満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

DJ FAUZI PRESENTS VALENCIA ROBINSON  『'MAKE’ ‘SWEPT’』

2012-01-26 | 新規投稿
     

CISCOがなくなって以来、アナログと言えばコルトレーンのブートかCD化されてない歌謡曲の中古、あるいはルーツレゲエ、ダブの再発LP以外、全く買う事がなかったのだが、最近、再び、新譜で特に12インチを聴きたいという欲求が強くなり、アナログショップにちょろちょろ出向くようになっている。元来、フルアルバム志向の私が12インチに再び関心が向かうのは、アナログのマイルド重低音の気持ちよさという音質の好みという理由もあるが、フルアルバムに於ける作品全体の充実度が下がる傾向を例えば多くのダブステップ系の音源で体験した事と無関係ではない。つまり、近年のアルバムでは良いトラックが、2.3曲までで、それは12インチでリリース済みのものというケースが多い。従って12インチで絞り込まれた音源の方がそのアーティストの特質がより発揮され、好印象を持つ事が多く、結果的にアルバム不要の判断に至る事もあるからなのだ。
購買客の多くはDJかその予備軍、あるいはクラブマニアで占められるであろうアナログショップでレコードをチェックするのが‘大変’なのはかつて、CISCOで経験済みだが、しかし、久しぶりにそんなクラブミュージク系ショップを何軒か覗いてお客さん、少ないなと感じたのも事実。みんな、ネットで試聴して家に取り寄せてんのかなと思う。昔は店でチェックしたい棚を他の奴に取られないようにポジション確保しながら隣の奴とぶつかり合って、レコードめくってたものだ。意味もなく、めくる早さを競ったりもしてた。試聴も人が多くて順番待ちでイライラしてた。そんな光景は今ではたまにレコ屋が集まって共催する‘レコード祭り’でしか、見られなくなった。

DJ FauziというハウスプロデューサーがVALENCIA ROBINSONなる女性シンガーとコラボした12インチシングル3曲入りがこの『'MAKE’ ‘SWEPT’』というアナログ音源である。VALENCIA ROBINSONはいわゆるnu soul系シンガーと目されそうだが、元々、このジャンルはハウス、ヒップホップ色が濃厚で、クラブ系へのシフトが容易な要素を持っていたが、ここで聴かれるサウンドは、そのクールなムードが心地よく、感情を抑制した歌声が最小限のバックサウンドに導かれながら淡々と進行するクールソウルといった様相を示している。
ソウル色が‘絶妙な’ハウスというのは元来、私の好みであるが、しかし、そのさじ加減によって、まったく快楽的に響かないケースが多々あるのも確かで、このジャンルの難しさは、もはやソウル(的要素)がメジャーポップスの中で定着してしまったからこそ、ダサ系ハウスの氾濫という事態を招いているとも感じている。アメリカのメジャーシーンでのマッチョ化した売れ線エロヒップホップや(激しく歌っているも)中身が薄―いブラコン歌謡などにとどまらず、ロボ声やソウルフル風な歌い回しなどが、今やJ-POPやK-POP等という全く聴くに堪えないものにまでも汎用的に使用される昨今の状況はもはやこの‘ソウル’という要素がポピュラーミュージックの全階層に行きわたった一大様式と化した証左でもあろう。

私はこのDJ Fauziというチンピラのようなルックスのアーティストのサウンドトラックに極点のようなセンスを感じ、敬服したのだが、特に9分に及ぶミニマルシーケンスな「MAKE」は重層化されたボイスとボリュームを抑えたハウスビートにこれも静かなジャンベが交差するというハイセンスな代物。しかも間のあるキーボードの催眠的なグルーブの気持ち良さの素晴らしさはどうだろう。曲の中盤からこのキーボードの音量が上がり、前面にせり出す仕掛けにも参った。この感覚はちょっとすごい。曲の後半はボーカルがフェイドアウトされ、もはやソウルではなく、エスニックアンビエントな音響と化している。なかなかですね。

もう一曲の「swept」はやはり、クールビートに導かれるハイセンスソウルで、よりボーカルに比重が置かれたトラックだが、その歌唱は‘本格派’のそれであった。このVALENCIA ROBINSONというシンガー。はっきり言って、上手くて味がある。ジャズも好きなんじゃないかな。プロフィールはよく知らないが、まだ、フルアルバムはないのかもしれない。アンダーグラウンドな匂いが強いのは確かだが、しかし将来的な土俵はメジャーなソウル、R&Bのシーンである事をイメージさせるに十分な実力者と見た。このレコードはDJ FAUZIのコンセプトに彼女が参加した形の作品だと思うが、おそらくこれはVALENCIA ROBINSONの一面に過ぎないだろう。先に‘アルバム不要の判断に至る事も多い’と書いた私だが、この人のアルバムが出たら必ず、買うだろう。CDじゃなくアナログで買うだろう。

2012.1.26
 
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             崔健  中共禁歌《最後一槍》演唱版

2012-01-12 | 新規投稿
               


小平がベトナムを‘しかりつける’為に始めた中越戦争をテーマにした崔健(ツイチェン)の「最後一槍」のオリジナルをyou tubeで発見。というのもこの曲は歌詞が‘反政府的’との理由で、歌が削除されたインストバージョンでしか聴けなかったナンバーなのである。セカンドアルバム『解決』(92)のラストに収められたこの‘カラオケ曲’をかつて私は一体、どんな歌が入っていたのかと想像しながら聴いていた。機関銃をイメージした効果音の後に出てくる崔健の雄大なトランペットと最後に僅かに出てくるボーカルによってそれでも充分に劇的な曲ではあったが。今回、偶然というか何気にyou tubeをあれこれめくっていたところでたどり着いたこの「最後一槍」‘演唱版’に感激。やはり、正しく入魂のロックソングであった。もう10回以上、たて続けに聴いている。素晴らしすぎる。

サードアルバム『紅旗下的蚕』(94)の衝撃を私は当時、以下のように書き記した。
<私が中国初のロックアーティストと呼ばれる崔健(ツイチェン)のサードアルバム『紅旗下的蚕(balls under the red flag)』(94)を聴いた時、そこに現代ロックの最先端を発見した。(略)曲の良さとアレンジの雄弁さ。地域後進性(ポピュラーミュージックの)を全く感じさせないそのクールでモダンな様式。しかもその精神面では欧米ロックシーンに見られる‘シニカルさ’‘ニヒリズム’が無く、(かと言って脳天気な‘前向きさ’‘ポジティブ’も存在しない)それを克服するムードに満ち溢れている。(略)『紅旗下的蚕』「には欧米的先端性と根源的なロックの良心が共存していた。(略)彼の創るリズム、メロディーが中国音楽に根ざされ、しかも多数の古典楽器を見事にバンドに吸収する力量の前で欧米の‘スタイル’としての情報はそれ程重要ではない。崔健は欧米のロックというフレームを強引に自らの土着性へ吸収し、結果として世界に共振し得る完璧なロックを創ってしまったのだ。(スタイルやムードをコピーするだけの多くの日本のロック(もどき)はこの時点で敗退するしかないだろう。)(略)『紅旗下的蚕』はストレートなロックが持ち味だった以前の作品(『一無所有』(89)『解決』(92))に比べリズムが多様化し、サウンドもヘヴィになった。しかも中国の古典楽器を多数導入した民族色の濃い出来上がりとなっている。詩は益々凄みを増し、メッセージが直線的な一方通行の主張とならず、不思議な多面性を喚起させるものとなっており、一筋縄ではいかない味わい深さにつながっている。抑圧的な検閲制度が残る中国で詩を書くと、必然的にこのような入り組んだ暗喩的、暗示的な表現になってしまうのか。そうだとしたらここでは、検閲制度そのものが逆に表現の深化に役立っているとも言えようか。皮肉ではあるが。>
「私達の青春舞曲(1994)」『満月に聞く音楽』より抜粋

『紅旗下的蚕』の衝撃は当時、私をして長征倶楽部という崔健のファンクラブに入会させるほどであった。(もっとも、すぐやめてしまったが)その共感は上記のかつて書いた文章にもあるように当時の欧米ロック(特にイギリス)のスタイリッシュ化、ニヒリズム化の蔓延との比較によるもので、私は崔健をパブリックエナミーに類する‘中国のハードコアラップ’と捉えていた。
「最後一槍」は『紅旗下的蚕』ではなく、その前作であるセカンドアルバム『解決』(92)に収められた曲である。『紅旗下的蚕』の衝撃があまりにも大きかった私はさかのぼって聴いた1st『一無所有』と2nd『解決』にサウンド的には物足りなさを感じ、それほど好きにはならなかったのだが、「最後一槍」だけはそのドラマティックなムードに何か感じるものがあった。今回、偶然にも発見した「最後一槍」‘演唱版’。これは最高ですね。

言論の不自由は表現を深化させる。
検閲とは表現者にとって創造の創意工夫を生む契機ともなり得る。
崔健はこの曲で独特の隠喩を用いた。抽象的、象徴的な言葉で書かれた「最後一槍」に実は直接的な‘反政府’の表現はない。それでも中共政府が削除したのは、彼が「中越戦争の事を歌った」と発言したからなのか。詳しい事情は分らない。いずれにしても中共はその支配の正当性を維持する方策として全ての情報を管理、検閲している。インターネット時代となった現在ではその‘削除’の為の職員を何万人と擁している。大変、御苦労な事だ。
しかし、今日、多くの中国におけるネットユーザーが隠喩的手法や当て字を用いて、検閲を巧みにかわしながら、自由なコミュニケーションや議論を沸騰させているのも事実だ。‘チベット’や‘天安門’という単語が検索機関でもヒットしない状況下で、‘天安門’を‘点亜文’に変え、‘中共’を‘忠kyo’と変換しながら削除の網の目をくぐって情報交換やニュースソースの獲得に努めているのは間違えば検挙、投獄のリスクを背負う、それこそ命がけの行為であろうか。しかしそうやってやがて’真実’に出会うのかもしれない。願わくば江沢民が90年代に施行した嵐のような反日愛国教育によって捏造された日中の現代史の虚構にも疑いの目を向けるべくアプローチしていただきたいところだが。

2012.1.11


 
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DODDODO 『ど』

2012-01-02 | 新規投稿
 
「大阪のシーンを牽引している」と東瀬戸氏(forever record)に薦められ、ジャケットにびびりつつも購入。
一曲目「ど」のヘタウマジャンクなロックに、この先どうなるのかと危惧しつつも「どっどどどどう、どう、どどう」という歌詞に「宮沢賢治?」とニヤリとなり、2曲目「たぬきが来たから居留守した」のほのぼの和のメロディになぜか安心。続く「ハンハン」、「太陽公園」の神秘童謡は思わず歌詞を熟読し、更に「いろんな童」のポジティブビートに乗った拡がる歌声になぜか感涙。徐々にハマってしまいます。「木風」の内省的センチメンタルにこちらもしみじみなりながら次の「なりませぬ」に元気をもらう。もはや完全にワールドに吸い込まれてる。えらい吸引力のアーティスト。聖性をも帯びたラストの「夕日」の大きな物語はもはや大歌謡の境地。クラリネットの郷愁とメロトロンの抒情。やってくれるで。ダメ押しですな。しかしちょっと曲数、少ないですね。もっと聴きたい。あと2曲は必要です。

初期ボアダムズ、思い出波止場からつながる奇天烈感覚、逸脱感覚を‘大阪要素’とその伝統を認めてもいいが、もっと前のほぶらきんやのいずんずりの陽気な土俗感覚の再来のようにも感じる。しかしそのナチュラルな歌心は素直の極意のようで、誰にも可能な表現、何物にも頼らない表現という万人に開かれた表現行為の真髄をここに見た。超自然体であり、しかしアイデア一発のオドロキ路線ではない。歌いたい事やイメージの具現というテーマが確かにある事が‘頼りがいがある’作品性として成立しているとも感じます。
こう書いてからネットでこのアーティスト、何者?と検索すると、知らなかったのは私だけ?と感じさせるほど、広範囲な活動されてるんですね。無知でした。そしてサンプラーで激ビートを駆使したグラインドコアとか書いてる。ということはこのアルバム『ど』の歌もの路線はもしかしたらDODDODOの表現の一部という事?ますます謎です。ライブ行きたいな。ほんとにえらい吸引力のアーティスト。

2012.1.2

 
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