ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

教(こと)と道(こと)

2024-01-08 10:29:07 | 日記・エッセイ・コラム
大晦日の零時過ぎ、
つまり新年の始まりで、
NHKの ニュースで、
天皇陛下が書面でお言葉を発表されたと、
それに続いて岸田首相の今年の抱負とを、
報じていた。
その前の「ゆく年くる年」のあとで。
なかなかに感じ入りました。
今の世界を案じ国民の生活を案じて。
それは微妙に呼応していて。
ともかくも、
新年は気を新たにするとき。
あらためて、
想うのです、
天皇陛下の祈りとともにと。
にしてもだ、
何じゃこら、
新年早々のこの大災害、
宮中一般参賀は残念ながら中止。
それにしてもどうなってるのか、
今年は…、
何とも出鼻を挫かれて。
・・・・・
「こと」は流れるもの。
それを点として捉えればそれは「こと」の「は」、
つまり「ことば」です。
教とは老人が子供と交わっておしえること、
教とは子供が老人と交わっておそわること。
教とはそういう姿形で、
それは言葉を教え教わること、
それを知識知恵と言ってもいい、
教とはそんな文字です。
だから標題で(こと)とした。
教の要は言葉ですから。
「こと」は流れるもの。
「こと」は聖書ではすべて神の技なり。
この世界はその技跡で成っており、
振り返ればそこに「みち」がある。
「みち」とは道であり、
その道は無数にあるが、
人はそこを生きて来た。
であるが向きを戻せば、
そこに「みち」はない。
それはこれからできる「みち」。
その「みち」とは未知という。
エヘン、得意の親父ギャグ。
ギャグはともかく、
道とはそも神の道、
未知も含めてすべて神の「みち」。
その道を生きるヒトは、
「こと」に生れ「こと」を生き「こと」に帰る。
それもまた道であるが、
それはいわゆる人の道。
でもその深奥は神の道。
・・・・・
標題で道も(こと)とした。
その謂いは上記の通りだが、
それはすべて聖書の冒頭に。
はじめに神は天と地とを創られた。
そして光あれと言われたらそこに光があった、
そこからさらにほかの「ものこと」を。
ところで、
なぜ「教と道」としたのか。
それは宗教と神道の違いを示すため、
宗教とは特定の言葉を宗(むね→たっとぶ)とすること。
教義ありきなのである。
それも人の言葉である。
現に人の言葉で記されている、
例え元が神の言葉と雖もです。
それを思う。
それにです、
寺や教会は学ぶ場である。
教とは教え教わることで、
それは学ぶ場ということ。
だからそこは人が住まい暮らすところでもある。
実に人間臭い所なのです。
来訪者が来れば宿泊施設ともなり、
ときに会議の場ともなる。
だから今で言えば、
大学であり、迎賓館であり、会議場である。
織田信長が上京すれば、
いつも本能寺に泊っていたように。
安国寺の恵瓊らが、
戦国大名の政治顧問をしていたのも同様か。
今で謂うシンクタンクだったのか。
だから彼らは俗世を離れて勉学に専念した。
基本的に出家していたのです。
神道は専らに神を祀る。
神威を感ずるもの場を聖別して祀るのです。
そこに結界を貼り、日々清浄を保って。
ときに人の出入りも制限して。
宗教とはまったく違うのです。
神官は基本的には在家である。
祈りを捧げるときは、
潔斎をし居住まいを糺してはいる。
では何を祈るのか、
それは人々の安寧と日々の幸せである、
と私は思っている。
個々の願いは様々であろうが、
煎じ詰めればそういうことに。
我々も同じこと、居住まいを糺し、礼を以って祈る。
そのことに意味があると。
実に神道とは祈りである。
ここに教と道の違いはあきらかかと。
ですが先に記した通り、
大元は「こと」である。
そこは同じです。
日本は神仏習合ですが、
神仏は初めから習合しているのです。
それを敢えて言うのは、
その違いをしっかり受け止めてのことか。
してもこの言葉は普段は使われない、
それに意識に上ることもない。
それが答なんだろうと。
・・・・・
ちなみに、
仏教とは本来仏道だと思っている。
お釈迦様の本意は教にはなく、
修業を通して悟りを開くこと。
そこへ導く為には言葉も必要だと、
そういうことかと。
弟子たちがその逐一を残している。
それが経典の数々。
西遊記でお馴染みの三蔵法師がそれを求めて旅をした。
そして多くの経典を携えて国に帰った。
帰ってからはその翻訳に没頭したとも。
ときに言葉が前面に出てくる。
だから今や宗教ということに。
もちろんそこには祈りも有る。
それは神ではなく仏への祈り。
世界の一神教もこれに似たり。
神への祈りはない。
あるのはゴッドやアッラーやヤハウェへの祈り。
それらは皆個人名である。
日本は違います。
それは「かみ」であり、漢字では「神」と記す。
これは聖書にも呼応している。
示す偏に申すである。
神の力の源泉であり、
ヨハネはそれは神そのものだとも言う、
それは神の口から出る言葉である。
その「かみ」を祀るのはこの日本だけ。
神道は原始的宗教でもアニミズムでもない。
その始まりから神道は神道なのだ。
多分現代文明の基であろうと。
・・・・・
それにしても祈りの国・日本が、
今年は正真正銘出鼻を挫かれた。
怒り心頭である。
もちろん神への怒りではない。
くだらん人間への怒りである。
気象兵器や地震兵器が言われて久しい。
火の無いところに煙は立たぬ。
断層がなければそれは起こせない。
断層があればそれは効果的に起こせる。
それぐらいの技術はあるのです。
今回がそれにあたるかどうかは分からないが。
でも昨今の日本や世界の情勢を見れば怪しい。
実に怪しい。
てか私は疑っている。
台湾からの速やかな救援は断る?
米軍の救援は受ける?
何か都合の悪いことでも。
あの過去と違うのは、
空母が事前に展開していなかったこと。
ところで、
天皇陛下は何があっても怒りを身に纏わない。
そういう御存在なのです。
だからもう破れかぶれだ、
たとへ勘違いであっても、
クソ見当違いであっても、
替わって私が怒りを爆発、

コメのデイエスの糞野郎、
このスットコドッコイが。
バイバイデンさようなら。

面目ない…、
罵詈雑言のボキャブラリ不足で、
御免なさい。

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