満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

Anthony Hamilton  『back to love』

2011-12-31 | 新規投稿
  

国論を二分したTPP問題と違い、原発をめぐる批評軸は<反原発、脱原発>にほぼ、振り切ったと見ても過言ではない状況と言えようか。いささか、うんざりなのは、本屋の店頭に山積みされる‘3.11以降の~’と題される主に社会学、思想方面からの書籍の洪水状況だ。放射能やエネルギー政策を論点とした計量科学的な論考が噴出するのは当然としても、原子炉メルトダウンに何か象徴的意味合いを持たせ、文明論や思想、哲学の領域へと引き込んでいくのは、何か腑に落ちない。漠然とした反感なので具体的な反論できないが、これはyoutubeで発見した反原発デモの映像で「廃炉!廃炉!」と叫ぶいとうせいこうのつまらないラップに感じる嫌悪感に近い感覚かもしれない。ああゆうものに「出番だね~」という感想しか持ちえない私のようなヒネた者にとって、3.11を契機として俄然、活発化される思想家達による言論空間や知識人が主導するデモの祝祭空間に気持ちがフィットする事は全くない。結局のところという感じで消費文明批判に帰結する為の前振りの如きネタとしてフクシマを活用しているのであろう啓蒙本など最初から読む気もしないし、デモの映像でいとうせいこうの後に登場した‘ミスター世界共和国’柄谷行人の「デモが起こるというのは社会の成熟の証しです」という発言には「だったら、あんたらが国会を取り囲むデモをやってた昔の方が社会は成熟してたんじゃないのか」とツッコミを入れたくなるだけなのだ。

学生の頃に沸き起こった(82.3年頃)の反核運動を思い出す。二十歳そこそこだった私はシンパシーを持つでもなく、さりとて批判的でもなく、それを眺めていた。ただ、多くのミュージシャンがそれを支持していたので、何となく肯定していたとは思う。サッチャーとレーガンを極悪コンビに見立てるのはロック界では常識でそれに追随する中曽根もやはり悪であった。日本でも一千万人(だったか?)もの反核署名が集まり、マジョリティを形成したと思う。私も漠然と‘反核は常識’と捉え、『反核異論』で運動を批判した吉本隆明をその本を読みもせず「いわゆる‘転向’やろ」と断じていただけであった。しかし、反核の背後に陰に陽に現れるソ連の存在は運動の本質が反米、反NATOというセクト性の強いものである事を暗に示していたし(それどころか運動を具体的に援助していた事も後のグラスノスチで明らかになった)、それは中国の核保有を‘平和勢力の核武装はやむなし’とした日本の左翼と同等の構図であった。そういえば広島の8.15平和集会での声明はいつもアメリカの核を非難して中ソの核は無視していたと記憶する。明確な目的をもった工作員やシンパ、そしてプロパガンダにやられた無意識な一般人の集合的心理だったのだと今になって判明する。

私が若干でも客観的視点を持ちえたのは、当時読んだ音楽雑誌「Fool’s mate」の‘東欧ロック特集’の影響が大きいと思う。社会主義体制下で非合法とされたロック(それは資本主義に汚染された西側諸国の産物)を東ヨーロッパの人々はラジオの違法受信や西側から極秘に持ち帰られたテープで聴き、表現者は地下活動に甘んじていたという内容で、多くのアーティストが検挙、投獄されていたという事実を知ったのだ。彼らにとっては中距離核ミサイルを西側に向けて配備したソ連こそが反核の対象であり、防衛システムで対抗したアメリカを支持していたのである。先刻、亡くなったチェコの元大統領ハベルは自国のロックグループ、プラスティックピープルオブユニバースのメンバーの投獄を契機にその支援闘争を開始し、‘憲章77’につながったと述べている。レーガンが主導した西側諸国のソ連への対抗こそが東欧の民主化、ソ連崩壊につながったのは明白であり、80年代に西側で巻き起こった反核運動はソ連の延命を促していたにとどまらず、ソ連発の情報戦略という側面があまりにも強かった。西ドイツの緑の党が当時、反原発を反核、反戦平和とリンクさせながら環境保護団体から脱皮していく過程でのソ連資金も指摘されている。私達はいわば騙されていた。‘正義’という衣装を着ていた反核運動に二者択一は許されなかったのだ。吉本隆明の『反核異論』を私が読んだのは東西ドイツの統一後だったと思う。

福島原発事故による反原発運動にも同様の‘正義’の匂いがあり、それが私に過去の反核運動を想起させ、肯定的に捉えられない‘偏見’を持たせている事は否めない。ソ連崩壊で‘祖国’を失った一国社会主義者や地球市民達が動き出した。「ほい、きた、出番!」のいとうせいこうや柄谷行人はさしずめそのリーダーか。もっとも、こんな嫌味な見方しかできない私の「反原発異論」だが、ここにきて、反原発に共鳴できない反論がやや、明確化してきたのも事実だ。

社会学者、小熊英二はデモの演説で原発と核(兵器)をやはりというかリンクさせながら(西尾幹二の脱原発論、即ち‘核武装する意思がないのであれば、原発推進はありえない’ という論を都合よく引用している)「超法規的な権力がなければ、原子力の管理はできない。原発と正式な法的手続きや民主主義は両立しない。核を管理するのは超強力な権力がないとできない。それがないような国はやるべきじゃないんです」と結論している。
この言葉は反原発運動が反核運動である事を示すに十分な根拠となるであろう。
原子力の管理、運営、事故処理は超法規的な権力のみが行い得る。この結論からは原発(もはやここでは核(兵器)と同義になっている)を持つという事は民主主義ではない、ある絶対的な権力装置の‘到来’を招く事になるという危険性を訴えていると深読みする事ができる。私はそう読んだ。だから反対なのだと。権力の強弱はともかく原発を扱うのはいずれにしても‘国家’である。そこに反対者のアレルギー反応がある。反原発運動の本質に‘反国家’が前提にあるのは間違いない。だから脱原発に伴う代替えエネルギー構想や経済的観点からの効果を試算する事は第一の根拠ではないのだ(そもそも門外漢だろう)。柄谷行人はインタビューで孫正義の太陽電力発電構想に対し「新たな金儲けで、エコビジネスに過ぎない。今のところ天然ガスで充分」と一蹴する。ここには’金儲けは悪‘という社会主義的観念が経済戦略や国防という国家(や民間)が担う仕事の優位に置かれ、ある意味、国力の衰退を是とするかのような思想が伺え、やはり、先の小熊英二の言説とリンクする。柄谷行人の批評パースペクティブがその矛先を常に‘国家=資本’という定義で行っている事を思えば、それは当然と言えば当然なのだが。いずれにしても私の違和感は‘超法規的な権力のみが可能な原子力の管理’という小熊英二の理論であった。そしてその違和感に答えを示してくれたのは、手嶋龍一の発言であった。
外交ジャーナリストで作家、手嶋龍一の「24時間以内に首相が廃炉を覚悟して海水注入を決断すればメルトダウンを防ぐことはできた。」というあまりにも単純明快な結論に遭遇するに及び、問題の本質、根幹の一種、すり替えによる反原発騒動という事態を客観視するように至ったのである。

手嶋龍一曰く
「菅前首相は、大震災発生の翌朝、ヘリで福島原発に向かうパフォーマンスを演じながら、海水注入による冷却の決断ができず、炉心溶解(メルトダウン)を起こした。初動の24時間以内に(1)廃炉を覚悟で海水注入を決断する(2)国際的緊急委員会を立ち上げ、米、仏、露の経験と人員を借り受けるべきでした。前浜には米国の原子力空母「ロナルド・レーガン」が現れていた。日本が要請すれば、最強の防護チームが降り立ち、現場に向かっただろう。アメリカはこれほどの危機に立ち向かうのは日本の政治指導部そのものがメルトダウンしているのではないかと疑っているのでしょう。「手を貸しましょう」と申し入れたのですが、菅内閣はこれを事実上拒否してしまう。(略)戦後日本は、経済大国として輝ける成功国家でした。しかし、成功ゆえに大切なものを喪(うしな)った。究極の有事には、国家のリーダーが揺るぎない決断を下してほしい。どの国でも人々はそう願っている。だが平和な日本ではリーダーがギリギリの決断を迫られることが少なく、災厄は訪れまいとのんきに構えていた。決断を怠ったリーダーは、メルトダウンを招き寄せ、日本ばかりか世界に災厄をもたらしてしまった。その惨めな姿は、日本という国のいまのあり様を色濃く映している。(略)ヘリを使った水の散布は、海外のメディアからも随分と酷評されました。核災害の専門家からみるとほとんど笑止の沙汰みたいなことをやっているんだと思う。」<手嶋龍一×阿部重夫「福島原発」対論>

小熊英二が言うような超法規的な権力が必要なのではなく、普通の国家として当然、持つべき危機管理のオペレーションの問題であった。そして一国の首相たるべき者のリーダーシップの問題であった。さらに言えば、国防、安全保障の領域が機能したか否かの問題であった。
結局のところ‘放射能が漏れた事’があらゆる運動や騒動の発端であった。メルトダウンがなければ、反原発運動も騒々しい言論空間も、いとせいこうのラップもなかったのだ。‘一基の廃炉’だけで終わっていたなら、もっと縮小された論点が基軸の運動になっていたはずだし、原発に伴う様々なコストの見直し、耐震構造や津波を想定する今後の技術革新という現場の方向性に関する議論が多勢を占め、いきなり‘原発全廃’という極論に向かう一直線な議論にならなかったのではないか。つまり、放射能が漏れたという今回の事態は‘一基の廃炉を渋った’という管首相の決断のなさというものすごくピンポイントな営為によって引き起こされた正しく人災だったのだ。もちろん、じゃあ、他の首相なら決断できたのかという疑念も残り、いずれにしても起こった事、起こりうる事である以上、やはり、全廃すべきという理論の説得力も否定しない。それでも私なら、有事にはリーダーシップを発揮できるような国家の在り方の追求というのが最終的な国益と将来的なビジョンとして必要であると感じる。超法規的な権力などというたいそうなものではなく、国家の長であるなら、当然、持つべくリーダーシップが育たないという事の問題、改善という方向性を持たずして、エネルギーに関するいかなる技術革新や技術放棄もないと思われるからだ。手嶋論考に従うならば、情報収集の蓄積システムやリーダーの決断を補佐する枠組みと人材育成が肝心という事になる。もちろん、それを可能にするための透明性や利権構造の打破、その運動は必要であろう。

いずれにしても、この手嶋龍一の論考である意味、私の中では全てが解決してしまった。
過去にもあった。
日本赤軍のハイジャック犯との対決を決断できず、その要求(仲間の釈放)を正に超法規的措置によって受け入れてしまった福田赳夫首相(「人命は地球より重し」という名言は世界のテロリストを勇気つけ、自国においてはその後の拉致を促進させてしまうという正に‘天につば’となった)。また、阪神大震災の時、その軍隊嫌いから、早期の自衛隊出動命令の決断ができなかった村山首相(いたずらに死者、被災者を増やしてしまった。「なんせ初めての事じゃけえ」もまた名言である)。‘決めれない民主主義’と‘決めれる民主主義’という用語を使ったのは橋下新大阪市長だったが、なるほど、‘決断できない’というのが、日本の長い政治風土であるなら、それを見越した反原発派の全廃思想もあながち、誤りではない。ただ、それは国家になるべく主体性をもたせたくないという‘反国家思想’の顕れであろう。戦時中の数々の‘大決断’がカタストロフィをもたらせたという後遺症でもあるのかもしれない。日本はまだ、敗戦から立ち直っていないのだ。つまるところ。

吉本隆明はまたしても、今回、その進歩主義史観の立場から‘原発推進’の論陣を張る殆ど、唯一の論客となっている。即ち、‘核融合でエネルギーを生成することに成功した人類の歩みを止めてはならない。<人類>を放棄してはならない’と。この盲目的とも言える史的唯物論への信仰はある意味、宗教的感性とも言えそうで、ちょっとついていけないが、自分を基軸とした思考が今なお、成立しているところに単なるもうろくとは言えない凄みもあるだろう。

私の現時点での意見は原発の増設なしの現状維持。原子力と他の未来型エネルギーの研究、開発の同時推進。それらを産業の成長と国家の安全保障を前提とした国益重視の立場から随時、変更するというものである。


というわけでアンソニーハミルトンの新作『back to love』は最高。コメントなし。

2011.12.31


 











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Moritz Von Oswald Trio 「Horizontal Structures」

2011-12-02 | 新規投稿
   

ベルリンがテクノシーンの一つの拠点になり得たのは、電子音楽の伝統やエレクトリックビートのパイオニアを多く輩出した音楽的背景もさることながら、その経済的背景も大きいのではないかと思う。90年代以降の人の流れは少なからず経済的動機と共にある。不況が世界に蔓延する中、経済状態が他よりマシなベルリンは人の流入が顕著な一都市となった。定住者、流動者を問わず、人の往来という交通量が都市の経済的、文化的変容を促進する。それは良くも悪くもあらゆる変化を生んでいくのだろう。「移民同化政策は失敗だった」というメルケル首相の宣言は外国人を共同体の構成員とする理念が、その共同体を用意する側ではなく、参入する側によって打ち砕かれていった現実を反省したものだ。政府が優遇措置を施しながら‘お帰りいただく’政策を打ち出しても出稼ぎトルコ人は帰らない。それは ‘豊かな場所へと人は動く’という理由以外の行動原理はない事の証左であり、しかも人は自らの習慣を変えてまで高邁な理念への義務感は持てないという事か。

越境性を本質に持つテクノクリエイターにあって共同体とはそもそもネイションを意味しないし、多分にアナーキストな感性からくる、いわばビートを通じた人同士の快楽共同体といったものを漠然とでも意識しているであろうか。(「リズムネイション」という曲が昔あった)世界中からベルリンに来た異邦人クリエイターは都市の雑多性、無秩序性を逆手にとって表現を拡げ、シーンを豊かにしてきた。(最近は南米地域からのヨーロッパ、特にベルリンへの移動するアーティストが多いよう)

クラブミュージックは無言の音響であり、無思想な音波であろう。
従ってそのリズムは楽々と世界性を持ち、ネイションを無効にする。テクノが世界音楽たりえるのは言葉がない事でも説明できたが、リズムの普遍性以外にその根本的な理由はないに違いない。思想的な音楽やメッセージソングなどよりも遥かに大きなインターナショナル性を持ちえたテクノはそれを共同体や連帯といった理念ではなく、増殖する細胞分裂のように広がりを見せた。人種やナショナルの壁を開放し、‘疑似共同体’を形成したテクノ。

しかし、現実の世界はと言えば今後、むしろ各共同体がネイションの城壁を高くしながら、エリアの生活保障、‘部族’の安全というそれは本来の原理に向かうのではないか。それは図らずも他の共同体との対峙(これも本来の行動原理)を表裏一体とする事を意味してしまうのだが。ヨーローパの経済危機から私は共同体の枠を拡げる事のリスクを背負う事のできる思想的論拠も現実的体制もないことをイメージするし、人は自分の属する共同体の保全という近道を選択するしかない、そしてその共同体を嫌う者は移動を目指すしかないという反理想主義的現実主義(こんな言葉はない)の世界が待ち受けているのではないかと考える。ユーロに加盟した時点で粉飾申請だったギリシャをドイツ人が救わなければならない論拠は‘共同体’という理念である。ドイツは内側の共同体であるネイション(国家)の利益を外側の共同体(EU)に奉仕しなければならない。こんな連帯がいつまで持つのか。社会民主主義のリトマス試験紙たる欧州の岐路なのか。わからない。今日の新聞ではヨーロッパ共同債の導入の是非をめぐるメルケル首相の拒否を批判する他国の包囲網を論じてあった。強者が踏み絵を迫られるというのも共同体の行き着く欠陥なのか。記事は『市場はドイツの決断を注視している』と結んでいる。

~トリオという呼び名は必然的に3人が向き合う演奏を想起させ、あまりエレクトロ系のアーティストは使用しない気がするが、Moritz Von Oswald Trioのセカンドアルバムは正にジャズ系の即興音楽よろしく、その‘演奏性’が光る作品で前作よりパーカッシブな音響が熱さをも生んだテクノクリエイタートリオによるインプロヴィゼイションという稀な形態となった。しかも元来のミニマリストたるオズワルドの演奏に‘ミニマル’ならぬ‘シーケンス’的要素をも感じ、(どう違うんや?と聞かないでくれ。ミニマルよりシーケンスの方が小節単位の時間が長いという単なるイメージです!)そこにはコンラッドシュニッツラーやこれもトリオであったタンジェリンドリームのような様相を見せているのも興味深い。反復の流れに全員が乗るのではなく、対位があり、相反がある。Basic channelの音作りに散見されたリズムの散りばめ方はアフロ、原始を想起させる重層なビートを実現していたのだが、それを複数人数でセッションした時の新たな快楽性という新境地がここに表れているのかもしれない。しかも相変わらずリズムの音色がいいのだ。ミックスの段階で突き詰めるこの音の質感を‘間違えず’センスよくまとめるのはオズワルドの一貫した仕事の緻密さの表れでもあるが、それがここでも発揮されている。‘音色でパス’というエレクトロ音源がどれほど多い事か。ビートの強弱や音圧、トレブル感などの違和感で最後まで聴けないダブステップが一杯ある。と言うか殆どか。基本的に試聴せず音源を買うことが多い私はたくさん売り払いすぎて、今となっては何を買ったのかも忘れているほどだ。

Basic channelの設立者、モーリス・ヴォン・オズワルドが元PALAIS SCHAUMBURGだと知った時、同グループを‘リズムの一斉射撃’(確か、記憶違いでなければ)と評していた音楽雑誌「rock magazine」(この音楽誌はジャーマンニューウェーブを唯一、きちんとフォローしていた)の記述とつながった。ホルガーヒラー在籍時の初期PALAIS SCHAUMBURGのヘンなファンク(あまり好きではなかったが)は恐らく演奏の下手さからくるリズムのズレだったような気がするが(それとデヴィッドカニンガムのヘンなスネアの音処理)、クラブミュージック時代になり、そのズレを肯定的に電子化した時、それは素晴しいポリリズムとなった。しかもダブを加える事で、クラブのみならず、ルームリスニングに耐えうるテクノでもあった。そんなモーリス・ヴォン・オズワルドとは私が無条件にその音源を買うアーティストとしてマッドリブと並ぶ存在なのである。たまにつまらないのもあるにはあるが。

『Horizontal Structures』にグループ演奏の本質を感じた私は元来のエレクトロミュージックの快楽基軸とは違う気持ちよさを堪能しているが、最も近いのは、即興音楽、それもフリーフォーム系のジャズインプロビゼーション(ノイジーではないタイプの)だという感触があり、特に「structure 1」の中心に向かう波状といった音の動きに現在の先端的なヨーロッパジャズ(音響派の)の動向ともリンクされそうな気がする。ここにダブ処理されたホーンが入れば完璧に私の好みになるのだが。rhythm & soundで実現したアーシーとエレクトリックの理想的合体を実現させたオズワルドならできる予感がする。カールクレイグとのコラボではベルリンフィルハーモニーのチューバの短音をミニマルにしていた。あれをやってほしいのだ。できればサックスじゃなく、トランンペットかトロンボーンのダブでね。

2011.12.2
   
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