ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

パンとサーカス

2022-03-28 08:49:30 | 日記・エッセイ・コラム
パンを食いながらの空中ブランコ、
とはちゃうで~。
ローマ時代の話で民を統治する要諦なんです。
この民とは市民または平民のことかと、奴隷ではないでしょう。
これは経済で言えば財とサービスであります。
しかして人間に必要な二大要素でもあります。
だからこそ統治の要諦となる。
・・・・・
これを私の言葉で言えば、
「もの」と「こと」と言うことになる。
物とは水や食べ物であり、
これは「身」にとって必要欠くべからずのもの。
事は体験であり学びや娯楽がそれで、
身には必ずしも必要ではないが、
「心」にとっては必要欠くべからずのもの。
そうなったのは言葉を持ったからです。
他の動物にも学びや遊びはある。
と言うか必要なものです。
ただし学びと遊びの区別はない。
それにそれは大人になるまでです。
大人になればほぼ無くなる。
生きることに特化するから。
人間はそうではない。
言葉を身に着けるまでは他の生物と同じ。
成長して多くの言葉を持つようになれば、
つまり大人になればそこは異なってくる。
言葉は一旦持ったら無くならないのです。
心魂が発する言葉はすべて心魂にかえり、
心魂を捉えて離れない。
再び発することが無くとも留まって離れない。
だからそれを塩梅せねばならない。
だからそれを始末せねばならない。
だから学びや娯楽が必要なのだ。
身が水や食べ物を求めるように、
心は学びや遊びを求める。
だからです、
だからのパンとサーカスなのだ。
それさえあれば民は治められる。
言いも言ったり、言いえて妙と。
なるほどと感心。
なるほどと得心。
・・・・・
ちなみに、
経済とは財やサービスの交換のことで、
経済成長とはこれを活発化させること。
それが今はお金の問題にすり替えられている。
まあ一理はある。
お金はその為の最も有能な道具だから。
たしかに経済にとっては要の柱である。
そこは分かるのです。
でもそれは手段であって目的ではない。
価値の主体ではないのだ。
あくまで秤である、触媒効果の大きな。
なのにそれが主体になっている。
そのように仕組まれたのだ。
特定の者の利益の為に。
胡散臭い限りです。
それに交換を活発化させるには大前提がある。
財やサービスが必要なのだ。
財やサービスの生産が必要なのです。
つまり人の働きが必要であり、
それこそが価値の本体である。
先のパンやサービスは市民や平民が相手だが、
彼らも働くだろうが多くは奴隷であったろう。
根底には奴隷制があったのだ。
それが旧大陸の歴史であった。
ときの経済はだから今とは違う。
奴隷の確保と使用が大事だった。
それを奴隷経済と謂う。
旧大陸はそういうことであったが、
考えてみれば今もかわらない。
思えば奴隷経済のままか。
多少オブラートに包んではいるが。
そのしるしは、
「会社は株主のものである」ということ。
こんな明白な宣言はなかろうに。
と思っている。
・・・・・
ところで日本は違うのです。
会社は株主のものではない。
あくまで役職員のものです。
何しろ最高神自らが働くのです。
機を織り稲を育て。
働きは誰のものでもない、
その人のものなのです。
そこに交換が発生するだけ。
昨今は欧米化してちょっと混乱してるが。
そんな国ですから、
パンとサーカスの意味合いが違う。
財とサービスの重要性は同じだが、
それはそうだが、
その初めより奴隷経済ではない、
民衆経済であったのだ。
だから私は言う。
日本は、
「パンとサーカス」ではなく、
「こめとおまつり」(米と祭礼)だと。
ちなみに祭礼とは学びや娯楽でもあるが、
本質は祈りです。
それが日本です。

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