきユートピア感。
ゲイもレズも普通にいて、色んな価値観、文化の人たちが、ごちゃっといて、対立偏見差別はあるけれど、基本的に自分に正直に生きている人たち。しかも性の解放区。高校生たちはテレビやゲームじゃなく哲学と芸術を学び休みの日はデモに参加して終わったらセックスみたいな
フランスのある一部を抜き取ってるだけなのだろうが、それにしても進んでいる。
追記4
アデル役のアデル・エグザルコプロスちゃん。フランスの女の子をこんなに好きになったのは「アメリ」のオドレイ・トトゥ以来か。(マリオン・コティヤールさんはなんか別格感あるので別カウント)
追記5
原作のコミック
日本語版出ないかな。(映画の方が面白いハズと確信しているが)
********
自主映画制作団体 ALIQOUI FILM
最新作「チクタクレス」
小坂本町一丁目映画祭Vol.12 入選
日本芸術センター映像グランプリ ノミネート