猫の話である。
随分前からですが日本はペットブームです。
私の小さい頃は猫はそれほどではなく、
ペットの主流は犬であった。
とはいえ猫も愛されていた。
もともと愛玩もあるが生活に必要な存在でもあった。
犬は猟犬や番犬として有用であったし、
猫はやはり鼠対策だろうか。
今はもっぱらペット(愛玩)のよう。
そも一緒におれば愛着も湧いてくる。
私が子供の頃は犬も猫も飼っていたことがある。
そのときから私は猫派であった。
今は猫の方が人気があるようで。
ネット検索すれば幾らでも見られる。
私もちょいちょい見ている。
・・・・・
そこでの保護猫の話である。
野良猫も同じだろうが、
非常に警戒心が強いのです。
とにかく狭いとこ狭いとこにと、
なんでそんなせまい所にと思う。
ともかくもやはり怖いのだろう。
猫は犬と違って群れを作らない。
また身体も小さく絶対的に弱い。
かわりに身軽ですばしっこいが。
だからせまい所に身を隠す。
そして隠し隠し生きる。
保護猫の多くは野良であろうし、
そういうことになるのでしょう。
そうでない家猫には武器がある。
それはその可愛らしさです。
それが最大の武器です。
まことにまことに。
てか愛らしさの話ではない。
せまい所を好むという話である。
これは人間もそうかと。
身を守るのはせまいところ。
守りを固める条件のひとつ。
人も動物だからそこは同じ。
更に人は言葉を持った。
これが身体だけでなく心魂を露わにする。
意識と言ってもいいだろう。
それが広大無辺の世界の中でうろたえる。
その納めどころがないのだ。
だからそれを探すのである。
であるがそれは言葉に依ってである。
言葉が成すものは言葉でしか納められない。
ゆえにそれが心魂を納める。
そしてその言葉を宗とする。
宗教の始まりである。
だから言ったのです、
これは必要なものと。
はて、
猫から宗教に、
まあいつもの言葉遊び、
まことに勝手な言葉遊びである。
ところで、
ここで神道を思う。
これも宗教に違いないかと。
でも他の宗教(特に一神教)とは違います。
一般的には教義があります。
宗としての言葉であります。
これは個々の言葉の意味に意味がある。
してもそれは人の言葉です。
しかもそれを絶対化させる。
でなければ宗教とは言えません。
さりながら神道には教義がない。
宗としての言葉がないのだ。
これは人の言葉を宗とはしない、とのこと。
それは神の言葉を真似てるだけのもの。
神の言葉はいつも目の前にある。
目の前の現実・現象の内にある。
これは聖書が記しているとおり。
神の言葉が現実を創るのだから。
しかしてこの「神」という字が、
日本語が聖書のまんまだと示す。
それはその字の姿に現れている。
神は「神」と記すのだが、
それは「示して申す」である。
神と謂う字は神の言葉そのもので、
それをヨハネは言葉は神そのものだと。
つまり神は神だと。
まことにまことに、
・・・・・
だから私は所謂宗教には懐疑的。
それはそれに替わるものがあるから。
それは「神」である。
これは現実(自然と言ってもいい)の中にある。
自然の中にいつでも・どこでもある。
これを私は「かたわら」と言う。
これはだから一々意識はしない。
なぜなら「いつでも・どこでも」だから。
それは無意識と謂う意識の中にある。
ゆえにこれは言葉ではない、
これは生命そのものであり、
それが生き方に体現される。
その生き方を随神の道・自然の道と言い、
(かんながらのみち・じねんのみち)
それを一般的には神道とかいう。
これも宗教と謂えば宗教である。
既に言ったが、
宗教とは教義(人の言葉)を宗とするもの。
神道は違う、
これは自然(神の言葉⦅の顕現⦆)を宗とするもの。
だから日本人は今も楽園にいるのです。
なのに、
世間ではこれを原始的アニミズムとか言う。
まったくもっての勘違いだ。
てか、
猫(の話し)が神に化けた。
なんてこった、
おお怖!
随分前からですが日本はペットブームです。
私の小さい頃は猫はそれほどではなく、
ペットの主流は犬であった。
とはいえ猫も愛されていた。
もともと愛玩もあるが生活に必要な存在でもあった。
犬は猟犬や番犬として有用であったし、
猫はやはり鼠対策だろうか。
今はもっぱらペット(愛玩)のよう。
そも一緒におれば愛着も湧いてくる。
私が子供の頃は犬も猫も飼っていたことがある。
そのときから私は猫派であった。
今は猫の方が人気があるようで。
ネット検索すれば幾らでも見られる。
私もちょいちょい見ている。
・・・・・
そこでの保護猫の話である。
野良猫も同じだろうが、
非常に警戒心が強いのです。
とにかく狭いとこ狭いとこにと、
なんでそんなせまい所にと思う。
ともかくもやはり怖いのだろう。
猫は犬と違って群れを作らない。
また身体も小さく絶対的に弱い。
かわりに身軽ですばしっこいが。
だからせまい所に身を隠す。
そして隠し隠し生きる。
保護猫の多くは野良であろうし、
そういうことになるのでしょう。
そうでない家猫には武器がある。
それはその可愛らしさです。
それが最大の武器です。
まことにまことに。
てか愛らしさの話ではない。
せまい所を好むという話である。
これは人間もそうかと。
身を守るのはせまいところ。
守りを固める条件のひとつ。
人も動物だからそこは同じ。
更に人は言葉を持った。
これが身体だけでなく心魂を露わにする。
意識と言ってもいいだろう。
それが広大無辺の世界の中でうろたえる。
その納めどころがないのだ。
だからそれを探すのである。
であるがそれは言葉に依ってである。
言葉が成すものは言葉でしか納められない。
ゆえにそれが心魂を納める。
そしてその言葉を宗とする。
宗教の始まりである。
だから言ったのです、
これは必要なものと。
はて、
猫から宗教に、
まあいつもの言葉遊び、
まことに勝手な言葉遊びである。
ところで、
ここで神道を思う。
これも宗教に違いないかと。
でも他の宗教(特に一神教)とは違います。
一般的には教義があります。
宗としての言葉であります。
これは個々の言葉の意味に意味がある。
してもそれは人の言葉です。
しかもそれを絶対化させる。
でなければ宗教とは言えません。
さりながら神道には教義がない。
宗としての言葉がないのだ。
これは人の言葉を宗とはしない、とのこと。
それは神の言葉を真似てるだけのもの。
神の言葉はいつも目の前にある。
目の前の現実・現象の内にある。
これは聖書が記しているとおり。
神の言葉が現実を創るのだから。
しかしてこの「神」という字が、
日本語が聖書のまんまだと示す。
それはその字の姿に現れている。
神は「神」と記すのだが、
それは「示して申す」である。
神と謂う字は神の言葉そのもので、
それをヨハネは言葉は神そのものだと。
つまり神は神だと。
まことにまことに、
・・・・・
だから私は所謂宗教には懐疑的。
それはそれに替わるものがあるから。
それは「神」である。
これは現実(自然と言ってもいい)の中にある。
自然の中にいつでも・どこでもある。
これを私は「かたわら」と言う。
これはだから一々意識はしない。
なぜなら「いつでも・どこでも」だから。
それは無意識と謂う意識の中にある。
ゆえにこれは言葉ではない、
これは生命そのものであり、
それが生き方に体現される。
その生き方を随神の道・自然の道と言い、
(かんながらのみち・じねんのみち)
それを一般的には神道とかいう。
これも宗教と謂えば宗教である。
既に言ったが、
宗教とは教義(人の言葉)を宗とするもの。
神道は違う、
これは自然(神の言葉⦅の顕現⦆)を宗とするもの。
だから日本人は今も楽園にいるのです。
なのに、
世間ではこれを原始的アニミズムとか言う。
まったくもっての勘違いだ。
てか、
猫(の話し)が神に化けた。
なんてこった、
おお怖!