ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

色は匂へど

2024-05-13 09:34:27 | 日記・エッセイ・コラム
日本語の50音表に似たもので、
イロハニホヘト~、があります。
かな文字47を一度だけ使用し、
ひとつの歌をうたいあげている。
まことに趣のあるいい歌である。
ゆえ所謂50音表とともに、
字母表として使われてきた。
ここでこれを持ち出すのは、
前に記した「あえいおう」の続きとしてです。
心が驚き「あ」、
心が惑い「え」、
心を収め「い」、のこの「い」を思うのです。
この歌はその「い」から始まる。
ところで、
普通目次の標題前には一二三などを使う。
それをイロハとすることもある。
最近は見ることがなくなったが。
それほどに重宝されていた。
てかそれがどうした?

・・・・・
私は思うのです。
言葉の初めは心の驚きか、驚きの震えか。
それが流れで合図となり、
終には意味を持つことに。
それは口から出る音(声)として。
そのときそれは単なる音ではない。
それが「い」である。
それは言(い)うの「い」である。
ここに「い」があり、
ここに言葉が始まる。
そこでこの「い」を思う。
これは「あえいおう」の真ん中にあって、
その謂は、
息の「い」であり、命の「い」であり、生きるの「い」である。
そこで聖書を思う。
旧約聖書エゼキエル書三七章。
・・
谷間に枯れた骨が満ちていた。
神はエゼキエルに言われた。
これらの骨に預言して言え。
エゼキエルはそれに従った。

しかして骨は繋がりそこに肉皮がついた。
しかしまだ生きてはいなかった。
息がなかったのである。
そこでさらに預言をすれば、
そこに息がはいった。
そしたらそれらは生き返り、
はなはだ大いなる群衆になった。
・・
ここでは命は息だと言っている。
ところで日本では、
亡くなることを「息を引き取る」という。
現下の死亡判定とは違うが。
息とは「い」の気であり、命とは「い」の血である。
かくて「いきる」は息することでつまり生きること。
行きるとも逝きるとも書けるが、
行きて逝きるが生きるに如かず。
良く出来ている、
出来過ぎている。
ところで漢字語の音読みに「いみ」というのがある。
意味と記すもの。
これも一応「い」ではあります。
でも一音一意からはズレている。
訓読みではないから。
しても妙に合致しているような。
まあ思い過ごしか、
それとも偶然か?
てかともかく「い」とはそんな音である。
それを思うのです。
・・・・・
それにしてもイロハ歌これは素晴らしい。
根底に仏教思想があるようだが、
そこに日本的情緒無常感が漂う。
弘法大師の作と言われていたが、
今は作者不詳とされている。
弘法大師は傑出した人物だから、
その作であっても不思議はない。
ところで、
今の学校ではどうなってるのだろう。
教材として残ってるのだろうか。
消されているのではと思う。
思えば言葉は音である。
その波動が伝わりそれが身体(特に耳)に届く。
後に文字が出来るがこれは実は届きにくいもの。
文字は波動を伝えない。
身体にはまったく響かない。
専らその一部(脳)で回るだけ。
そこは実に情緒情感には欠ける世界。
だからです、
イロハ歌の素晴らしさはここにある。
一音一意の心を歌にして届ける。
それは音韻・響きとして届ける。
しかも「い」から始まるのです。
何を思ったか「い」から始まる。
言葉の初めだと私が思う音。
もう感心するしかない。
それが字母表にもなる。
・・
イロハニホヘト
チリヌルヲワカ
ヨタレソツネナ
ラムウヰノオク
ヤマケフコエテ
アサキユメミシ
ヱヒモセス

ん!
・・・・・
人類は魔法使いである。
無類の魔法使いである。
してもこのことに無頓着です。
しかして戦後世界、
神は追いやられた。
魔法も非科学的と言われて追いやられた。
でも少しだが復権の兆しあり。
映画やアニメなどではその様である。
しても魔法使いとは又面妖な。
そう思うなら、他の生き物に聞けばいい。
彼らから見れば人類はまさに魔法使いである。
誰よりも速く走り、空を飛び、水に潜む。
山を砕き谷を埋め、見えない物さえ操る。
これが魔法でなくて何なのか。
この魔法には種がある。
それは言葉である。
これが種のすべて。
でもいま人類は危うい。
自分が魔法を持っているのに、
それを持っているのを知らず、
その魔法に憑りつかれている。
その有様は、
もはや夢遊病者の如し。
嗚呼!

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