450年前に日本に宣教に来たキリシタン伴天連はキリシタンに「けれど」をまず教えた。「けれど」とはラテン語 Credo = 私は信じる、のポルトガル語訛りであり、きりしたんとなるために信ずべき信仰箇条である。きりしたんが信ずべき事柄はこの「けれど」の他にもいろいろあるが、しかし基本的な事柄として使徒たちによって伝承されてきたので「使徒信条」とも言われるのである。
「けれど」 Credo が一人称単数形であることは重要なことであると私には思われる。もちろん、信仰する個人が共同体をなして、Credimus われらは信ずると宣言することが「えけれじや」=教会を構成するわけであるが、信仰内容を信じ、守るのはひとりひとりの私である。きりしたんの集団洗礼とか集団棄教とかが問題にされるが、受洗のとき、あるいは棄教のときに、credo と宣言するか non credo と否認するかは、あくまでもひとりひとりの個人、私である。
大名によって命令され、あるいは勧められて受洗しても、それを受け入れたのは個人であり、棄教に際してもそれを決断したのは個々の人間である。
「けれど」 Credo が一人称単数形であることは重要なことであると私には思われる。もちろん、信仰する個人が共同体をなして、Credimus われらは信ずると宣言することが「えけれじや」=教会を構成するわけであるが、信仰内容を信じ、守るのはひとりひとりの私である。きりしたんの集団洗礼とか集団棄教とかが問題にされるが、受洗のとき、あるいは棄教のときに、credo と宣言するか non credo と否認するかは、あくまでもひとりひとりの個人、私である。
大名によって命令され、あるいは勧められて受洗しても、それを受け入れたのは個人であり、棄教に際してもそれを決断したのは個々の人間である。