ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

ぬこの話

2024-04-08 09:43:31 | 日記・エッセイ・コラム
猫の話である。
随分前からですが日本はペットブームです。
私の小さい頃は猫はそれほどではなく、
ペットの主流は犬であった。
とはいえ猫も愛されていた。
もともと愛玩もあるが生活に必要な存在でもあった。
犬は猟犬や番犬として有用であったし、
猫はやはり鼠対策だろうか。
今はもっぱらペット(愛玩)のよう。
そも一緒におれば愛着も湧いてくる。
私が子供の頃は犬も猫も飼っていたことがある。
そのときから私は猫派であった。
今は猫の方が人気があるようで。
ネット検索すれば幾らでも見られる。
私もちょいちょい見ている。
・・・・・
そこでの保護猫の話である。
野良猫も同じだろうが、
非常に警戒心が強いのです。
とにかく狭いとこ狭いとこにと、
なんでそんなせまい所にと思う。
ともかくもやはり怖いのだろう。
猫は犬と違って群れを作らない。
また身体も小さく絶対的に弱い。
かわりに身軽ですばしっこいが。
だからせまい所に身を隠す。
そして隠し隠し生きる。
保護猫の多くは野良であろうし、
そういうことになるのでしょう。
そうでない家猫には武器がある。
それはその可愛らしさです。
それが最大の武器です。
まことにまことに。
てか愛らしさの話ではない。
せまい所を好むという話である。
これは人間もそうかと。
身を守るのはせまいところ。
守りを固める条件のひとつ。
人も動物だからそこは同じ。
更に人は言葉を持った。
これが身体だけでなく心魂を露わにする。
意識と言ってもいいだろう。
それが広大無辺の世界の中でうろたえる。
その納めどころがないのだ。
だからそれを探すのである。
であるがそれは言葉に依ってである。
言葉が成すものは言葉でしか納められない。
ゆえにそれが心魂を納める。
そしてその言葉を宗とする。
宗教の始まりである。
だから言ったのです、
これは必要なものと。
はて、
猫から宗教に、
まあいつもの言葉遊び、
まことに勝手な言葉遊びである。
ところで、
ここで神道を思う。
これも宗教に違いないかと。
でも他の宗教(特に一神教)とは違います。
一般的には教義があります。
宗としての言葉であります。
これは個々の言葉の意味に意味がある。
してもそれは人の言葉です。
しかもそれを絶対化させる。
でなければ宗教とは言えません。
さりながら神道には教義がない。
宗としての言葉がないのだ。
これは人の言葉を宗とはしない、とのこと。
それは神の言葉を真似てるだけのもの。
神の言葉はいつも目の前にある。
目の前の現実・現象の内にある。
これは聖書が記しているとおり。
神の言葉が現実を創るのだから。
しかしてこの「神」という字が、
日本語が聖書のまんまだと示す。
それはその字の姿に現れている。
神は「神」と記すのだが、
それは「示して申す」である。
神と謂う字は神の言葉そのもので、
それをヨハネは言葉は神そのものだと。
つまり神は神だと。
まことにまことに、
・・・・・
だから私は所謂宗教には懐疑的。
それはそれに替わるものがあるから。
それは「神」である。
これは現実(自然と言ってもいい)の中にある。
自然の中にいつでも・どこでもある。
これを私は「かたわら」と言う。
これはだから一々意識はしない。
なぜなら「いつでも・どこでも」だから。
それは無意識と謂う意識の中にある。
ゆえにこれは言葉ではない、
これは生命そのものであり、
それが生き方に体現される。
その生き方を随神の道・自然の道と言い、
(かんながらのみち・じねんのみち)
それを一般的には神道とかいう。
これも宗教と謂えば宗教である。
既に言ったが、
宗教とは教義(人の言葉)を宗とするもの。
神道は違う、
これは自然(神の言葉⦅の顕現⦆)を宗とするもの。
だから日本人は今も楽園にいるのです。
なのに、
世間ではこれを原始的アニミズムとか言う。
まったくもっての勘違いだ。
てか、
猫(の話し)が神に化けた。
なんてこった、
おお怖!

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