満月に聴く音楽

ベーシスト宮本隆の音楽活動(時弦旅団、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

ディラン断唱 Ⅲ 『HARD RAIN』 (激しい雨) from「満月に聴く音楽」

2016-10-15 | 新規投稿
ディラン断唱 Ⅲ
Bob Dylan 『HARD RAIN』 (激しい雨)

「我々はハンガリーから来たジプシーだ」
グリニッジビレッジの路上でバイオリンを弾くスカーレットリベラを発見した時、ディランは彼女にそう言った。リベラの放浪者然としたそのムードを見たディランの直感がそう言わせたのであろうか。更に言えばリベラに類似性を認めたディランはこの無名のストリートミュージシャンに自身の以降の音楽的方向性、人生と音楽の関わり方を示唆されたような気分になったのかもしれない。

1975―6年にディランが主催したローリングサンダーレビューとは多数のアーティストが入れ替わり立ち替わり登場する旅芸人一座の如きものであったらしい。これより前、ディランは南フランスでヨーロッパ中のジプシーが集うフェスティバルを見物している。何らかのインスピレーションがあったのだろう。ディラン自身が放浪する東欧ユダヤ人を祖父に持ち、その祖父母がそれぞれウクライナ、リトアニアからアメリカ大陸に移住したのは第一次大戦前だと言う。従ってディランは古いアメリカ人ではない。寧ろ新参の移民者の息子だ。根無し草の如く漂流する性質は備わっていたはずだ。
ジプシーの祭典、スカーレットリベラの発見、そして古き盟友ジョーンバエズ。様々な触媒に感化されたディランは自らのルーツの再確認による表現行為の旅に出た。さしずめローリングサンダーレビューとはその出発地点と言えるだろう。その通り、ディランはこのイベントによって以後の人生に音楽の旅を全面的に当てる事を選択した。ローリングサンダーレビューを契機として80―90年代、そして2000年以降も‘ネバーエンディングツアー’と名付けた公演旅行を長期継続させている。ディランは60年代に成し得た偉業によって掴んだスターとしての自己の開放とそれに替わる旅芸人という新たな、そして本来の自分の本性に立ち戻ろうとしているのだ。

ライブアルバム『激しい雨』 (HARD RAIN)はディランが行ったローリングサンダーレビューのドキュメントである。アルバムジャケットの化粧したディランの異様なアップは本作の激しさ、内面性をそのまま表した素晴らしいものだ。
このアルバムは激しい。ディランの即興アーティストとしての才能、爆発力をまざまざと見せつける。そして無名、有名おりまぜた参加メンバーらによる究極にグルーブする熱演が本作では正に驚異的に感じられるのである。

1曲目「Maggie’s farm」はステージと観客の等しいざわめき、楽器をチェックする音などの一瞬の混沌から少しモタモタするような手探りのイントロに入り、やがてスピードが乗ってグルーブに至る。この生々しさが緊張感を増す。アルバム『bringing it all back home』(65)に収められたこのパンクの原型のようなアジテーションソングをここでは更なる叫び、更なる訴えでディランは取り上げた。
「マギーの農場で働くのは、もうやめだ!」
自立のテーマは永遠だ。23才のディランが歌った「Maggie’s farm」と35才のディランがここで歌う「Maggie’s farm」は時を経ても変わらぬ問題、変わらぬ現実、そして変わらず存在し続ける切迫感がある。ディランは自分の歌を大事にしている。しかも永遠に歌の重要性を溶解させてしまう事なく‘今、歌うべきもの’として保持し続ける。多くのアーティストが過去の自作を歌うとき、弛緩した懐メロになってしまうのとは全く異なる次元にあるのだ。
それにしてもこのアレンジの斬新さはどうだ。原曲とは全く別の曲をもう一度作ったかのような新しさである。サビの前のブレイク、そのサビに入るタイミングの自由さ。他のメンバーは即興的に間合いを計るディランについていく。ディランの指を、口を、表情を注視しながらグルーブに入っていく。そのズレの格好良さ。こんな自由でいて、しかもダラダラしたところのない演奏は聴いた事がない。集団即興のような奔放さがあり、尚かつ強力なグループとしての一体感、疾走するビートの塊のような印象がある。ベーシスト、ロブストーナーの転がすようなビートのグルーブが特に印象的な曲であろう。

この「Maggie’s farm」一曲を聴くだけでもディランが行ったローリングサンダーレビューが自由と即興のエネルギーを重視した祭りのようなものであったという報告に納得がいくのである。その記録である『激しい雨』での演奏はテンションの高さにおいて他のディランのライブ音源とは異質であるとさえ言えるだろう。ザ・バンドとのジョイントだった『偉大なる復活(before the flood)』(74)も確かにエネルギッシュな演奏ではある。しかしこの『激しい雨』のような自由度と偶発的なエネルギーをそこに感じる事はできない。しかもディラン自身の声のレンジの広さ、多様性、強弱感といったものを同アルバムほど見せつける作品もまた、ない。

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アルバム『激しい雨』でのディランは明らかにテンションが高い。
ディランのパンクナンバー「Maggie’s farm」に続いて「one too many mornings」が演奏される。これはまたマイナーな曲をもってきたものだ。プロテストフォークの名盤と言われた『時代は変わる(the time they are a changin’)』(64)に収められた曲である。ここでもサウンドが大胆にアレンジされ、歌詞も一部、書き換えられておりオリジナルとは別の曲と言って良い曲となっている。ディランの歌に手探りでついてゆく演奏者達。ずれて入るバックコーラス。スカーレットリベラの哀愁を帯びたバイオリン。そのどれもが素晴らしい。このどっしりした重みはディランの発声の重さが原曲をどうにでも変幻させ、自由に甦らせてしまう一つの証しであろう。

3曲目「Memphis blues again」はアルバム中、最もポップでリズミックなナンバー。「Maggie’s farm」と同様、ベースのドライブ感が強力である。そしてディランの表情豊かなボイスとバックコーラスが素晴らしい。ディランはその声を上へ上へと向け、高らかに歌い上げている。それは開放感につながり、音程のバランスやコードの枠組みをソウルがどこまでも突き破ってしまうような拡がりをもたらしている。この「Memphis blues again」、あるいは「lay lady lay」はその典型であろう。
しかしディランのボーカルパフォーマンスが味わい深いのは、発声の高揚感がストレートな感情の放出という簡単な次元には終わらない為である。実質はもう少し複雑で深いレベルにこそディランのボーカルの魅力がある。

ディランが自らの歌を歌う時、そこには‘体験’を歌う‘リアルさ’をディラン自身がより強固なものにしようとする意志、自らの歌=体験を全面的に受け入れ、もう一度自分の側へ、内面へ取り込もうとする意図が感じられる。従ってディランの表現世界は内面をさらけ出す性質の感情放出ではあるが、そのレベルはシンプルではない。むしろ複雑だ。‘ストレート’に忠実であろうとするその結果、より複雑な内面の表現、重層的なパフォーマンスとして現れ出ているという感じだ。それによって歌が歌われるそのリアルタイムの情況に応じた感情の揺れ、振幅性がその時々に違う姿となって現れるのである。
このようなディランの歌とは正に生き物であると感じざるを得ない。
つまりディランの‘体験’=‘歌’は安定したワンサイドの感情で歌え、捉えられる代物ではない。そこには絶えず多様な感情と解決困難な迷宮的テーマがあり、哲学がある。それを歌うという行為はそれ自体が不安定や未決定とのたたかいである。

アレンギンズバーグが指摘するユダヤ旋法のメロディーを持つ「oh sister」はいきなり歌だけで始まる。聴衆の騒々しいざわめきの中、静を促し、場を取り戻すようなインパクトあるスタートだろう。聴衆は静まる。そして曲はスローテンポで重く、噛みしめるように進行する。上手いのか下手なのかさっぱり定かでないスカーレットリベラのバイオリンはしかしここでも素晴らしく、この曲のジプシー的感覚、放浪と祈祷の雰囲気を見事に演出する。そしてディランの祈りのような歌声。全くとてつもなく重量感のある曲だ。

アルバム『激しい雨』のB面は「shelter from the storm」(嵐からの隠れ場所)で始まる。アルバム『blood on the tracks』(血の轍)に収められたあのディランバラードの名曲である。しかしここではまたしてもそのアレンジを大幅に変えられ、なんとハイテンションのハードロックに昇華されている。
イントロで響くスライドギターの厚いリフとエッジの効いたギターのリズムの絡みが早くも既にグルーブに突入している。しかもディランのシャウトは強烈だ。それも曲が進むにつれ、その声を段々と上昇さていき、最後にはヤケクソのような感情のキレを見せる。圧巻であろう。バックの演奏はそんなヒートアップしたディランに煽られ、同じ章の繰り返しで構成されるこの曲を見事に火の点いた、平坦ではない上昇カーブを描いてすっ飛んでいくような曲へと導いている。全く凄いエネルギーの演奏だ。何故あの原曲がこうなってしまうのか。後半でのサビのあとのインスト部での楽器群の騒ぎ様、爆発力は全く並ではない。正にどんちゃん騒ぎの如くそのドライブ感である。このドライブ感は自然発生的なものだ。この曲を聴くと場の臨場感とそれ以上に演奏者達の火の点いた内面まで感じ取る事ができる。‘触発’される事で伝導されるパフォーマンスの一体感が凝縮されているナンバーだ。

「you’re big girl now」(きみは大きな存在)もアルバム『blood on the tracks』に収められたディランの超名曲。未練がましい別れの歌をその歌詞の内容の通り、‘泣きながら歌う’というディラン以外では歌唱不可能なナンバー。またもヘヴィーに再演される。原曲での語りの美しさ、その端正さがここでは重いリズムと遅いテンポに引きずられるような進行と独特の歌の間、演奏の中断などのアレンジ、自然発生的な揺れによって、曲の核、その魂がより強く抽出される。歌の悲惨さ、悲劇的要素がさらに倍加され、ディランの感情はそれこそぐるぐる回っている。‘重い曲’である事を改めて認識させる演奏だろう。

本作で唯一、レイドバックした曲は続く「I threw it all away」だろう。カントリーミュージックのおおらかな要素がペダルギターの浮遊感によって決定され、空間に晴れ間が広がる。これを聞く私達は束の間のリラックス感を味わえるのではないか。
しかしだ。この曲はあのカントリーアルバム『Nashville skyline』(69)に収録されていた曲だが、オリジナルを改めて聴きなおせばその原曲の脳天気な明るさに比べ、ここでの演奏がいかに激しいかが自ずと解るだろう。レイドバックとは感覚の錯覚であったか。アルバム『激しい雨』の中では比較的、穏健という印象なのが客観的な見方であった。

アルバム『激しい雨』は多数のミュージシャンがごった返すように演奏するそのラフで場当たり的な臨場感が大きな魅力なのであるが、それでもそんなハチャメチャさの中にメロディーの核心を感じさせるものがある。
それはディランの強烈な声によるものが大きいのは事実であるが、それ以上にバックの演奏による‘音楽の中心’への輪郭付けが見事であるからであると私は感じている。ディランの曲で‘メロディー’を感じるとしたらそれは‘歌メロ’によるものではない。それはいつもバックのインストゥルメンタルによってであると極言しても良いほどだ。嘗てのアルクーパー、マイクブルームフィールド、ザ・バンド、エリックワイズバーグといったミュージシャンの演奏は私達に強い印象を残している。ディランは得てして歌を解体する。そこには自らの歌のソウルを原型で抽出する志向が極限へ向かう為、メロディーという歌の‘外側’(=現れ出たもの)を突破してしまう過激さがあるからであるが、それを補って余る演奏をしたのが先にあげたディランのバックプレイヤー達であったのだ。
そしてアルバム『激しい雨』でのミュージシャン達、即ちロブストーナー(b)、スティーブンソロス(g)デビッドマンスフィールド(g)、ハワードワイエス(ds)、ミックロンソン(g),スカーレットリベラ(vl),T-ボーンバネット(g,p)達はディランのナチュラルでアバウトな歌い方、演奏にメロの輪郭、枠付けをするべく悪戦苦闘する。しかしそこに、ディラン以上のラフさ、いい加減さでアンサーする事も厭わぬ熱演が例えようのない相乗効果を生んでいるとも言えよう。何とも不思議なバンドであった。

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アルバム『激しい雨』の締めくくりはディランの生涯の最高傑作「idiot wind」(愚かな風)だ。やはりこの曲がきた。この10分11秒に及ぶ演奏は正に衝撃的である。原曲にあった内面の激越さの表現をここでは倍加したハードネスで表出する。
ここでの音楽はまず、表現者の‘ぶざまさ’が存在し、しかもそれが聖的に顕われる。限りなく赤裸々である事。様式や技巧をものともしない、芸術の真の感動力とはこの「idiot wind」のような表現者の‘ぶざまさ’が鬼気迫る勢いで伝わってくるものではないだろうか。それは時に敗北性を醸し出す事もあるだろう。しかし本当のポジティブさとは敗北の連続の中に、長い迷宮の果てに獲得し得るものである事も私は事実であると思う。下降する精神とは凄い芸術を生む力である事は間違いない。
ここで連想されるもう一人の‘ぶざまさ’を体現する人間はやはりジョンコルトレーンだろうか。息が切れるまで、よだれをダラダラ流しながら死を直視するかのように無心でテナーを吹くあのコルトレーンの姿がディランにオーバーラップする。

長い歌詞を延々と叫ぶディラン。語尾を上げ、ダミ声の限りを尽くし絶叫する。バックのミュージシャンはディランのこの地獄絵巻についていくしかない。

おれは易者に駆け込んだ 
彼は稲妻に気をつけろ 落ちるかも知れないと言った
おれは静けさと平和がずっとなかったので どんなだか忘れてしまった
十字路にはたった一人の兵士がいて
煙が貨車のドアから吹き出ている
きみは知らなかった そんな事があろうとも思わなかった
ついに彼は勝った 
連戦連敗のあとで
おれは道ばたで目が醒めた
白昼夢する 物事が時にはどうなるかと
君の栗毛のメス馬のまぼろしが 俺の頭を打ち抜き
俺は星が見えてしまう
君は俺が一番愛する人々を傷つける
真実を嘘で隠す
いつか君はドブに落ちて
目のまわりにハエがうなり
君の鞍には血が流れるだろう

われわれを引っ張り込んだのは重力で、
   引き裂いたのは運命だった。
君は俺のオリの中のライオンを手なずけた
だが心まで変えるには至らなかった
今やちょっとばかりひっくり返っている
実際、車は止ってるし 良かったことは悪く
悪かったことは良い
てっぺんについたら判るだろう
それはどん底だってことが

君はもはや感じられない
君が読んだ本に触ることすらできない
君のドアを這って通り過ぎる時
俺は誰か他の人間だったら良かったと思う
ハイウェイをずっと。線路をずっと 恍惚の道をずっと
俺は君について行った 星空の下
君の思い出と
君の怒り狂う栄光に駆りたてられ

   俺は遂に裏切られ
そして遂に 今や自由になった
俺はキスする 吠える動物
それは君と俺を分ける国境線上にある
君に判るまい 俺の苦しんだ傷も
君が克服した苦痛も 同じ事が君についても言えるだろう
君の神聖さとか 君の種類の愛とか
それがすごく残念だ

愚かな風 君のコートのボタンを吹き抜け
我々が書いた手紙を吹き抜ける
愚かな風 我々の棚の上のちりを吹き抜ける
俺達はばかだぜ
今でも飯が食えるなんて奇跡だぜ

(訳詞;片桐ユズル)

何が言いたいのか解らないがとにかく凄い。
いや、これは何らかの主張やメッセージではなく、感情の爆発的発露であろう。スタイリッシュさの微塵もない魂の表現。「idiot wind」は私達の腹に響く強烈なボディーブローのようだ。憑かれたかのようなディランの絶唱。音程ははずれ、リズムは前のめりになる理性の枠の決壊。そしてソウルの放流状態。バックミュージシャンはそんなディランについてゆく。自らも血を吐くようなプレイを続行する。バンドリーダー、ロブストーナーのバックコーラスは時にディランの前に出たり、ずれたりして、そのバラバラな混ざり具合が一層、演奏の一体感を不思議に醸し出すのだ。レイドバックなムードに効果的な筈の楽器、ペダルギターもここではヘヴィーに音塊をばらまくスペーシーな音響効果と化す。まるでシンセサイザーだ。そして全体の演奏がもはや、熱体物の塊のようなものへと科学変容している。恐らくここでのディランは生涯の絶頂ではないだろうか。

ディランが到達した高みとは言語と音楽表現における未知への開拓であると言って良い。そこは誰もまだ踏み入れていない領域だ。嘗てランボーやロートレアモンが幻視したものをディランもまた、直感的に捉えているのではないか。という事はディランミュージックの神髄とはシャーマニズムなりという結論が導き出せるかもしれない。
ディランはイマジネーションの心棒者だろう。言葉の魔力、言葉の表面上の意味よりもそれが発声される事によって生み出される、より広汎な想像力、呪術性に対して疑念は持っていない筈だ。
音楽が近代以前に果した役割。それは治癒であり、司祭、共同体の結束などに見られる、娯楽以上の重きを果していた。生活基盤そのものに音楽が存在していたのではなかったか。
ディランは娯楽産業として成立し、社会に於ける一付随物と成り果てた音楽を人間の側へ取り戻す一種の‘感性の革命’を成し得ている。そしてそれを聴く私達は先入観による表面感覚や、固定された感性の領域を拡大、向上、深化される体験を得るのだ。‘違和感’を投与される事で共通意識そのものの変容が成されるのである。

ディランはその初期の活動期から現在を通じて‘時の声を代弁する意識’は希薄だと思われる。社会派、メッセンジャーと目されるディランだが彼の意識する歌の力とは何らかの既成の思想、反体制の思弁、若者の心情などには密着していない。それらは弱冠はあるだろうが、それよりもディランは明らかに自分の内部へ向う旅に忙しいのだ。ディランが歌に見出しているもの。それはむしろ歌の霊力だろう。

ディランはアフロアメリカンのブルースとカントリー、プロテストソングとしてのフォークの心棒者として出発し、ロックとの融合に成功した結果、よりポピュラーなアーバンブルースを創出した。しかしながらアルバム『blood on the tracks』以後、ディランは自らのルーツブルースを発見し、それが自然体で成立した。
異邦人ディランがアメリカで発見したもの。それは夢の裏側にある孤独。永遠に変わらぬ疎外感と内面に宿る神性だろう。ディランは外側の情況(現実世界、社会の出来事、人々のマインドetc…)を自らの内側で体験する。そして表現される世界は他者とのコンタクトを霊感によって深化させる。それは表層ではなく、結果としてより強固な結びつきとなる。
ディランの歌が精神の共同体を目指すとすればそれは現実という枠に収まるメッセージの共有という次元ではない。そしてその歌は単に現実を反映したり、批判したりするものではありえない。ディランの歌は歌自体が霊的媒体として現実の超克を志向する精神的共同体そのものを目指している。ディランの歌の味わい深さの秘密がここにあった。

ディランは80年代以降、再生派キリスト教へ傾倒し、宗教三部作と言われるゴスペル作品を制作し、その後、ユダヤ教へと感心が変化する等、具体的に神についての歌や宗教観を音楽化するに至るが、ディランが歌に神性を宿し始めるのは実はその初期活動からであろう。ただ、そのような特質が表面化するのはアルバム『blood on the tracks』(75)からである。ブルース、ロックンロールの影響下にあるスタイルが段々、薄れていき、ユダヤジプシースタイルとでも言うべき独特のディランの様式が生まれ、それが歌の広範な伝播へと繋がったのである。ディランの大衆性の獲得はヒットチャートでの数字だけを見ても把握しきれない部分にこそある。ディラン体験による精神的昇華と濃度、その影響力は人の内面から変容を促すという意味で決定的なものだろう。

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ディランのライブドキュメント『激しい雨』。このタイトルの意味は何か。
ディランは「僕の作品は心の血を通して理解される」と語った事がある。私は『激しい雨』というタイトルに人の内側に常に降り続ける激しい雨をイメージした。ディランはこのアルバムの各曲で雨にずぶ濡れになりながら叫び、歌っているようだ。余りにも激しい。それは「idiot wind」において顕著だろう。「idiot wind」でのディランはトランスゾーンへ突入し、神懸かり的状態で言霊を発している。この激しさはディランの意図したものか。このアルバムに与えられる‘ストレートな感情の発露’‘ストレートなロックの生命力が発揮されている’という批評は私には今ひとつ納得がいかない。なぜならここでのディランはとても揺れている。決してストレートではない。外向的なパワーに満ちた音楽ではあるがその内面たるや、決して一定方向の感情で統一されてはいない。従って単純な確信性では済まされない複雑な精神性が表現されている。
それはディランの目論む神性さ、神秘さと初期衝動的エネルギーとの間の凄まじい往復が強く感じられるからである。それは聖と俗との間隔磁場の揺れであるかのようだ。

アルバム『blood on the tracks』でディランは霊感の意識的注入といった作業を実行し、成功したと自ら語っていた。これは無意識や意識下にある能力や効力を意図的に設置し曲中に再現した事だと思うが、そこには冷静な判断力や意識操作があったに違いない。そうして生まれたのがあの言葉とサウンドの錬金術的結合の如き作品『blood on the tracks』であり、その代表的ナンバー「idiot wind」(愚かな風)だったのである。
しかしアルバム『激しい雨』における「idiot wind」はそういった意識的な作品性への昇化、技術的意図は感じられない。その演奏は全く型破り的ですらある。ディランは自らが到達した「idiot wind」を更なる肉声でもう一度解体し‘聖’への攻撃を仕掛けている。ディランとバックミュージシャン達は「idiot wind」という何度もプレイし続けているこの曲を一種の真空状態の中から始めている。そしてその時の雰囲気、今の現場の空気、リアルタイムのプレイヤーの感情は「idiot wind」という既にある建造物を取っ払って存在し、新たな生物へと再生させている。それはディランの支配をも放棄し、ディラン自身すら、自らの聖域を目指す曲の再生へ向う自分とそれを拒むアナーキーな自分の内側の欲求との間に揺れ動いている。
それはこの10分11秒に及ぶ演奏の後半に顕われる声の‘確信性’と‘震え’が一体となった緊張感が証明する。

アルバム『激しい雨』が‘ストレート’と形容されるならそれはディランの当時の内面の多面性、放浪と祝祭、そして孤独という連続する感情の変化が‘ストレート’に出たと言った方が正確だろう。従ってその音楽は苦行的なパワーに溢れている。エネルギー発散型の演奏でありながら、そこに明らかな楽天性と苦しみのせめぎ合いがある。それ故、この作品は味わい深いのだ。

私は炎のようなこの「idiot wind」を演奏し終わったディランの感情を想う。ディラン自身はある種の満足感を得ながらも更なる旅への決意の中にいたのではないか。演奏が終わった後の観客の反応は異様である。ここにあるのはコンサートにままある、割れるような拍手や予定調和の歓声ではない。「idiot wind」が終わった後の観客の興奮状態はそれをどう表現すれば良いか解らず、途方に暮れてしまったかのような叫び声や沈黙が支配している。アルバム『激しい雨』はこの現場の空気を見事に記録している。ここでのムードは正しく異様であり、こんなライブアルバムは余り聴いた事はない。強いて類似作品を挙げるとすれば、ジョンコルトレーンの『village vanguard again』、或いはヴァンダーグラフの『vital』であろうか。

アルバム『激しい雨』はディランが行ったローリングサンダーレビューの最終公演を中心に収録したものである。終局に至った旅芸人一座。ディランにとって、そして音楽界にとっても一大エポックメイキングであったこのツアーはディランの苦闘と克服への旅から生まれ、クライマックスへと至り、終わった。ディランがそのエネルギーの絶頂を体験したこの時期は奇しくもパンクムーブメントという音楽に於けるエネルギー回復運動が始まった頃と合致しており、肥大化したビジネスとしての音楽に対するアンチとしての類似性が在ったことも見逃せない。
ディランが行ったローリングサンダーレビューとは音楽による祝祭の復元行為であったのだろう。ディランだけが知っている歌の力を共有し得る全ての人間へ伝播し、共同体を形成する。
私達が感動するディランの歌とは私達自身が現在抱える感性と問題意識、そして未開発の感性への扉を押し広げる力になりうるものである。

ローリングサンダーレビュー以降もツアーと作品のリリースをハイペースで続けるディランは最早、自己の聖域で音を奏で、歌っている。自分の内側へ向う終わり無き旅を使命のように続行するその姿は、歌を完全にライフスタイルにした自然人のそれである。
その活動は大ベテランの割にはハイペースであると言えよう。80年代を過ぎ、90年代を生き抜こうとする現在のディランはその内省性を強め、音楽の深化を図っている。多作故に駄作も多いが、『oh Marcy』(89)等の傑作はその内省性を極めた精神的結実であろう。そこでのディランの声はますます低音になり‘語り’‘呟き’という要素が強まっている。高らかに歌う声、ハードな音響はなくなり、『激しい雨』=ローリングサンダーレビューの熱狂は過去のものになりつつある。しかしディランにとって『激しい雨』と現在は一直線に繋がっているのだろう。『激しい雨』の祝祭空間はディランの内側へと今、静かに収束されながらも、ずっと点火された熱狂状態は続いているに違いないのだから。

1996年5月
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